本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

Web3書籍回収の悲報から見た「情報を取りに行く」ということ

先日、Web3を扱った書籍が版元により回収されたという出版事故がネットを騒がせた。
IT書籍の老舗版元での出来事であり、同業という意味でもまったくの他人事ではない。この話には愕然としてしまった。同時に、身を引き締める思いである。
サイトには誤記個所がアップされ、これによりPVが上がるということで、こぞって情報がアップされ、炎上にいたった。
早期回収という版元の判断は正しかったが、理由はともあれ、著者さん並びに編集制作陣が汗水流して作り上げた書籍がこのような形で退場になるのは見るにしのびない。

そもそもなぜ、こういう事故が起こったのか。
自分事として考えた。

編集制作に昔のような費用がかけられず、コスト削減のため校閲者を入れない版元も増えてきているが(私は必ず入れている)、問題の本質は別のところにあるようだ。
原稿やゲラのチェック体制はもちろん重要である。
しかし、問題の本質はもっと深いところにある
つまり、著者や編集者、読者のマインドの変化である。

今回の誤記の多くが、(テーマがWeb3の解説という性質から避けられない)インターネットの基本的で歴史的な話と、技術的な文脈にかかわる、決してハイレベルな領域にはないものばかりだった(ゆえに誤記が読者の目についた)。

そこで私がいつも気にしている、教養、という言葉が思い浮かんだ。

教養という、知の根底にあるもの
著者さんはWeb3に実績のあるその道の識者である。
しかしおそらく、インターネットの基本的で歴史的な話は、業務外ということで、単に知る必要のない情報だったのかもしれない。
もしくは、面白くわかりやすくかみ砕いていくうちに、事実が別のものに書き換わってしまったのかもしれない。
そのあたりをチェックし軌道修正するのが編集者の役割であるが、それも機能しなかった。編集者にもそうしたマインドがなかったことも考えられる。

先日、ある40代のたいへん優秀なITエンジニアと話していたときに、「90年代以前のITの知識や出来事はほとんどわからない」という正直な意見を耳にしたことがある。

知らないのは無学だから、ではない。
目前の実務で不要だから情報を取りに行く必要がない、もしくは情報がない、であろう。

そうした、一見実務に不要だが、表面的な知識を下支えする知の根底が教養である。
教養という商品はお店では売っていない。
教養は自らが取りに行くものだ。
こうした行動原理がいまの時代に重要であると、私はつねに考えている。

とくにITに関しては、基本的で歴史的な話を手にする機会は少ない。
2年前に監修した『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社)は、一般の読者にITの基礎の基礎(という教養)を楽しみながら身に着けてもらおう、というコンセプトで作り上げた書籍だ。
このころから、ITの教養が日々欠如していく雰囲気に、非常な危機感を得ていた。

学校教育でもITが取り入れられており、これから変わっていくのではないかと思う。
しかしIT教育は、自分で積極的に情報を取りに行き、自分の教養へと取り入れていく行動原則と結びついているわけではない。
教育を通して知識という情報を与えているだけにすぎない。

ではなぜ、教養は得難いものであり、軽視されるのだろうか?

第一に、数値化が困難である。
教養の有無で生産性の多寡を測ることができない。
また、何時間で教養が手に入る、教養の単価はいくらである、というものでもない。
教養は、知ることへの欲求や疑いといった、人間性の根っこにまでおよぶ領域にある。
さらに言えば、教養は「自由」の領域にある。
教養は与えられるものではなく、自分の意思で取りに行くものだ。

一見無駄に見える教養は、文化のベースにある。
社会から効率化と生産性が求められれば求められるほど、教養の優先順位は低くなり、無駄な知識とされる。
得ることが困難であるがゆえに、困難の意識がいつの間にか「無駄」の意識に置き換わったのである。
困難という言葉は、それを乗り越えられない人の努力や能力の不足という意識と結び付けられる。
無駄とは、そもそも不要なもの、蛇足である。
人は困難なものを無駄と命名することで、自己正当化し、そしてプライドを保つ。

使い方次第で、ネットでいくらでも教養のタネとなる情報を取りに行ける。
さらに深く知りたければ、ネットで書籍を検索し、ワンクリックでかなり希少な本まで手に入れることができる。
教養の一部を形成する情報を自分から取りに行く。
これが、教養の土台を作る。

そうした行動原理が人間の教養を高める。
そしてネット社会でますます人の教養は高まるはずだ。
しかし、である。

「情熱」が生み出す教養
チャプリンの映画「モダンタイムス」では、機械社会が人間を支配する風刺を描き、「マトリックス」ではIT社会がリアルとバーチャルを取り換えてしまい、フィジカルな人間とはいったい何なのかという問題を投げかけた。

そしていま、現実社会では、メタバースやWeb3といった、もう一つの世界がデジタルの中に構築されている。
これらの技術により、人間の教養は進化するのか、退化するのか、いま試されている。

優れたUI/UXとは、ユーザーを考えさせないところにある。
UI/UXの発展は、ますます考えない人間の増加につながる。
人はますます反射的に行動し、ますます受け身になる。
能動的に行動を起こすという能力が退化していく。
ある意味、人間の行動がUI/UXに握られていく。

ネットの情報も、同様である。
検索結果はすべてなんらかの商業的な意図があって表示される。
もしくは、そのときの影響力が高いインフルエンサーの言葉が上位に表示される。
ネット社会はすべて、この原理で動いている。

ゆえに、知恵や教養につながる情報は、なかなか手に入らない。
自分から積極的に、能動的に、取りに行く必要がある。
言い換えれば「情熱」が、こうした情報を自分から取りに行く原動力である。

唯一の自由は、アナログ空間にある。
デジタルは便利で手っ取り早い。
しかし受け身である限り、情報は相手の意志で選択されて渡される。

教養、教養、と、私はたびたび言っているが、自分自身決して教養のある人間ではない。ただ、一見無駄な知識にこそ価値があり、それらと経験が深く結びつくことで、仕事や人生を助けるのだということだけは忘れないようにしている。

人生の成功者には、大変な教養人が多い。
生きる知恵とでもいおうか、知識を超えた情報(貫禄、空気感)を身体に備えている。

その意味でも読者に知を届ける編集者という仕事は、自らが積極的に情報を取りに行き、身につけた教養を読者に伝えていく、重要な役職ではないだろうか。

本こそ、情報を自分から積極的に取りに行く必要がある。
その意味でネットとは真逆にあるメディアだ。
情報を能動的に取りに行き、自らの教養とする訓練に、
本を使うことは最適である。
本を使い、自分の情熱にスイッチを入れるのだ。

今回の出版事故は、決して他人事ではなく、また、多くの関係者がかかわっており、単純な話ではない。
これからの教訓として、意識して情報と教養を取りに行く態度がいかに重要であるかを、自戒を込めて再認識した。

言い換えると、出版と編集の再定義が起こっている時代の一現象なのかもしれない。

人の教養をになう出版と編集の未来と変容を期待しつつ、自らの行動を止めないことにしている。

三津田治夫