本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

音楽や文章との感動的な出会いは、年齢とともに突如やってくる

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近頃はマーラ―ばかりを聴いている。
学生時代は交響曲第1番『巨人』は少し聴いていたが、それ以外はどうも肌に合わなかった(ちなみに1980年代、世紀末に迫ることを機に「空前のマーラーブーム」というものがあった。その影響で外発的に聞いていた)。
が、最近はなぜかマーラ―ばかりだ。

とくに交響曲第7番『夜の歌』は衝撃的な音楽体験で、日々愛聴している(しかし写真は交響曲第8番『千人の交響曲』(小澤征爾)。こちらも傑作)。

音楽や文章への嗜好は年齢によってまったく変わる。
しかしそれがなにがきっかけで起こるのか、さっぱりわからない。

学生時代は
モーツァルトを聴くような気取った中年にはなりたくない」
ゲーテを読んで納得し世間を知ったような老人にはなりたくない」
と、本気で思っていた。一種の、大きなものに対する若者の反発心からだろうか。

しかし現実は、40代前半からモーツァルトのオペラから入って抜けられなくなり、そこから交響曲にはまって、いまにいたる。
40代中半からはゲーテの小説と詩に魅了され、いまにいたる。
いったい自分はどうなったのだろうと、たびたび学生時代を振り返ってみたりもした。

それでもって、50代前半になり、今度はマーラ―である。
しかし考えてみたら、こうして年をとるのも悪くない。
いままで読めなかったもの、聴こえなかったものが、読めたり、聴こえたりするのだから。

20代、30代、40代と、年齢とともに作品との感動的な出会いが何度も起こるのは、実に面白い。

投票会場で見た民主主義の風景

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新型コロナウイルスや経済問題など、世の中に課題が渦巻く中、10月、衆議院選挙が行われた。
駅のコンコースに臨時設置された期日前投票会場に足を運んだ。
そこは、いままでに見たことのない行列だった。
国民の関心の高さがうかがえるとともに、いままでの選挙の活気のなさが逆におかしかった、ということも感じた。

子供のころ、昭和時代、選挙の記憶は「いつもうるさい」しかない。
両親はテレビや新聞の報道をわさわさと気にし、街頭では白い手袋をしたウグイス嬢が手を振りながらマイクで声を張り上げている。
政治をさっぱりわからない子供が見た選挙は、かなり異質な風景だった。

親に連れられて投票所に行った記憶もある。
子供が近づいてはいけない空気が漂っていた。
ある日食卓で母親に、「田中角栄って悪者なの?」と質問したら、
祖母から「子供は政治の話をしてはいけません!」と、ひどく叱られたことがある。
それもまた、子供が近づいてはいけない空気をさらに濃厚にした。

高校に入ると、選択授業に現代社会があった。
毎週金曜の午後、生徒らが新聞記事の切り抜きを持ち寄り、教団に上がって記事の意見を述べるという授業。
当時他では類を見ない、授業らしくない一風変わった授業だった。
担当教員も一風変わった人で、腰に手ぬぐいを下げ、子供らを捕まえて革命思想のような難しい話を吹き込むような人物だった。

私は毎週気になった記事を切り抜いて持っていき、それはおもに政治がテーマだったが、気づいたことを勝手にしゃべっていた。それだけで担当教員によくほめられた。
それでがきっかけで、「近づいてよい」、という意識に切り替わった。

自由な投票は大変なことである
毎回投票率を見て残念な気持ちになるが、今年はどうだろうか。
今回の投票率は、中間発表では前年を下回るであるとの報道だった。

駅のコンコースで行列を作る有権者たちは、それなりの思いがあって集まっているはずだ。
係員は、
「恐れ入ります、もう少し詰めてください」
「すみません、こちらは2列になってください」
など、有権者たちはさながらディズニーランドの来客か、それ以上の賓客扱いである。
しかしここで、その意味を感じた人は、どれだけいたのだろうか。
私も、本当に自分が有権者であると自覚したのは、ここ数年である(とくに独立してから)。

なにせ有権者は、「日本国民で満18歳以上であること」である。
投票するには貴族の血を引いている必要はない。
納税額が〇〇〇〇万円以上である必要もない。
これら制約はいっさいない。
しかも自由に投票できる。
これは大変なことである。
つまり、政治の主役は我々有権者だ。

東欧革命以前のポーランドでは、投票監視員は、有権者がどの党に投票しているのかを、投票用紙を開かせ逐一検査していたと、ある本で読んだことがある。有権者共産党以外に投票しようとすると即刻監視員に脅迫されたという。
それを考えると、有権者なら誰もが自由な意思で投票できるというのは、血と汗と歴史の結晶、本当に大変なことだ。

民主主義の若者、日本
立候補者は毎回耳障りの良いセリフを口にする。
たいていは減税と福祉拡充だ。
そして当選直後には手の平を返す。
もしくは、無所属から特定の党派に鞍替えする。
選挙後に見られる毎度の様式美だ。

有権者は、立候補者のセリフや身なりといった、表面的なイメージで多くを判断する。
そして有権者は選挙後が終わると、
「議員さん、あなた方プロなんだから、しっかり政治をやってくれ」
という態度をとる。
この態度を、
「お医者さん、あなた方プロなんだから、しっかり私の病気を治してくれ」
に近いものを私は感じる。

有権者とはすなわち、オーナーである。
日本という国家のオーナーは、投票をしている「私」だ。
身体のオーナーが自分であることに近い。
この意識が、本当の民主主義である。

こんな話をいつも私は引き合いに出す。
ドイツで友人と食事をしていたときのことだ。
そこはライプツィッヒという、東欧革命の台風の目のような街だった。
東欧革命の真っただ中、ライプツィッヒで友人がデモや集会に毎日通っていたことを手紙でリアルタイムで聞かされていたのだが、そのことを回想していたときのエピソードがある。
私は、教会で大規模な集会をやって街に何千人も集まるとはよくやるよなあ、といったら、友人は一言「私らは少しずつ長時間かけて民主主義やっているから。日本はここ100年ぐらいでしょ」と、軽く微笑みながら返答されたことを覚えている。

友人ら、民主主義本場の人たちにとっては、教会で自由を語り合う集会を結成したり、プラカードを持って街を練り歩くのは、社会活動でもなんでもなく、国家のオーナーとしての日常当たり前の行動なのだ。
日本だと、メディアや世論の影響、過去の歴史的印象が大きく、自由を語り合う集会の結成や街頭プラカードというと、危ない反社会的運動、権力を崩そうとする不穏な行動、ととらえられがちである。
民主主義本場の国の人たちにとっては、こうした活動は、捻挫で歩きづらくなったらシップを貼る、それでもだめなら手術する、ぐらいの意識とほぼ違いはないだろう。友人も、こうした行動を「当たり前」と何度も言っていた。
その意味で、日本人はまだまだ民主主義の若者である。

商業が変わり政治が変わる、イノベーションの可能性
とくに新型コロナウイルスを経て、ドイツなど民主主義先進国では教会での集会や街のデモは大きくスタイルが変わるだろう。
これを機に、政治のトップをダイレクトに選ぶ、直接民主制に近いシステムをITとともに導入する可能性もある。
もしくは、SNSで国民の言葉を拾い上げ、AIとともに政治に反映させるような仕組みもありうる。
すべては、「密」を避けて国民が国家という身体の治療を行うため、である。

そう考えると、民主主義の若者である日本人は、集会やデモの文化を通り越して、いきなり直接民主制に接近する可能性があるかもしれない。

直接民主制は、昔から「ムリ」といわれ続けてきたが、このようなITの高度な発展において、そして何が起こるのかわからないこの時代、決してムリそうに見えない。

商業においては、DX(デジタル・トランスフォーメーション)をはじめとした技術を通して、かつて存在した中間業者や中間決済が中抜きされ、いわば「直販」が可能になっている。
これを政治に置き換えれば、政治の「直販」が可能となる。
国会はマッチングと判断を実施するプラットフォームになる。
そして有権者がプラットフォームを介して直接、政治のトップを選ぶ。
「政治はヤフオクとは違うぞ」と怒られそうだが、本来権威のあった商業(=ビジネス)の世界でも実際にそれが起こっているのだ。

明治時代、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一は、フランスから帰り日本の商業の地位の低さに目を覆った。彼は日本の商業に知性を流し込み、西欧列強と比肩する権威のある商業を作り上げた。
商業の世界では、DXを通し、渋沢栄一以来のイノベーションが起ころうとしている。
「政治経済」というぐらいで、政治と経済はセットである。
政治が変わり商業が変わった明治時代の、逆方向の流れがこれから起こるだろう。
つまり、商行が変わり、政治が変わる、に。

      * * *

政治家は我々の代理人、つまりエージェントである。
彼らは、国家というインフラを最適化するために我々の代理で使われるプロの集団だ。

これからの選挙では、政治家たちには、我々に向かってこのように言ってもらいたい。

「どうか私に一票を!」

ではなく、

「どうか私をとことん使ってください!」と。

『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』の中国語繁体字版見本が到着

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『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』の中国語繁体字版の見本が到着いたしました。

監修させていただいた本作が海を越えたことは感無量です。

版型はB5。
大きくなりました。
フォントは「字型」、ディープウェブは「深網」と訳されています。
台湾においてはぜひ、オードリー・タン氏に読んでいただきたいです。
台湾、香港、マカオの、より多くのIT初心者に愛読していただけることを心から願っております。

『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』の動画取材を受けました

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「本TUBE」の取材を受けました

先日、「本TUBE」の取材をいただきました。
紹介書籍は、監修させていただいた『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』です。
懐かしのITガジェット紹介なども交え、楽しく、本書の魅力とITをめぐるお話をさせていただきました。
元アナウンサーの中村優子さんの引き出し力がとても素晴らしかったです。
ありがとうございます。
アップされた動画も長丁場を13分にまとめていただき、素晴らしかったです。

第35回・飯田橋読書会の記録:『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎 著)~「縮退」の停止した多様な世界はどこに?~

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毎回連続したテーマを取り扱わないことをモットーとした飯田橋読書会。
前回の『孔子伝』(白川静著)から変わって、今回は『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎 著)を取り上げる。
世界的に経済が混乱をきたすいまだからこそ、経済学に取り組むことには意義がある。

毎回連続したテーマを取り扱わないといいながらも、非連続で経済に関するテーマを取り上げてきたことは付け加えておく。読書会第1回目の『トランスクリティーク』(柄谷行人 著)をはじめ『ヴェニスの商人資本論』(岩井克人 著)と、今回は3冊目である。

さらに今回は、記念すべきキリ番の第35回目(2021年10月30日(土)開催)だ。
第1回目の読書会が開催されたのは2014年1月25日(土)で、実に8年目。
年が明ければ9年目。
ここまで継続できたのは、まさに僥倖である。

進歩とは資本主義の必然か? 人類の必然か?
今回も新型コロナウイルス対策としてZOOMにて開催した。

チェックインでは、ワクチンの副反応がひどい編集者のMさんとAさん、最近移転して勉強&求職中のAさん、巣ごもり需要のギター売買を繰り返すNさん、ジム通いで美と健康を追求するM女史など、相変わらず元気な顔触れであった。

『現代経済学の直観的方法』は非常に面白いベストセラーということで、Nさんからの紹介による作品として今回は取り上げるにいたった。

内容に関し、まずは「物理数学者が解釈した経済学」という位置づけで、非常にユニークな切り口だった。
銀行券を発行したイングランドを紹介しながら、貴金属から紙幣が開発された経緯を経て、貯蓄で減少した通貨量を自在にコントロールできる利便性、帳面上の数値を担保に貨幣を追加流通させられることなど、信用創造のメカニズムの解説は腹におちた。
統計の本を20冊読破したM女史の「とても面白かった」「良くまとまっていた」という声など、参加者からは総じてポジティブな意見だった。

全体として、高校教科書の経済学に書かれた内容がうまくまとめられているという印象。独特のたとえが面白い。
一方で、前半でふんだんに使われている図解が、かえってわかりづらくしている印象もあった。
イスラムを絡めた歴史と貿易の話は興味深く読むことができた。また、為替と利子のことには謎が多く、これらの話は入っていたらよかったとも個人的には感じた。

本作を読んだ印象を受けて、いまの日本を取り巻く経済へと議論が移った。

長期のデフレが続きながらも日本政府は通貨量を増やさず、

「もしかしたら日本は壮大な実験をしているのではないか?」
「日本は脱資本主義をしようとしているのかもしれない」

という興味深い意見も聞かれた。
今回のコロナ禍を通して見えてきたこととして、「日本は底辺を救う政策が好きだ」という意見もあった。
とはいえ、企業の内部留保がこの状況下で増加傾向にあることや、資本は相変わらず特定の層に集中しトリクルダウンなど一向に起こらなかったではないかという、市民的な恨み節も聞こえてきた。

「そもそも、人間はなぜ進歩が必要か?」という疑問に「資本主義は進歩が必須です」という返答があり、人間には進歩が必要だから資本主義がある、資本主義があるから進歩が求められる、といった、卵が先か鶏が先か論も提示された。

一つの考えとして、資本主義という自由の仕組みが、人間の創造欲求と生存欲求を正当化しているともいえる。
しかしながらそう考えると、人間の創造欲求と生存欲求を解放しながら、一党独裁という制約の仕組みが資本主義的な経済の成果を上げている中国の存在は奇妙だ。本来自由に発想し、共創・協創し、価値を生み出す資本主義の本質が覆させられたような格好である。

ベルリンの壁が崩壊する5カ月前の1989年6月4日、北京で天安門事件が起き、政府の武力で多くの死傷者が出た。
それでいて各国が経済・外交に断固と制裁を加えなかったのは、ひとえに、中国の巨大な経済力であったといわれている。
「カネさえあればなにをやってもよい」のモデルを一つ作ってしまったのである。
果たしてこのモデルがこれからも続くのか。いまはその判断の過渡期にある。

「縮退」の停止した多様な世界とは?
作者の長沼伸一郎氏は「縮退」というキーワードで読者に問題提起する。
世界はグーグルやAppleAmazonなど一部の巨大企業が支配する「縮退」の方向に向かっていることを指摘する。
湖の中で強力な外来種は在来種を追いやり、外来種の個体そのものは増加する。しかし、種の多様性は滅びる。
このような生物学にも例えているように、経済では資本は拡大するが、多様性の低下で資本を生み出すインフラである文明がダメになる。
これが、縮退だ。
作者は経済学者J.M.ケインズの言葉を引き、文明を「薄い頼りにならない外皮のようなもの」とし、これが世界の多様性を支えていると言う。

駅前の小さな書店やおもちゃ屋もほとんどなくなった。
町からは商店街がほとんど消えてしまった。
これも、目に見える縮退の一つだ。
グーグルやAppleなどのデジタル巨大企業は「総ドリ」ができる。
物体の存在しない無限なデジタル空間では、根こそぎ市場をとっていくことが可能である。

こんな縮退を防ぐものに、作者は「大きな物語」の共有が必要であると主張。
すなわち、かつてのマルクス主義ケインズ主義、毛沢東主義といった「〇〇主義」や、最近ではSDGs(持続可能な開発目標)やMMT(現代貨幣理論)も、「大きな物語」に加えてよかろう。

こうした「大きな物語」が、縮退をとどめることができるのだろうか。
いまの私にはわからないが、少なくとも人間が人間の首を絞めて自滅するという、いままでとってきた行動様式からの人類の大転換はすでに迫られていることだけは断言できる。

トマ・ピケティが『21世紀の資本』で、従来型の資本主義である限り富の格差は広がり続けるという現実を、人類数千年のデータを紐解き訴えてきた。

縮退が停止したフラットな富の世界とは、どういったものなのだろう。
ITが高度化したいま、人と人との間の障壁や過去の仕組みを取り払うDX(デジタルトランスフォーメーション)が、その一つの解を与えているだろう。

最後に、会の談話の中でデヴィッド・グレーバーやジョン・ロールズという現代経済学者の名前も出てきたことは付け加えておく。

     * * *

さて次回課題図書に関し、メンバーで議論が繰り広げられた。
ロシア文学から『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ著)はどうか。
いやこれは大作すぎるので台湾文学や魯迅などはどうかという意見。
トルコのノーベル文学賞作家のオルラン・パムクはどうか。
安部公房の『砂の女』やポール・オースターカポーティなど。
作名や名前が飛び交った。
そんな中、「超古典」というキーワードが出てきた。
そこで早速、紀元前のギリシャ悲劇に話が遷移した。
次回は、ソフォクレスの戯曲を全作取り上げることに決まった。
いまはちくま文庫で手軽に読むことができる。
時間がなく全作読破できない人は、最低限『オイディプス王』は読んでおきましょう。

それでは次回、ギリシャ四大悲劇作家の横綱ソフォクレスの戯曲に挑戦いたします。

では次回も、お楽しみに。

19世紀の哲学者がまとめたビジネス書の原典:『法の哲学』(I/II)(ヘーゲル著)

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大学時代、授業の課題図書として本書を出され、著者の意図するところがさっぱりわからずに挫折した。
20代、サラリーマンになりたてのときにも再挑戦。
それでも本書の意図がほとんどわからなかった。
50代になり、やっと、ようやく、ドイツの哲学者ヘーゲルが言わんとしているところのしっぽの先端を少しだけ掴んだ。

端的に言えば、書店で平積みされているビジネス書の「元ネタ」である。
社会や組織の仕組みを言語化フレームワーク化する。
いわば「言葉攻め」である。
だから書名にも「法」とある。
本書は決して法律のみを扱った専門書ではないのだが。
ドイツ語で「法」(Recht)は「権利」や「正しいこと」を意味する。
国家や軍隊、企業といった、世の中のあるべき仕組みを文字に起こした「法」である。

ビジネス書の総元締めのP.F.ドラッカーはドイツ語圏のオーストリア移民なので、学者の基礎教養としてヘーゲルはかなり読んでいたはず。
その他ドラッカーの著作を読むと、ドイツ思想界の大御所であるゲーテやシュタイナーの流れを組んだ考え方が随所に見られる。

カントがいなければヘーゲルのような人はいなかったわけだし、ヘーゲルがいなければマルクスもいない。そしてデリダのような人物もまず出てこなかった。

中公クラシックスの読みやすい組み方と充実した注釈(これは素晴らしい)で、読者をヘーゲルの世界にやさしくいざなってくれる貴重な作品だった。

『法の哲学』(I)
『法の哲学』(II)

草加せんべいをめぐる小さな文化の物語

f:id:tech-dialoge:20211023151340j:plain草加宿を北に抜けた場所に設置された松尾芭蕉

地元の名菓に草加せんべいがある。
草加は17世紀に栄えた日光街道二番目の宿場町だ。
俳人松尾芭蕉が訪れたことでも知られており、当時は戸数120軒ほどからなる小さな宿場町だった。
宿場では余った米やまんじゅうを焼いてせんべいとしてお客に出していたという。江戸時代の保存食として、日光街道を歩く旅人のエネルギー源となったのが草加せんべいの発祥だ。

草加せんべいの名称はせんべいの代名詞として一般に流布している。
大型で厚く、硬く、醤油がたっぷりと乗っており、草加や越谷でとれた地元コシヒカリを原材料に炭火で一枚一枚手焼きされる製法は古来から踏襲されている。その香りと独特な歯ごたえにファンが多い。
草加せんべいには昔食べた懐かしい味がある。
近ごろは触れる機会の少ない貴重な味覚、ともいえる。

f:id:tech-dialoge:20211023151457j:plain◎古来からの製法で作られた手焼きの草加せんべい

信じるに値するリアルなストーリー作り

スーパーやコンビニで手に入る一般的なせんべいは、柔らかく、口触りが良く、少し甘みがあり、香りもよい。
とくに大手製菓メーカーによるせんべいにこの傾向は強い。
これこそ、マーケティングの成果である。
ドラッカーがいう、セールスしなくて勝手に売れてしまう状態を作るのがマーケティングである。
綿密な顧客調査と商品実装を通し、マーケティングはせんべいに大量生産と大量消費の仕組み化を実現し、せんべいを買いやすく、食べやすくした。

しかし近年は、この「買いやすく食べやすく」が、買い手にとって本当に最良なのか、もしかしたら売り手視点なのではないのか、という疑問も耳にする。「買いやすく食べやすく」は、人の心身にとって最適なのかという本質的な視点からの疑問である。
人は本来、心身の成長を目標とする。
昨日よりも明日、明日よりも明後日がよりよくなることを願って生きている。その逆を計画しながら生きている人はまずいない。
さらに昨今は、その商品を口にして心身によいのかという本質的な課題の解決に加え、「その商品を口にしてうれしいか」という、顧客体験の解決までが商品価値に織り込まれている。

一昔前は、「その商品を口にしてうれしいか」は、味覚や触覚、視覚といった課題を解決するだけで実現した。
しかしいまは、そこに「信じるに値するリアルなストーリー」までが問われる。
浅薄な商品開発秘話や顧客の体験談を作り上げても顧客は納得しない。
そこにはたえず「信じるに値するリアルなストーリー」が求められる。

そう考えると、せんべいを一つ売るにも、ビッグデータによる顧客ニーズ分析やマーケティング分析、これらをベースにしたストーリーづくりがキモになるのは想像がつく。しかし、作業には知識と資金力を要する。大量な利潤が必要であり、そのための大量消費と大量生産の仕掛けが必要になる。
一方で、この、大量消費と大量生産の仕掛けが、製品が陳腐化させたり、口にして体に悪い製品を作らせてしまうというネガティブな要因にもなる。

f:id:tech-dialoge:20211023151602j:plain草加八景の一つである、真言宗智山派寺院 東福寺の山門

伝統工芸と古典技能をITが救う
先日、草加駅近くの観光案内所の女性と話していたら「「草加せんべい」は世間で一般化した単語であるため商標登録できていない」と嘆かれていた。ここに、マーケティングの一つの壁が出現している。
そもそも本場の草加せんべいは、大量生産・大量消費の仕組みを持っていない。
観光案内所では地元の方々が草加の街の魅力を元気に紹介している。
草加せんべいは、手作りを売りにする、いってみたら伝統工芸品や古典技能の一つである。

時代には波がある。
歴史的なものは時代という時間の波に飲み込まれる。
もしくは、伝統的なもの、文化的なものとして保存されるか、時代の波を逆手にとってに乗っていくか。
時代の波を逆手にとる力が、経済である。
大量生産・大量消費の仕組みもまた経済という力を得る手段の一つであった。

時は金なり、という言葉がある。
時代という時間の波はマネーとテクノロジーよってコントロールできる。

そのテクノロジーの中でも、最も身近でお金がかからない強力な選択肢が、IT(情報技術)である。
卑近な例でいえば、チラシを印刷して駅前で配布するのに加え、SNSで告知する、動画を流す、という選択肢がある。
ITが強力で安価な選択肢であるとはいえ、ITにはお金以前に「難しい」「怖い」「そもそもITって……」というメンタルとマインドへのブロックが立ちはだかる。
それでも、もはや伝統工芸、古典技能となった草加せんべいは、ITの力をもって普及させる価値がある。
厳しいかないまは、いいものは必ず残る、という時代ではない。
情報・ファイナンス・経営の課題といった障壁を乗り越えられずに、時代の波に飲まれ、さまざまな優れたものが消えている。
価値の高い味を提供し続けた飲食店や、優れたパフォーマンスを提供し続けたライブハウスなどの閉鎖は、まさにそれだ。
「劣っていたから閉鎖されたのだ」「経営が間違ったからだ」と一言で片づけられない時代が、いま来ている。
情報・ファイナンス・経営課題こそ、ITを使うことで相当の解決ができる。
草加せんべいを例にとれば、SNSによる情報発信からECサイトでの直販、地元農家からの材料の直仕入れ、伝統製法の保存伝授のYouTube化など、いわゆるDX(デジタル・トランスフォーメーション)の基礎を導入するだけでも、多くの状況は一変する。そして、草加せんべいがコンテンツ化するのだ。

小さな文化の物語が、世界を縮退から守る
物理学者の長沼伸一郎氏は『現代経済学の直観的方法』の中で、世界はグーグルやAmazonなど一部の巨大企業が支配する「縮退」の方向に向かっていることを指摘する。湖の中で強力な外来種が在来種を追いやり、外来種の個体そのものは増加するが、種の多様性は滅びることにも例えている。

いま、歴史的で再現困難なもの、文化的に価値の高いものがどんどんと追いやられている。同氏は経済学者J.M.ケインズの言葉を引き、文明を「薄い頼りにならない外皮のようなもの」とし、これが世界の多様性を支えているという。

文明という大きな物語は、数えきれないほどの小さな物語から構成されている。
その意味で草加せんべいは、縮退の外側にある価値を持つ小さな文化の物語だ。

いま、規模の大小を問わず、さまざまな分野でDXが進んでいる。
「伝統工芸DX」「古典技能DX」の分野でも導入が進んでいるところもあるだろう。
こうした、伝統や古典といった、一見お金にならなそうなものにこそ、ITの力が大きく寄与する時代が来ている。

ストーリーを想起しながら歴史と味覚を味わえる一枚のせんべい。
草加せんべい+DXの明日がとても楽しみである。