90年代の日本企業では、経営者が従業員に対して「経営者意識を持って仕事に臨め」「つねに強い危機感を持て」と檄を飛ばしている場面がしばしば見られた。
実際に企業で従業員が経営者意識を持ってしまったら大変なことになる。
従業員が役員をクビにしたり、上司を人事異動したり、収益を再投資したりが理論的にはできてしまう。
しかしここで経営者が従業員に対して言った「経営者意識」とは、利益を生みなさい、株主にお金を与える仕事をしなさい、といった意図で伝えようとした建前である。
「つねに強い危機感を持て」と言われても、経営者が持つ危機感は、収益や資金繰り、新規事業、新規投資先、従業員の給与といった危機感で、従業員が持つ危機感は明日の生活や月給、昇進・昇給、休暇、福利厚生、などが、働きに見合って十分に得られるか(やりがいがあるか)といった危機感である。双方の危機感には大きな違いがある。
最近、「副業」に関するプロと話す機会があり、ふと、上記を思い出した。
企業における経営者の建前と従業員の理解、双方の危機感という意識の乖離。これら時代の流れによる大きな変化が、副業というキーワードから見えてきたのだ。
収益と経営力を最大化する手段としての副業
一昔前に副業というと、そもそも企業が禁止していたり、隠れ内職やオンラインビジネスのような、従業員が表立ってできるものではなかった。
情報漏洩や、従業員の帰属意識の低下などの理由から、とくに大企業では副業の認可などありえなかった。
ところがいまや、大企業がこぞって従業員の副業を認めている。
昨年には日本郵政グループまでもが副業を認可しはじめた。
経営者が持つ収益と経営力を最大化させたいという危機感と、従業員が持つ、見合った対価とやりがいを得たいという双方の危機感を解消する手段として、副業が企業の中に導入されているのである。
「小さく」なった企業の存在
副業には、従業員が持つ自分の体と時間という「資本」を、在籍企業ではない他企業に自由投資する、という意味がある。ゆえに副業は一種の「従業員の経営者意識」を表現する機会でもある。
150年前、貴族や大資産家といった既得権や貨幣といった資本を持つ者と、そうでない者との間に、人間の本質を疎外するネガティブな格差が発見された。その格差の原因は資本主義経済と名付けられた。「それはまずい」と、共産主義経済という新しいロジックが発明された。しかしロジック先行で作られた経済は時代の流れにおける「資本」の強さの中で埋もれていってしまった。
経営者意識が身についた従業員は、資本主義の大原則である「安く買って高く売る」の原理を副業先選択に導入する。つまり、自分を最も高く売れる場所を探す。
そして、企業が副業の仕組みをこぞって導入し、従業員もそれを利用するのは、双方の「危機感」の表れである。
自分の体と時間という資本を知ってしまった従業員は、より有利な副業先を選択するために、技能を磨き、技能のポートフォリオを増やす。
従業員にとって副業という制度自体がスキルアップのモチベーションになったり、ひいては収入アップや、本籍企業での不足分給与を補うというというモチベーションにもつながる。
従業員の技能が上がれば、当然本籍を置く企業や株主にとってもプラスである。おまけに、企業研修や検定コースを企業が用意するコストも削減できる。
企業は従業員を囲い込んで使うことが困難で、従業員も企業に依存して給与やスキルを手にすることも困難な時代だ。
ある意味、企業という大きな枠組みの中で経営者が従業員をコントロールして使い、従業員も使われるといった旧来の構造では、企業が価値(収益と社会的な存在感)を生みづらい。
そうした、変化への対応必要性といった危機感を背景に、企業が価値を生むための手段として、副業は社会現象化している。
言い換えると、それだけ企業は「小さく」なっているのである。
自分の体と時間という「資本」のオーナーシップ
情報漏洩の問題や、副業先が見つからない、うまくいかない、といった、いままでにもあった副業にまつわる課題はこれからも出てくるであろう。
そんな課題を解決するためにも、従業員はどこで働くのかではなく、なにをするのか、どういったスキルを身につけるのか、に注力したほうがよい。「AIに仕事を奪われる職種」をテーマにした話題をよく耳にするが、それよりも、「AIに仕事を奪われる人物像」を議論したほうが有益である。
副業の時代にも、どんな会社でどんな副業先を選択するのか、ではなく、どんなスキルを持った人物としてどう働くのかに焦点を当てたほうが、ブレずに、実のある仕事ができる。言い換えると、副業の時代は自分の進化を磨くためのチャンスに満ち溢れている。
自分の体と時間という資本のオーナーシップを自己所有し、他企業に自由投資するのだ。これが、副業のこれからのとらえ方である。