本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

作家を育てた特殊な父子関係を手紙から読む(2) ~フランツ・カフカ著『父への手紙』 新潮社『決定版カフカ全集3』より~

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前回からの続き。

 敏感な子供心は大人の矛盾をキャッチする。
 しかしそれを言葉で口にすることはできない。
 カフカの精神的プレッシャーは高まる。

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 「口答えはやめろ!」という嚇しと、そのさいに振りあげた手とは、すでに幼児期から付きまとっていました。......しかしやがてあなたのまえでは考えることも話すこともできなくなったため、ぼくはついに沈黙しました。
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 たび重なる恐怖心から、カフカは自己防衛のために「沈黙」というテクニックを身につける。

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 ぼくは完全に黙りこみ、あなたからこそこそと逃げ、あなたの勢力がすくなくとも直接には及ばない所まで離れてから、ようやく身体を伸ばそうとしました。だが、そこにも、あなたが立ちはだかっておられた。
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 父親の暴君的な人格が災いしているのか、あるいは息子への大きな期待がそうさせるのか、はっきりしないが、カフカ自身が言うように、父親は人格的に問題がある。

 たとえば、カフカがあることに夢中になってそれを報告しようと家へ飛んでいくと、父親はなにを意図してか、「もっと素晴らしいものだって見たことがあるよ」「もっとましなもの買えよ!」などと息子の否定にかかる。

 暴君であればあるほど、その人の恐怖心は人一倍強い。その恐怖心とは、自分の手から権力が離れていってしまうというそれだ。あらゆる手段を使って暴君は権力の保持に努める。

 暴君としてのアイディンティティ(権力を持っているという)を保つために父親は子供を否定するのだろうか。親子の間で一種猟奇的なこの心理は容易に理解できない。

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 ぼくが何かあなたの気に入らぬことを始めると、あなたはきまって、そんなものは必ず失敗すると嚇しました。そう言われてしまうと、あなたの意見にたいするぼくの畏敬がじつに大きかったので、時間的には先のことであるにせよ、失敗がもはや避けられないものになってしまうのでした。ぼくは、自分の行為にたいする自信を失いました。
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 これは作家の父との物語としてだけではなく、「どうしたら子供にトラウマを作れるのか」という反面教師を学ぶ教育論としても読める。

 読み続けるとカフカが可哀想になってきてしまう。カフカは40代で早死にしてしまうものの、よくも立派に生きてきたものだ。

 そこで、彼を生き延びさせたキーワードがある。次の文に隠されている。「逃走」である。つまり彼は内面的な逃走(精神内にもう一つの現実空間を構築する術)により生きることができた。それがのちの創作へと発展する。 
 
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 こうしてぼくは、不機嫌で、不注意で、不従順な子供になり、つねに逃走を、たいていは内面的な逃走をこころがけたのです。
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 カフカは自分が生き延びる方法を発見できたので、ある意味不幸中の幸いだったと言える。ここまで人間追い詰められれば、高い確率で人生に破綻をきたす。

 先を読み進めてみる。

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 あなたが実際にはぼくをほとんど一度も殴らなかったこと、これもまた事実です。しかし、あなたが怒鳴り、顔を真っ赤にして、いそいでズボン吊りをはずし、いつでも振りまわせるよう椅子の背にかけておかれるのは、ぼくにとって、殴打よりもっとひどいことでした。まるで絞首刑を申し渡されるようなものです。それで実際に吊されるものなら、すぐ死んで、なにもかも過ぎ去りましょう。ところが絞首刑のすべての準備に立会わされ、綱が顔のまえにぶらさがってきたところで、はじめて恩赦を知らされるのでは、生涯その恐怖に苦しみつづけることになりかねません。
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 「実際にはぼくをほとんど一度も殴らなかった」と言うように、恐怖は精神的なものであることは明らかだ。人一倍感受性が強いカフカは、否定され、自信を踏みにじられ続けた経験から、自分の精神の中に監獄を作ってしまった。

 いうなれば彼は、父親の存在により自我が構築した精神的監獄の囚人だ。

 前半は、カフカの幼児期という過去の事柄が手紙のテーマであったが、後半は、カフカの職業や結婚に関する父親との関係が語られている。

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 ......あなたが店で怒鳴り、罵倒し、激怒するのを聞き、見たのです。それは当時のぼくの子供心には、世界中にまたとない荒れようと映りました。あなたはまた、ただ口で叱るばかりでなく、他の暴君ぶりも発揮しました。たとえば、あなたが思っているのとはちがう商品を取違えて差出そうものなら、あなたはとっさにそれを陳列台から払いおとし--その場合あなたの怒りの無思慮さだけがわずかに救いでした--番頭が拾い上げねばなりませんでした。
 ......結局ぼくは、こうしてほとんど商売を恐怖するところまで行ったのです。
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 カフカの父親は小間物商として従業員を何人も使っていた。本人は丁稚から入って腕一本で食べていけいるところまでのし上がってきたのだから、そうしたワンマン経営者にありがちな傲慢さは自身の働きぶりにもついつい出てしまう。

 たとえば、社長にボールペンを持ってこいと命令されて、部下が間違えてシャープペンを持ってきたらその場でそれを投げつけられてしまうようなものだ。

 投げなくったっていいだろう。嫌な社長である。こういう人と積極的に働きたいという人はまずいない(個人的にもこういう人とは働きたくないし、こういう人になりたくもない)。

 そういった仕事の現場をカフカは嫌というほど見せつけられたので、「商売を現実のうえでこころから憎悪しています。」と本人は断言している。

 彼の超絶に鋭い感受性をフル活用できる、憎悪する商売から逃避するための逃げ場の発見が、創作であった。

 父親はユダヤ教に対する確信を持っていたがさほど信心深くもなく、むしろ息子がユダヤ教に関する事柄に深入りする時期と並行して、息子の関心への嫌悪感も増加していった。息子が持った関心とは、ものを書くという創作行為だった。カフカは創作という、言語による仮想の空間を、自分がリアルに生きるべき世界として発見した。 

 象徴的な事柄として、カフカが新作を書き上げて、父親に献本しようとしたときのエピソードがある。

 著書を手渡すと、父親は「テーブルの上に置いておいてくれ!」(たいていはトランプをしながら)という台詞を残して看過した。父親はトランプに夢中で、息子の労作になど目もくれなかった。

 この話はカフカの仲間内で一つの事件として語りぐさになったらしい。

 しかしエピソードは否定的な語りぐさではなく、むしろカフカにとっては肯定的なそれであった。「テーブルの上に置いておいてくれ!」は彼の耳に「勝手にしろ!」と響いたので、彼はそれに自由を感じたのである。

 彼に与えられた唯一の自由の現場が、書く、という場所だった。

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 ぼくはいつだって、自分がおかれた状況のなかでけっして怠惰ではないと思うのですが、これまではやる事が無かったのでした。そして自分の生き甲斐があると信じたところでは、非難され、こき下ろされ、叩きのめされました。どこかへ逃げだすことは、たしかに緊張を要しましたが、そんなものは仕事ではありません。逃げること、それはしょせんぼくにとって、全力を尽しても、小さな例外を除いてとうてい達成できない不可能事だったからです。
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 学問へも無期待。職業へも無期待。無期待でありながらなんとかやっていけそうな職業に彼は法曹界を見出したとも語っている(カフカは大学では法学を専攻し、学位を手にしている)。

 次回は、カフカ自身が語る結婚観を読んでみる。

(全4回、次回に続く

三津田治夫

作家を育てた特殊な父子関係を手紙から読む(1) ~フランツ・カフカ著『父への手紙』 新潮社『決定版カフカ全集3』より~

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 西洋文化を見渡すと、ツルゲーネフの『父と子』やモーツアルトの手紙、あるいはフロイト精神分析においても、あちらこちらで「私-対-父」という構図が目に入る。

 カフカという作家はその典型というか、父との関係と作家としてのカフカの精神構造が濃厚にリンクしている。

 カフカと父との関係を一言で言うと、「小さな僕と、動かしがたい壁」みたいな感じだ。

 なかなか目的地にたどり着けない『城』や門番が理由もなく門を通してくれない『掟の門』は、父という巨大な存在の象徴といわれる。

 また、息子が毒虫に変身してしまう『変身』や、オドラデクという星形の小動物が主人公の『父の気がかり』は、自分が小さな動物に縮小することであまりにも大きな父の存在を相対的に表現しているともいわれる。

 こうしたカフカと父親の独特な関係は、自伝のような形で残されている。

 『父への手紙』(手紙というが実際には父には渡されなかった)は、1919年11月、カフカが36歳のときに書かれたものだ。36歳といえば、40歳で亡くなった彼にとっての晩年にあたる。

 作家というものはとても可哀想で、大物になってしまうと読んでもらいたくない手紙まで全集に組み込まれて、世界中の読者や評論家の目にとまり、プライバシーもへったくれもない。

 ましてやカフカみたいに遺族がいない(ちなみに妹はナチスユダヤ強制収容所に連行され全員殺されている)作家となると、生存時の情報は丸裸になる。

 これからの作家や哲学者、科学者など、世に言われる大物は、残された情報が膨大でかつネット上にも分散しているので、仮に遺族が「この情報は出さないで欲しい」と訴えても、なかなかそれは難しくなるだろう(最近はデジタル上のデータを本人の死亡と共に削除してくれるソフトウェアやサービスがあるらしいが)。

 では、『父への手紙』を読みながら、カフカと父親の関係は一体どういうものにあったのかを見ていきたい。

 書き出しからしてこうくる。
 
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 愛する父上
 最近あなたはぼくに、どうして父親のあなたを怖いなどというのか、その理由を尋ねられました。
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 いつものように返答できずにいたが、その理由はあなたに対する恐れがあったからであり、その恐れの原因を明確にするにはあまりにも多くて口では語れず、こうして文章にしているが、どこまで書けるのかわからないほど恐れの要素が多い。そうカフカは言う。

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 父親としては、あなたはぼくにとって強すぎました。とりわけ、弟たちが幼くして死亡し、妹たちはずっと年が開いているので、なににつけぼくが最初の衝撃をひとりで持ちこたえねばならず、そのためには、ぼくがあまりにも弱すぎたのです。
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 カフカは4人兄弟の長男で下はすべて妹だったから、長男としてのプレッシャーは高かった。ましてや実家が小間物商で、家業を継ぐという家父長的な重責も負っている(しかしカフカは家業を継がずに保険局の勤め人になっている)。

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 あなたは子供を、まさにあなた自身の在りようにもとづいてしか、つまり腕力と、怒声と、癇癪によってしか扱えません。しかもぼくの場合、この方法は、あなたがぼくを逞しい勇気のある少年に育てようと望まれていてただけに、なおさら適切だとあなたには見えたのです。
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 長男として力で根性を植え付けようと父親は試みたが、その行為は度が過ぎている。

 たとえば、カフカの幼少時代の記憶で、真夜中に水をほしがりむずがったとき、父親にベッドから抱え上げられ、下着のまま屋外に立たせっぱなしにしておかれたらしい。時代背景があるとはいえ、これは幼児虐待だ。

 「あの後、ぼくはすっかり従順になりましたが、内面的に、ある深い傷をうけました。」と手紙の中でカフカ自身が告白するように、本人の人生に深い刻印を残す。

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 ぼくに必要だったのは、すこしの励ましと優しさ、わずかだけぼく自身の道を開いておいてもらうことだったのに、あなたは逆に、それを遮断してしまわれた。もちろん、ぼくに別の道を歩ませようとの善意からです。
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と書かれているように、カフカに対して強引な指導が行われていたことがわかる。

 いうなれば父親は教育者ではなく暴君だ。

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 そして最後に残るのはあなた一人なのです。ぼくにとって父上は、すべての暴君がもっている謎めいたものを帯びました。暴君の暴君たるゆえんは、思想ではなく、人格そのものにあるからです。すくなくとも、ぼくにはそう見えたのでした。
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 暴君の暴君たるゆえんは、「おまえはやっちゃダメだけど俺はいい。だって俺がおまえを守ってあげているのだから」という思想にある(ex.「平和のために核兵器を持つのはいけないことだが俺は持ってもいいんだ」という某国の言い分もそれに近い)。

 『手紙』によると、カフカの父親のテーブルマナーに関する説教とそれに対するカフカの見解は次の通りだ。

骨をかみ砕くな → 父はそれをやっている
ドレッシングはすするものではない → 父はそれをやっている
料理の食べ残しを床に落とすな → 父の下には一番多く落ちていた

 汚く食事する父親からテーブルマナーをしつけられるカフカに、教育者である父親への疑いが浮かび上がってくる。

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 ぼくにとって絶大な規範者であるあなた自身が、ぼくに課した戒めをご自分では守らないことによって、はじめてぼくを重苦しく抑圧するものとなったのでした。
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 親や教師、上司など、目上の人間が目下の人間から言動の矛盾を口に出されたときから、双方の関係は徐々に狂いはじめる。

(全4回、次回に続く

三津田治夫

4月7日(土)、印刷と出版の歴史を学ぶ「本とITを研究する会 大人の遠足編」をトッパン印刷博物館にて開催(後編)

エントランスの出版印刷史の展示・解説を終え、待望の印刷工房に移動した。
工房では10人ずつ2班に分かれ、活版印刷を体験した。

◎印刷工房の様子f:id:tech-dialoge:20180420173311j:plain

工房内では印刷機と大量の活字に囲まれ、活字マニアにとっては垂涎の空間である。

◎英アデナ社製卓上活版印刷機の操作を説明する学芸員の職人さんf:id:tech-dialoge:20180420173401j:plain

イギリスのアデナ社製卓上活版印刷機を使い、ローラーへのインキ乗せ、活字へのインキ乗せ、活字からの紙への転写という、3つのアクションで印刷が完了する体験をした。

◎活字の棚。全部活字、圧巻!f:id:tech-dialoge:20180420173647j:plain

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大量な活字が置かれた棚には、使用頻度順で活字が配列されている。キーボードでいうQWERTY配列のようなイメージ。プロの活字職人は1文字を3秒で拾うという。「1文字3秒のタイプイン」と考えると、現在のITとはほど遠い時間感覚である。

◎「母型」を彫る機械f:id:tech-dialoge:20180420173820j:plain

活字の原型である「母型」を彫る機械。1885年製で、日本には3台しかない。

アメリカ人の手でデザインされたイギリス製印刷機f:id:tech-dialoge:20180420173855j:plain

アメリカ人の手でデザインされたイギリス製の印刷機。大きな鷲がついた装飾的なデザイン。

◎昔の印刷機では、用紙を一枚一枚手で送っていたf:id:tech-dialoge:20180420173937j:plain

紙は一枚一枚手で送り込む。男2人の作業で1時間200枚の印刷が可能。これを考えると、コピー機の発明はすごい。コピー機はある意味「版のない印刷機」である。これもまた大きな印刷革命の一つ。そしていまとなっては、コピー機すらすでに過去の産物。いまやコピー元の紙も存在しないデジタル出力の時代。いまに出力もなく、脳から出た端子にデジタル信号を送り込むとVRを体験できる「出版」も出てくるに違いない。そんな未来が訪れようが、紙の印刷はなくならないし、本や雑誌もなくならない。デジタル社会のいま、紙の出版物はいささか味わい深いノスタルジックな存在であるかもしれない。また、活字オタクや本フェチの「少数のマニアのもの」であるかもしれない。それでも、紙の出版物はなくならない。

紙の出版物の持つ情報量は、デジタルとは比較にならないぐらい、桁違いに多い。デジタルに、紙の持つ風合いや匂い、シミ、書き込み、折ったり付箋を貼ったりといった、立体的かつ五感的なユーザー・エクペリエンスを再現することはほぼ不可能だ。そして紙の出版物の決定的な優位性は、アクセス性である。大きさや重さといった短所を補って余るほどの、高いアクセス性がある。ページ間を飛ばして読んだり、ランダムに読む際には、紙の本ほどアクセス性が高いものはない。その際にめくった指の感覚も、ユーザー・エクペリエンスとして人間の五感に記憶される。そしてそのエクスペリエンスが記憶となり、記憶が積み重なることで思い出になる。本に思い出が深いのも、ここにある。そして貸し借りやプレゼントも、紙の出版物にしか持ち得ない機能である。

*   *   *

紙の出版物には、十分に存在意義がある、というわけだ。紙の出版物の存在意義と、昨今の「日本の出版不況」は、まったく別物と考えた方がよい。社会のデジタル化で紙の出版物の需要が急低下したことは間違いない。しかしこの現象を、紙の出版物の存在意義の低下と捉え、それが日本の出版不況の根源、と捉えてはならない。この点だけは肝に銘じ、紙の出版物の存在意義を改めて考えていきたい。その上で「存在意義のある紙の出版物とはなにか」を煎じ詰めて考えていけば、「日本の出版不況」など、なくなってしまうのではないか。私はそう思う。

三津田治夫

4月7日(土)、印刷と出版の歴史を学ぶ「本とITを研究する会 大人の遠足編」をトッパン印刷博物館にて開催(前編)

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4月7日(土)、本とITを研究する会初のフィールドワークとして、江戸川橋トッパン印刷博物館で観覧勉強会を開催した。今回は「大人の遠足」ということで、おやつとドリンクを片手に、学芸員の解説に耳を傾け、活版印刷ワークショップに参加した。18時の閉館までの自由行動の後、一時解散。飯田橋で懇親会を実施した。

エントランスでは、ラスコー洞窟の壁画からグーテンベルクの四十二行聖書、液晶モニターICカードまで、文明以前から現在までのメディアと印刷の壮大な歴史を40分ほどで一覧した。

日本にある世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼」
印刷とは複製の技術である。この定義に従えば、「ハンコ」は印刷の元祖である。そこで紹介されたのは、古代メソポタミア文明で使用された「円筒印章」(シリンダー・シール)である。
円筒形の印を粘土の上に転がすと紋様が粘土に転写される。印刷で使われる「版」とまったく同じ機能を果たす。

紀元前17~10世紀に栄えた中国殷(いん)王朝の「甲骨文字」は、亀の胸の甲羅に刻まれた文字で、宗教的儀礼に用いられたものだ。さらに時代は1000年以上飛んで、紀元前196年、古代エジプトロゼッタ・ストーンのレプリカも展示。石版上には、上からヒエログリフ、デモティック、ギリシア文字という、三つの言語で同じ内容が表記されている。ロゼッタ・ストーンに関しては長い物語があり、また現代語訳文も発表されている。興味がある方はこちらで読むことができる。

印刷は宗教とテクノロジー、資本主義社会という3つの柱で発展してきた技術である。世界最古の印刷物が日本にあったというのは意外な事実。館内ではその「百万塔陀羅尼」のレプリカが展示されていた。女帝称徳天皇(8世紀)が国家の安寧と兵士の鎮魂のために、仏典から陀羅尼を100万つくらせ、それを10万ずつおのおの10のお寺に納めたという。どんなリソースで100万の印刷物を作成し、流通させたのか、非常に興味がつのる(いまの商業出版の言葉に置換すれば「10万部ずつ10店舗に納品」という感じ)。

多色刷りの技術に優れた江戸木版。そして、グーテンベルク
最古の金属活字が開発されたのも実は東アジアだった。14世紀に朝鮮半島で銅による活字製作が盛んに行われ、それを徳川家康が日本に取り入れ出版文化が開花する。しかしこれは50年ほどで衰退。とはいえ江戸時代徳川家の出版文化への貢献は大きく、のちの井原西鶴近松門左衛門十返舎一九本居宣長といった、文筆家や学者、クリエイターを多数輩出し、出版物も多数流通させた。

そうした日本の出版大衆文化の拡大と、出版技術の向上に貢献したのが、日本の木版の技術である。浮世絵に代表される「多色刷り」の技法は、現在のカラー印刷の原型である。当時は8色の重ね刷りを行っており、それらをずらさずに刷る「見当合わせ」の技術も当時確立されたものだ。現在ではCMYKの4色のインキを使ってカラー印刷を行うが、版ズレを起こさないための「見当合わせ」という言葉は江戸木版印刷からの派生である。

西欧に目を向けてみると、朝鮮半島で金属活字が開発されてから少しして、ドイツのマインツに金属工のグーテンベルクが現れた。東アジアの活字とグーテンベルクの活字との大きな違いは、前者が銅であるのに対し、後者が鉛合金であること。鉛は柔らかく壊れやすい半面、低温で溶解しすぐに固まる。金属のことを知り尽くしたグーテンベルクは、鉛にスズとアンチモンを混ぜて強度を高め、さらにアルファベットごとに活字を独立させ、活字作成の効率化と文字同士の組み替えやすさやを確立した。印刷に際してはブドウ絞り器を改良した印刷機を、インキには油絵の具をベースにした油性インキを開発した。このようにグーテンベルクは、現代の印刷技術の基礎を確立したのである。

ちなみにグーテンベルクの四十二行聖書は、アジアで唯一慶應義塾大学が所有しており、丸善経由で手数料込み8億円で購入したという。そのエピソードを聞いて我々一同驚愕、ため息を漏らした次第。

編集者の元祖、マルチン・ルター。そして、明治の出版大衆文化
グーテンベルクの後を追うように15世紀末に登場したのは宗教家のマルティン・ルターで、彼は聖書を市民の言葉であるドイツ語にはじめて翻訳し、しかも当時の最先端技術である活版印刷を活用、安価に聖書を生産・流通させた。当時の聖書は市民の読めないラテン語で書かれており、羊皮紙に手書きされた高価な写本。教会ごとに数冊しかないというレベルの数(出版流通で言うところの配本率?)である。いまでいえば、一部のインテリが英語でしか読めない高級文献をGoogle翻訳でネットで無料配布するような感覚である。それをルターは、宗教の世界で実行したというわけだ。以来、清教徒革命などの宗教革命が続発し、そのあとを追うようにフランス革命アメリカの独立など、さまざまな市民革命が起こったことは世界史が示すとおりだ。マルティン・ルターの仕事は、単なる宗教家ではなく、さまざまな言語から聖書をリフォームし、市民の言葉に訳し、多くの人にその言葉を与えたという意味で、編集者の元祖であるともいえる。

木版、活版ときて、次は銅版と石版印刷である。
銅版印刷はエッチング以前の技術として確立されたもので、地図や天文図などの精細な図の印刷に適した技術だ。石版印刷はリトグラフにも使われる、水と油が反発する原理を応用した技術で、現在主流の印刷技術、オフセットの原型である。

再び日本に戻ると、明治維新以降、印刷出版文化が一気に加速する時代が目に入る。
大槻文彦が日本初の国語辞典『言海』を編纂することで、日本人は列強と対抗するべく、はじめて共通の言葉を持つことになった。そして、日本語を共有した明治の日本人たちは、文芸をはじめ、大衆に向けてさまざまな出版物を発刊した。共通の言葉を手に入れた読者も、言葉に飢えた。そこに登場したものが「雑誌」と「ジャーナリズム」である。雑誌『キング』は日本初のミリオンセラーをたたき出した。人々がこぞって活字に手を出したという時代は、いまの感覚ではまったく想像もつかない。

戦争と印刷・広告。そして、印刷とITの出会い
戦争と出版はいつの時代にも紐付きである。自国に撒かれる戦意高揚ビラや敵国に撒かれる戦意喪失ビラ、国民を心理誘導するプロバガンダのポスターが出版物・印刷物として大量に生産されたのは第二次世界大戦の時期だった。このころに確立された出版の使われ方は、出版物を通した「心理操作」であり、その平和利用としてこんにち確立したものが「広告」である。戦後から二十数年を経て、1970年代、日本では広告を中心としたパッケージやカタログ、雑誌などの、グラフィック・デザインの時代が到来した。印刷と出版が消費社会と分かちがたく結びついたのがこの時期であり、印刷技術の進化に加えて応用が加速したのもこの時期である。

印刷技術の応用の第一は、家具建築であった。床材や壁材の「木目調」にはグラビア印刷の技術が応用されている。安価な木材に質の高い木目を刷り込むことで、家屋の商品価値を高めることに成功した。

そして現在、私たちが触れている最新の印刷技術の応用が、ITである。
私たちが日ごろ使っているICカードは三層構造になっており、内部でコイルとICチップが結線されている。その配線にエッチング(銅を腐食させて溶かす)の技術が応用されている。最後に展示されていたものは、スマートフォンやパソコンの液晶モニターに使われている「カラーフィルター」である。画面の色を表現する重要なパーツで、フォトレジストによりRGBの三色が配列される。この技術で精細なカラー画像が再現されている。工場で印刷されたカラーフィルターはメーカーに納品され、組み立てられたIT機器は私たちの生活のお供となる。

    *  *  *

以上、古代メソポタミア文明から現代までの出版印刷史を、観覧内容から駆け足で説明した。

「本とIT」が地続きであること、言葉が革命と変革を起こすことは、この展示・解説を通して共有できたのでは、と思っている。

後編に続く)

三津田治夫

西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみた:『現象学の理念』(フッサール著)/『存在と時間』 (ハイデッガー著)

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会社の有休消化の1ヶ月を費やし、退職後初の読書ということで、『現象学の理念』(エドムント・フッサール著)と『存在と時間』(マルティン・ハイデッガー著)を読み終えた。
おのおの、今回読んだのが3度目だが、ようやく1割は理解できたか、という感じ。
以下、専門用語と引用を極力避け、私がこれらを読んだ第一の感想と印象を書き残しておく。

エドムント・フッサールの『現象学の理念』はハイデッガーの予習ということで着手。
「現象」というぐらいだから、なにか外部で起こっていることが取り沙汰にされるのだろうと思っていたが、現象学とは「人間の内部でなにが起こっているのか」が問題にされる学問。フッサール現象学には哲学を科学として確立するという意図があり、言い換えると、フッサール以前哲学は科学以外のもの、だったのである。
ページ数が比較的少ないので現象学の入門として読めるかと20代のときに買って初読したのだがさっぱりわからず、2度目もよくわからず、今回の3度目で1割ぐらいがなんとなくわかった感じ。
ページ数の少ない哲学書にはときどきくせ者がある。よく犯す過ちが、書名やページ数から、カントの『実践理性批判』を入門書として読んでしまうことがあげられる。この本は入門書でもなんでもなく、基本、カントのことを知っている人じゃないとまずわからない。

予習を終えて、フッサールの弟子であるハイデッガーの『存在と時間』全3巻を読んでみた。これまた、ようやく1割がわかった感じ。
とくに日本人にとって、この本を理解しづらい点が大きく二つある。
一つは「言葉の話」であることと、もう一つは「宗教の話」であるということ。
「言葉の話」という点で、ハイデッガーはドイツ語での話をしきりとする。また、一種の造語、つまり「ハイデッガー用語」が山盛りにある。ドイツ語では日常の単語なのだが、ハイデッガーは独自の観点から各単語に解釈を加え、存在とはなにか、時間とはなにかを詳細に分析していく。翻訳者の桑木さんもよく日本語に訳したものだと、盛大な拍手を送りたい。この本を読んで頭を抱える人は、独自の言語空間にまいってしまうところが大きいはず。
「宗教の話」という点で、これまた日本人には理解しづらい。ハイデッガーキリスト教の世界で神学を学んだ人だからこそだが、『存在と時間』を通して「神と人間は分離していないのだ」を実証しようとした。
この点、仏教社会に育った日本人にはわかりづらい。つまり日本人の宗教観は山川草木悉皆成仏、つまり山も川も植物も動物も全部一緒、命あるものはすべて仏に成仏する、という考え方。聖書で言われるような「人間は神が作った神の似姿。動植物はそうした人間が豊かになるように仕える生き物」という対立関係は存在しない。この対立関係が、日本人には理解しづらい根拠の一つである。
そこでハイデッガーは、非常に難解かつ複雑な言い回しで、宗教の世界と哲学の世界を分離することで、「現実とはなんだ」を解き明かそうとした。そのうえでハイデッガーは、人間を、時間経過とともに「最高によいもの」に向かって成長するのではなく、「死に向かって歩む生き物」としてとらえている。読んでいてつらくなる論旨だが、これまた日本人になじみの深い、人間とは生まれた瞬間から老いと病、死という宿命を背負って生きているという、お釈迦様が唱えた考えとほぼ同じだ。ヴィトゲンシュタインは、西洋哲学が自分らの時代でようやく東洋哲学に近づいた、と語っていたらしいが、ハイデッガーも同じように、思索を突き詰めていくことで東洋哲学の方に来てしまい、同じような感覚にとらわれたことに違いあるまい。

貴重な有休消化期間中にこのような書物に手を出し、無謀にも西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみたわけだが、目前で手にできる実利の少ない行為だと承知しながらも、あえてこうした読書をやってみた。現象学とはなかなかわかりづらい哲学だが、AI時代のいま、「現実とはなんだ」、ひいては「自分とはなんだ」を考え抜くための、最高のテキストだった。

読後の第一印象は以上の通り。
自分の人生の後半へと向かう貴重な時間だからこそ、あえて、こうした難物に取り組み、自問自答のトレーニングをしてみた。いまの心のあり方が、3年後、5年後に、大きく効いてくるに違いない。

三津田治夫

「日本人が言葉を失った瞬間」を教える本:『ニッポンの思想』(佐々木敦 著、講談社現代新書)

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『ニッポンの思想』では、1980年に台頭したニューアカデミズムについて多くの紙幅が割かれている。
私を含めてこの年代を生きてきた人たちにとって浅田彰の『構造と力』(1983年)、『逃走論』(1984年)や中沢新一の『チベットモーツアルト』(1983年)と聞いただけで、「あったねぇ」と相づちを打ってしまう書名だが、『ニッポンの思想』によると、これらが代表するニューアカデミズムこそが、「思想をエンタテイメント化し商品化した戦犯」だというのである。

「思想のエンタテイメント化」が日本社会にもたらしたもの
前述の2冊を例にあげても売上部数はおのおの10万部を超え、思想書としては異例のベストセラー。こうした異常な現象がなにを意味しているのかを同書では解き明かそうとしている。
そのキーポイントに、80年代バブルを牽引した消費文化やコピーライティング文化、高学歴高収入礼賛文化といった、いまでは考えづらいあの時代独特の「文化」が思想書ベストセラー現象を下支えしていたという。

1980年に発表された田中康夫のデビュー作『なんとなくクリスタル』は、作中に出現するブランドや地域といった固有名詞への膨大な注釈が、当時の「カタログ文化」を如実に表現している。
文化は時間と共に人々に内面化する。この文化が「思想を消費されるものへと堕とした」と著者は分析する。

そうした時代背景を経て、1990年代には東浩紀を筆頭とする新しい「思想」が、1980年代の「特権的な知性の「上から目線」による物事の判断に対するアレルギー反応」として登場する。
おりしも日本社会では出版不況という形で思想の地位が一気に低下。
日本経済の停滞がもたらした「「正しさ」をはかる基準が「売れるか売れないか」にしか求められなくなってしまった」を逆手にとり、東浩紀は「日本の思想」の生き残りと延命を真剣に考え抜いた結果、「商業的に成功する思想」を開発した。かくして1980年代に登場した思想のエンタテイメント化ならびに商業化は、30年のときを経て連綿と日本社会の根底に根を張るようになったのである。

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思想と言葉の「消費財化」はこのまま進み続けてよいのか?
『ニッポンの思想』は、読んでいてぞっとするところが2点あった。
一つは、思想を伝える物体としての「書籍」のあり方だ。
新聞や雑誌は消費され、書籍は読み継がれるという、出版物はフローとストックのポートフォリオを形成していた。しかしいまでは、いずれも消費されるフロー商品となった。出版社の姿勢からもそれがよくわかる。ある出版社では経営が「東京駅で買って新大阪駅で読み捨てられるような本を作れるのが一流の編集者」と口にしているという話を耳にした。何度も味読されては「商売あがったり」なのだ。つまり、新刊が売れなくなるので。踊り場なしの出版不況で生き残りに必死な版元経営者の気持ちはよくわかるが、それはちょっと違うだろう。思想を伝える物体としての「書籍」までもがボールペンや消しゴムのように消費されていてはしゃれにならない。

これに関連してもう一つ感じたのは、森友学園の文書改ざん問題である。この事件は聞いていて頭が痛くなってきた。なんで民主主義国家の日本でこんなことが起こるのだろうかと。MS Wordにだって文書の改訂履歴は残る。システムの問題はさておき、「書き換えればいいじゃないか」というマインド自体が恐ろしい。しかしやっている本人は、自分なりの正当性を持ってそれを行為している。こうした、言葉を軽く扱う行為の元凶は、「消費財に堕ちた書籍」へと通じる。言葉は消費されるものだから消してもいいし、書き換えてもいい。その意識が友人へのメールや家族や恋人へのLINEメッセージではなく、国家のレベルで働いている。

出版物は、文化を形成する。
そして商業もまた、文化を形成する。
商業と文化のバランス感覚を欠いた結果が、日本独特の出版不況であり、思想や言葉の消費財化、である。
この状況をいかに脱したらよいのか。
こんなことを、『ニッポンの思想』を読みながら考えていた。

三津田治夫

セミナー・レポート:「“人が集まる”ライティング入門」~第3回分科会 本とITを研究する会セミナー~(後編)

時代とともにさまざまな採用形態を受け入れること
人材不足が深刻化する昨今、新卒から中途まで、いままでの採用方法に加えて、人づてに人材を調達するリファラル採用が注目されている。不特定多数ではなく人間関係を通してピンポイントで人材を集められるという反面、企業側には、自社の魅力を知人にうまく伝えることができないという不安を持つ従業員も多い。ここでも、ミッションとビジョンを通したストーリーの共有が強力な武器になる。

もう一つ、採用の新しい形態として注目されているのは、退職者を組織化し、再雇用したり外部のリソースとして活用する、アルムナイ・ネットワークだ。外資コンサルティングファームがこの採用形態を積極的に取り入れている。日本では退職者はいわば脱藩者扱いで再雇用や今後のお付き合いは断絶、という向きがいまだに見られる。しかし今後の人材不足が進む日本ではそうもいっていられない。こうした形態の採用はますます重要視される。

企業側には、「退職しても会社を好きでいてもらい続ける」という課題がある。退職してもまだお付き合いしたいし、人にも紹介したい。この精神状態を企業と従業員の間で共有・維持する必要がある。いわば従業員はその会社を辞めた瞬間から「顧客」になる。その意味で、ここでも、ミッションとビジョンを通したストーリーの共有がキーポイントになる。

◎本講の参考図書:『ストーリーとしての競争戦略』(楠木建 著、東洋経済新報社f:id:tech-dialoge:20180326111720j:plain

会場内で参加者たちと自分に響くセルフストーリーをいくつか出し合った。20代男性の「学びを楽しみながら自他共に成長するストーリー」から50代男性の「バブル前夜からその終焉までを体験したがバブルのうまみを味わえず、この時代の根性論はいまではまったく通用しなくなったストーリー」や「1989年のベルリンの壁崩壊から1995年のインターネット情報革命、ITバブル、リーマンショック、震災など、世界が革命と越境を続けるストーリー」まで、世代や各個人の体験に伴って多様なストーリーがある。

多様なストーリーを持つ人材を抽象化しながらターゲッティングし、自社のストーリーをライティングと表現で相手に届け、いかにして人材として引き入れるかが、採用側が抱える最大の課題だ。


人を集める7つのポイント
ライティングと表現という観点から、人材採用につなげるためのポイントを7つにまとめた。

①「ミッション」と「ビジョン」をぶらさない
②「ミッション」と「ビジョン」に従い、情報に重み付けをする
③重みに従って、情報を配列する
④見出しを簡潔にわかりやすくつける
⑤文章を俯瞰的に見る
⑥書くことと書かないことを明確に分ける
⑦言葉と情報の「ディレクション」を行う

「⑥書くことと書かないことを明確に分ける」と「⑦言葉と情報の「ディレクション」を行う」に対して会場からは質問が出た。前者に関しては②の「重み付け」に従って書くことと書かないことを振り分けることがポイントで、後者に関してはどのサービスを利用するのかと、「ミッション」と「ビジョン」をどのような文やビジュアルを使って表現するのかというディレクションを指す。

最後に、採用する側の5つの対策として、以下の5点をまとめた。

①自社・担当が求める人材像を徹底内省内省が少ないと「安易」が相手に伝わってしまう。相手を知ることと己を知ることは最重要。
②採りたい相手に引っかかる「キーワード」を探すとはいえ直近の成果も重要。上記を頭に入れつつ、「コピーライティング」の感覚も磨く。
③どの会社も「ストーリー」づくりに必死。ストーリーを大切にしようデジタル社会がエンドレスに進む現在、人は模倣不可能な身体性の高いストーリーという「アナログ」に価値を見出している。
④ストーリーは他人に作ってもらうものではない。ストーリーは自分でつくる収益を出しつつ、オリジナリティ、クリエイティビティをどこまで高めるかが、ストーリーづくりの鍵。
⑤そのためにも、経営陣および採用担当の内省・精査は必須収益を出しつつ、オリジナリティ、クリエイティビティを高めるためにも、「自分たちはなにをやっているのか」「自分たちはなぜ働いているのか」を徹底内省・精査すること。これらがつまり「ミッション」「ビジョン」の種となる。これらの発見と実装は、きわめてクリエイティブな作業。つねに創造的であること。

*   *   *

人材難の今日とはいえ、働きたい人は大勢いる。それでもミスマッチやアンマッチが起こる。仕事の現場の流動性の高さが求職者に伝わっていなかったり、安定性と終身雇用と自分の時間を最大のゴールとする人から野心あるチャレンジャー、他の目的を持った一時的腰掛け、のっぴきならない生活のためなど、求職者のおのおのは自分個人にとって合理的かつ人生の問題にかかわる「働く理由」を持っている。この働く理由と企業とのミスマッチが大きい。その意味で求職者も、自分個人の「ミッション」「ビジョン」を企業と共有するために整理し、明確化し、言語化する必要がある。人材難の今日は、採用側だけの問題ではない。

採用側では、アルムナイ・ネットワークの構築やリファラル採用など、いままで日本の企業が見向きもしなかった方法を本格的に採り入れようとしている。それには「企業と従業員との良好な関係」が重要で、パワハラやセクハラ、不当労働は労働基準監督署の扱う問題ではなく、もはやモラルの問題、企業自らの生き方にかかわる死活問題へとシフトしつつある。

最後に、ゲーテが残した言葉で締めくくる。200年前の芸術家はすでに、動乱の時代を生きぬくために必要な「変化」をすでに見抜いていた。

人生は生きているものに属する。そして生きているものは、変化に対する覚悟を持っていなくてはならない。
(『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』より)

三津田治夫