本とITを考える

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本やニュースを読みながら、ITの未来を考えていきます

AI時代に「人間の身体とは?」を問う:『知覚の現象学』(上・下)(メルロ・ポンティ著、みすず書房刊)

f:id:tech-dialoge:20170911215449j:plain

「われわれは歴史の<頭>にも<足>にも心を奪われるべきではなくて、その全身にこそ専念すべきである。」

日本が誇るSF大作『攻殻機動隊』はハリウッドで映画化され、スカーレット・ヨハンソン扮する草薙素子は「自分ってなに?」の自分探しをはじめる。原作では「生命とは思考か、記憶か?」「生命とは身体か?」「そもそも生命とはなに?」が根底のテーマに据えられたすばらしい作品だ。その意味で原点となった映画『ブレードランナー』は偉大な作品といえる。

と、人は「心と身体」の問題に悩んでおり、すでに成人した大人たちもがいまや自分探しをはじめている。世の中が複雑化した今日的現象である。動乱の世界の中では必ずこうした「存在への疑問」が人々を取り巻く。『知覚の現象学』は、1945年、第二次世界大戦のさなかという動乱の時期に出現した作品だ。

経験主義、観念論からの決別を図り、「人間的認識がかならず自己の身体をつうじてでなければ生起し得ないことを徹底的に明らかにすること」を出発点とし、現象学という、哲学の新分野に深く切り込んだ野心作である。非常な大著で、2ヶ月をかけてようやく読み終えた。
この本の中の表現は、『攻殻機動隊』に戻るとさながらバトーの詩的なセリフとしてそのまま使えそうなものばかり。引用を交えながら、ポイントを押さえていく。

「身体と意識とは相互に限界を劃し合っているものではなく、両者は並行的にしか存在し得ないのだ。」と、デカルトの「我思うゆえに我あり」を批判的に捉えている。つまり、「我思うゆえに、我が思うことを我が知る」である。この「知る」という能動的な活動を通じ、意識が実存に「再統合」される。
さらにこうも言う。
「私はコギトを実行することができ、本気で意欲したり愛したり信じたりしているとの確信をもつことができるが、それはただ、それに先立ってまず実際に意欲したり愛したり信じたりして、自分自身の実存を果たすという条件においてだ。」
意欲や愛といった意識は、存在に意味を与える条件でもあり、人間の持つ意欲だ。これが、彼の哲学が、身体の哲学と言われるゆえんでもある。

身体と意識の統合という認識を出発点とし、彼の理論が展開される。
まずは、感受する対象として、「言葉」が取り上げられる。
「自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。」と、生命を持った身体は、世界を動かす装置でもあり、世界そのものでもある。さらに「人が自分の身体でもって知覚する場合、身体は自然的自我であり、いわば知覚の主体でもあるからである。」「私は身体をとおしてはじめて世界へいたる。」と、身体は世界そのものであると同時に、その世界を知覚する主体でもあるのだ。
「身体に附与される重要性、愛のもつ諸葛藤は、他者にとっての対象〔客体〕であると同時に私にとっての主体でもあるといような、私の身体の形而上学的構造に基づくより一般的なドラマと結びついている。」とあるように、身体は愛やドラマ、つまり言葉を形成する主体である。
そして人間が言葉を獲得する過程を、「事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである。」としている。
信仰にも言葉がベースにあり、「神はもろもろの存在物を名づけることのよってそれらを創造したのだし、呪術はそれらについて語ることによってそれらのうえに働きかけるわけである。」とし、コンテクストにより言葉の要素に意味が与えられる。
「文こそが各単語にその意味をあたえるのであり、相異なるさまざまな文脈のなかでもちいられてきたからこそ各単語は、絶対的に固定化することなぞ不可能な或る意味をすこしずつ帯びるようになってゆくのである。」
身体と言葉、理念を、次のようにまとめる。
「身体と自動能力とをもった人間が存在しなかったならば、言葉は存在しなかったであろうし、理念も存在しなかったであろう。」

話はさらに、われわれの身体が共有する「時間」へと移行する。
「時間の<綜合>は移行の綜合、つまりは自己を展開する生の運動だということになるし、この綜合を実現するには、この生を生きる以外に仕方はない。」
時間と自己との統合は、「この生を生きる」ことにほかならない。時間の中で活発に生命を展開し、生きることが、「この生を生きる」である。時間の流れにおいて「考える」ことで、人は生命を持って実存する。
「われわれが過去にあり、現在にあり、未来にあるからこそ、われわれは時間というこの言葉のもとに何ごとかを考えることができるのだ。」と、実存をいみじくも表現する。

「時間の中では、存在するということと通過するということとが同義語なのであるから、出来事は過去になるからといって、存在するのをやめるわけではない。」
過去も現在も、存在である。となると、存在しない「未来」の扱いはどうなるのか。
「ましてや未来が意識の内容でもって組立てられるということはありえない。すなわち、未来は存在したこともなければ、過去のようにわれわれのうちにその痕跡をのこすこともありえないのだから、どれほど曖昧なかたちでであろうと、なんらかの事実的内容が未来の証人として通用するということはありえないのである。だからこそ人びとは、未来の現在にたいする関係を説明するのに、それを現在の過去にたいする関係に同化することしか思いつけないのであろう。」
人は、未来とは、過去によってでしかイメージできない。まったくの未知の、知り得ないものが、未来である。

共有する生活や運命という媒介を通して、時間は、人の社会的意識に影響を与える。
「たとえ階級意識が生まれるとしても、それは、日傭労働者が革命的になろうと決意し、それに応じて己れの現実の身分に価値附与するからではなく、彼が己れの生活と工場労働者の生活の同周期性と、彼らの運命の共通性とを具体的に感じとったからなのである。」
私たちの属する社会的な階級やステータスも、こうした時間意識を通して形成される。ある人の生活や運命を見て、自分との距離や温度を共感することで、その人の階級意識は形成される。

のべで700ページを超える大著、難解をもって名が知られる『知覚の現象学』を、身体、言葉、時間という3つの切り口で、駆け足で取り上げた。
この本が難解なところは、起点が膨大な「批判」により構成されている点にある。私が気づいたところだけでも、デカルト、カント、ヘーゲルスピノザライプニッツフッサールベルグソンハイデッガーニーチェフロイトなど、批判の対象は膨大である。中でもメルロ・ポンティは、フッサールハイデッガーベルグソンにはポジティブな影響を受けているようだ。反して、カントの「理性・悟性・感性」やフロイトの「エス・自我・超自我」といった「階層的な思想」には反感を持っている。むしろ、世界は再帰的で入り組んでおり、安易にフレームワーク化できないというスピノザ的な思想が、メルロ・ポンティが本質的に持つ思想であるように見受けられる。メルロ・ポンティが日本人に人気の高い思想家であるゆえんは、そこにあるのだろう。本来、日本人は階層的な思想を持たず、上下左右前後が不問な、八百万の神がいたるところに存在して縁起をなしている。日本人は「信じるものの多様化」を容認する人種だ。西洋や中東を支配するキリスト教イスラム教、ユダヤ教という、一神教社会にはあり得ない思想である。メルロ・ポンティの複雑さや神秘性は、こうした多様化にも共通している。

上記はあくまでも私の個人的な解釈で、「メルロ・ポンティの現象学ってこういうものか」というイメージを共有できたら、という意味でまとめてみた。そもそも、いままで私は一度も、メルロ・ポンティの現象学について他人と議論したことがない。

この本に手を出したのは、私の個人的な好奇心でしかなく、「身体」というテーマに強い関心を覚えたからだ。どうもいまの時代、ネット上の文字や画像といった「データ」や、「AI」が社会の前面に出てきており、これらがあたかも社会を形成しているかのような錯覚にとらわれているように思える。そしてふと、いまの人間に残された決定打はなにかと思案しているところに、「身体」というキーワードが落ちてきた。「データ」や「AI」は、人間の身体の派生物でしかない。人類の未来を握る主体は、身体の派生物ではなく、「身体そのもの」だ。それを再確認したかった。そして、身体とはなにかを知りたかった。この本に手を伸ばしたのは、そうした軽い好奇心からだった。

そんななので、「メルロ・ポンティの現象学って、本当はこうだよ!」というコメントなどがあったら、ぜひご教示いただきたい。

三津田治夫