本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

新刊『落葉』(高嶋哲夫著)を読みました

『落葉』(高嶋哲夫著)を拝読させていただきました。
パーキンソン病+ネットカルチャー+エンタテイメント+スタートアップ(ビジョンハッカー)」
といった、高嶋哲夫さんの鋭い視点から「いま」が切り出されている興味深い作品です。

パーキンソン病という身体的なものを、またTouTubeやSNSというビジュアル的なものを、小説という文字と文脈で表現するという、高嶋さんにしかできない妙技が面白いです。

高嶋さんの作品には必ず家族が出てきます。
その家族は血縁だけでなく、ふとした出会いが結んだコミュニティも一つの家族です。
そんなコミュニティが主人公を中心に一大事を成し遂げる物語です。
ネタバレするので、この辺で。

いまなぜ高嶋さんがこの題材で作品を書くことになったのか、大変興味があります。
コロナ禍において、身体とネットという相対する存在に興味を持たれたのかもしれません。

ぜひ、ご一読をお勧めします。

三津田治夫

悪の極限から見えてきた平和と美徳:『悪徳の栄え』(マルキ・ド・サド 著、澁澤龍彦 訳)

正編が黒、続編が赤という装幀が素晴らしい。
マルキ・ド・サドの代表作。
怪女ジュリエットの悪徳三昧の半生が描かれるアンチ・ユートピア小説。

正編では大臣に囲われる娼婦としてジュリエットが登場。
大臣の権力の庇護下で悪徳の限りをつくす。
大臣は慈善施設の破壊によるフランスの人口削減を企てる、私利私欲にとりつかれた極悪人。

続編はイタリアとロシア、スウェーデンが舞台となり、各国遍歴悪行旅行をつくす。
この続編は発禁となり「サド裁判」の引き金となった巻。

「露骨な性描写」が発禁の原因であるとは当時の見解だが、実際にはそういったレベルではなかったのではないかと思われる。「政治レベルの嫌悪感」を検察側に抱かせたのではないだろうか。

つまり続編はエカテリーナやローマ法王と各国の権力者が登場し、皆さん私利私欲にとりつかれた変質者である。

「権力とは悪そのもの。権力を持つ人間は個人的欲求充足と個人的な権力の保持にしか興味がない。かつ変態」というのが、サドの権力者に対する見解。

人間の発想や言動は先天的なものに加え、その環境が影響を及ぼすというが、サドの思想と作品こそまさに、革命の時代のフランスが生みだしたものである。

休日の昼下がり、読み終えて、ふと近所の公園に行った。
親子はキャッチボールを楽しみ、恋人同士は弁当を食べ、車いすに乗った白髪の老人はそれを楽しそうに眺めている。

悪徳とはなんだろう、美徳とはなんだろう、正義とはなんだろう、革命とはなんだろう、戦争とはなんだろう。

サドの世界観と目の前に見えた平和な世界との落差にほっとしつつ、かつ、考えさせられた次第。

澁澤龍彦の歴史的名訳。

三津田治夫

Web3書籍回収の悲報から見た「情報を取りに行く」ということ

先日、Web3を扱った書籍が版元により回収されたという出版事故がネットを騒がせた。
IT書籍の老舗版元での出来事であり、同業という意味でもまったくの他人事ではない。この話には愕然としてしまった。同時に、身を引き締める思いである。
サイトには誤記個所がアップされ、これによりPVが上がるということで、こぞって情報がアップされ、炎上にいたった。
早期回収という版元の判断は正しかったが、理由はともあれ、著者さん並びに編集制作陣が汗水流して作り上げた書籍がこのような形で退場になるのは見るにしのびない。

そもそもなぜ、こういう事故が起こったのか。
自分事として考えた。

編集制作に昔のような費用がかけられず、コスト削減のため校閲者を入れない版元も増えてきているが(私は必ず入れている)、問題の本質は別のところにあるようだ。
原稿やゲラのチェック体制はもちろん重要である。
しかし、問題の本質はもっと深いところにある
つまり、著者や編集者、読者のマインドの変化である。

今回の誤記の多くが、(テーマがWeb3の解説という性質から避けられない)インターネットの基本的で歴史的な話と、技術的な文脈にかかわる、決してハイレベルな領域にはないものばかりだった(ゆえに誤記が読者の目についた)。

そこで私がいつも気にしている、教養、という言葉が思い浮かんだ。

教養という、知の根底にあるもの
著者さんはWeb3に実績のあるその道の識者である。
しかしおそらく、インターネットの基本的で歴史的な話は、業務外ということで、単に知る必要のない情報だったのかもしれない。
もしくは、面白くわかりやすくかみ砕いていくうちに、事実が別のものに書き換わってしまったのかもしれない。
そのあたりをチェックし軌道修正するのが編集者の役割であるが、それも機能しなかった。編集者にもそうしたマインドがなかったことも考えられる。

先日、ある40代のたいへん優秀なITエンジニアと話していたときに、「90年代以前のITの知識や出来事はほとんどわからない」という正直な意見を耳にしたことがある。

知らないのは無学だから、ではない。
目前の実務で不要だから情報を取りに行く必要がない、もしくは情報がない、であろう。

そうした、一見実務に不要だが、表面的な知識を下支えする知の根底が教養である。
教養という商品はお店では売っていない。
教養は自らが取りに行くものだ。
こうした行動原理がいまの時代に重要であると、私はつねに考えている。

とくにITに関しては、基本的で歴史的な話を手にする機会は少ない。
2年前に監修した『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社)は、一般の読者にITの基礎の基礎(という教養)を楽しみながら身に着けてもらおう、というコンセプトで作り上げた書籍だ。
このころから、ITの教養が日々欠如していく雰囲気に、非常な危機感を得ていた。

学校教育でもITが取り入れられており、これから変わっていくのではないかと思う。
しかしIT教育は、自分で積極的に情報を取りに行き、自分の教養へと取り入れていく行動原則と結びついているわけではない。
教育を通して知識という情報を与えているだけにすぎない。

ではなぜ、教養は得難いものであり、軽視されるのだろうか?

第一に、数値化が困難である。
教養の有無で生産性の多寡を測ることができない。
また、何時間で教養が手に入る、教養の単価はいくらである、というものでもない。
教養は、知ることへの欲求や疑いといった、人間性の根っこにまでおよぶ領域にある。
さらに言えば、教養は「自由」の領域にある。
教養は与えられるものではなく、自分の意思で取りに行くものだ。

一見無駄に見える教養は、文化のベースにある。
社会から効率化と生産性が求められれば求められるほど、教養の優先順位は低くなり、無駄な知識とされる。
得ることが困難であるがゆえに、困難の意識がいつの間にか「無駄」の意識に置き換わったのである。
困難という言葉は、それを乗り越えられない人の努力や能力の不足という意識と結び付けられる。
無駄とは、そもそも不要なもの、蛇足である。
人は困難なものを無駄と命名することで、自己正当化し、そしてプライドを保つ。

使い方次第で、ネットでいくらでも教養のタネとなる情報を取りに行ける。
さらに深く知りたければ、ネットで書籍を検索し、ワンクリックでかなり希少な本まで手に入れることができる。
教養の一部を形成する情報を自分から取りに行く。
これが、教養の土台を作る。

そうした行動原理が人間の教養を高める。
そしてネット社会でますます人の教養は高まるはずだ。
しかし、である。

「情熱」が生み出す教養
チャプリンの映画「モダンタイムス」では、機械社会が人間を支配する風刺を描き、「マトリックス」ではIT社会がリアルとバーチャルを取り換えてしまい、フィジカルな人間とはいったい何なのかという問題を投げかけた。

そしていま、現実社会では、メタバースやWeb3といった、もう一つの世界がデジタルの中に構築されている。
これらの技術により、人間の教養は進化するのか、退化するのか、いま試されている。

優れたUI/UXとは、ユーザーを考えさせないところにある。
UI/UXの発展は、ますます考えない人間の増加につながる。
人はますます反射的に行動し、ますます受け身になる。
能動的に行動を起こすという能力が退化していく。
ある意味、人間の行動がUI/UXに握られていく。

ネットの情報も、同様である。
検索結果はすべてなんらかの商業的な意図があって表示される。
もしくは、そのときの影響力が高いインフルエンサーの言葉が上位に表示される。
ネット社会はすべて、この原理で動いている。

ゆえに、知恵や教養につながる情報は、なかなか手に入らない。
自分から積極的に、能動的に、取りに行く必要がある。
言い換えれば「情熱」が、こうした情報を自分から取りに行く原動力である。

唯一の自由は、アナログ空間にある。
デジタルは便利で手っ取り早い。
しかし受け身である限り、情報は相手の意志で選択されて渡される。

教養、教養、と、私はたびたび言っているが、自分自身決して教養のある人間ではない。ただ、一見無駄な知識にこそ価値があり、それらと経験が深く結びつくことで、仕事や人生を助けるのだということだけは忘れないようにしている。

人生の成功者には、大変な教養人が多い。
生きる知恵とでもいおうか、知識を超えた情報(貫禄、空気感)を身体に備えている。

その意味でも読者に知を届ける編集者という仕事は、自らが積極的に情報を取りに行き、身につけた教養を読者に伝えていく、重要な役職ではないだろうか。

本こそ、情報を自分から積極的に取りに行く必要がある。
その意味でネットとは真逆にあるメディアだ。
情報を能動的に取りに行き、自らの教養とする訓練に、
本を使うことは最適である。
本を使い、自分の情熱にスイッチを入れるのだ。

今回の出版事故は、決して他人事ではなく、また、多くの関係者がかかわっており、単純な話ではない。
これからの教訓として、意識して情報と教養を取りに行く態度がいかに重要であるかを、自戒を込めて再認識した。

言い換えると、出版と編集の再定義が起こっている時代の一現象なのかもしれない。

人の教養をになう出版と編集の未来と変容を期待しつつ、自らの行動を止めないことにしている。

三津田治夫

編集者、その愛すべき人種たちの未来

本づくりに携わる「編集者」という言葉の意味は、時代とともに大きく変わってきている。
そのことを最近強く感じるようになってきた。
明治の文豪幸田露伴を支えた小林勇は、作家の黒子として創作に寄り添い、作家の臨終にまで立ち会った編集者だった。
昭和の「雑誌の時代」が訪れると、石川次郎嵐山光三郎など、編集者が文化人や芸能人といった時代のナビゲーター的存在になったり、角川春樹のように出版の枠を超えてコンテンツ産業を作ってしまう編集者も現れた。
中世にさかのぼれば紀貫之は『古今和歌集』の編集者としてあれだけの作品をまとめ上げた。成果物を見ただけでも作品に対しそれなりのリクエストやダメ出しをしていたことは想像に難くない。
西洋に目を向ければ、イギリスの劇作家シェイクスピアは、複数のライターから膨大な原稿をまとめて作品を創り上げた編集者だったという説もある。アメリカのE.A.ポーは編集担当雑誌の売り上げを伸ばすために面白おかしい作品を書き続けた幻想文学作家だった。
ドイツの文芸評論家のマルセル・ライヒラニツキは雑誌編集者出身。晩年は「文学の教皇」と呼ばれ、彼の一言で書籍が一気に書店からなくなってしまうほどの影響力を持つ人物だった。

これだけ、編集者とは多様性に満ちている。
そして、文化に影響を与える力を持った存在である。

私の周りにいたさまざまな編集者たち
私の30年弱の編集者人生でも、周囲にはさまざまな編集者がうごめいていた。
文人と作品をこつこつと作り上げるように丁寧に実用書を作る編集者。
持論が強く、けんかっ早い編集者。
著者と取材対象にしか興味がなく、ほとんど会社にいない編集者。
会社にいると「くるな!」とスタッフに情報収集の檄を飛ばす編集長。
なんだかわけのわからない企画ばかり出していて、急にヒットを出して一目置かれる編集者。
一方で、なんだかわけのわからない企画ばかり出していて版元を去っていく編集者。
夜中まで飲み歩いて編集者や著者と本と文化を語り明かし、酔った勢いで出た言葉から知らぬ間に企画にまで成長させる編集者。

文化に関心があり、文化に足を突っ込んでいる編集者がたくさんいた。
そもそも、彼らは文化と本が好きなのだ。
そうした編集者という、多様性のるつぼで働く「人種」を、私は心から愛している。

しかし、こうした日本の編集者の様相が、ここ20年で大きく変わってきている。

業界構造の変化が「あそび」を奪う
最近周囲から、「編集者がタイムキーパーになった」「発刊点数合わせばかりを気にしている編集者が増えた」「担当あたりの発刊点数が多すぎる」という声をたびたび耳にする。

オリジナリティには興味がなく、二番煎じ企画にしか手を出さない編集者。
会社から下りてきたお金や時間のリクエストをなんの翻訳もなしにそのまま著者やクリエイターに丸投げする編集者。
完全に割り切って月給をもらいに来ている受け身な編集者。
こんな編集者たちが増えてきている。

前掲のような「古い」編集者は絶滅危惧種である。

これは、編集者が悪い、という単純な問題ではない。
産業構造の問題だ。
ご存じの通り、出版不況は1995年から30年近く続いている。
売上も利益率も落ちているうえに、ネットの発展による「スピード化」とは真逆の世界が出版である。
そして、出版にはお金がかかる。
紙やインキを購入し、物流や販売の費用がかかり、もちろん、編集者や業務管理の販管費・工経費もかかる。
本が売れたら書店から「チャリン」と版元にお金が入ってくる仕組みではない。
取次を通して何カ月も先にお金が入ってくる。
それに耐える手段はハードな資金繰りだ。

こうした経営環境の悪化から、編集者の多様性を受け入れる「あそび」(ゆとり)が版元からなくなってきている。
さらに言えば、昨今のガバナンスや株主利益という、出版社の厳しい経営状況をさらに締め付ける制約が待ち構えている。

ひずんだ情報のポートフォリオ
なぜ、編集者には多様性が必要なのだろうか?
編集者とは著者にとっての「第一の読者」である。
第一の読者が多様であればあるほど、本の内容が多様になる。
第一の読者が企画を「面白い!」と思えば、多様な企画は評価され、本になる。
逆に、編集者から多様性が失われると、通り一遍の内容の本しか書店に並ばない。
では、読者はそれをどう思っているのだろうか?
読者にとって、そんなことはどうでもよい。
読者は単に、読みたい本を買い、読みたくない本は買わないだけだ。
編集者の多様性を受け入れるゆとりがなくなった責任は、版元や業界にある。
読者は相変わらず、多様な社会に生活し、多様な嗜好に満ち溢れている。
しかしいまの出版の構造が、その多様性をフォローできなくなってきている。
そして、「本にない情報はネットを見ればいいじゃないか」という読者の意識と構造ができあがってきた。
これはよくない。
理由は、ネットの情報は貨幣に例えると「フロー」(右から左に流れる、雑誌の記事やテレビのような)の情報だ。
一方で書籍は、「ストック」(蓄積され、資産化され、内在化される)の情報だ。

情報のポートフォリオが完全に歪んでいるのだ。

情報が迷子になる時代
読者は減少し、出版産業の縮小はまだまだ続く。
となると、人は本を読まなくなるのだろうか?
情報のポートフォリオの観点からも、人には本が必要だ。
情報とは形に見えづらい。
ゆえに、即効性のある情報ばかりが評価の対象になりがちだ。
キーワードを大量に暗記し、テストに答えられれば評価の対象になる。
しかし「教養」は評価の対象になりづらい。
教養は知識と近い関係にある、人間性やその人の生き方である。

そもそも、大量に本を作って、大量に売りまくるという昭和の業界構造を版元が保持しているところに無理がある。
そのために編集や営業のリソースが投入される。
そのリソースを回収するほどのスケールが、いまの出版業界にはない。

多様性が失われた出版物は、このままでは次第に存在意義が失われていく。
ひいては「この企画はペイしないから出版できない」「編集制作にコストがかかりWebにも掲載できない」となり、「必要な情報なのにどこにもストックされない」という「情報の迷子」が起こる。

これだけの情報社会で、ぽっかり穴の開いたような不思議な現象である。

本づくりのトランスフォーメーションによる新しいエコシステムを
それでは出版社が、情報のストックしての「本」を、的確に読者に向けて出し続けるには、どうしたらよいのだろうか?
近年は、いわゆる「本づくり」ができる編集者が版元から減ってきているという。
一方で、フリーの編集者や個人版元、編集プロダクション、出版プロデューサーが増えつつある。
版元にとって、彼らとの協業において、編集・制作のリソースを社内に持つ負担を減らすことができる。
以前は版元から見た編集・制作のフリーランサーは、社内の業務の一部を外出しする「外注さん」だった。
しかし昨今の状況から、これが大きく変容してきている。
企画・進行と原価管理のみに徹する版元も出てきている。
外部の編集・制作者・クリエイターとの協業により、本を作るのだ。
いわば、編集・制作者・クリエイターを芸妓とすれば、版元はお茶屋さんである。
版元は、編集・制作者・クリエイターを集める場となり、読者にマッチングして、上がりをシェアする。
そうしたシステムに徹するのが、縮小した産業における、版元の一つの未来である。
著者に法外な低金額で原稿を発注したり、理解に苦しむ要求をしてくる版元もあると聞く。縮小した産業にありがちな不健全な現象である。

編集・制作者・クリエイターは、こうした産業の流れをとらえながら、版元との協業関係を結ぶべきである。
逆に版元も、こうした人たちとフェアな関係を結び、協業する仕組みと意識を持つことだ。

昭和の構造がまだまだ残る出版業界は、こうした版元・編集・制作者・クリエイターの新しい協業関係へとトランスフォーメーションすることで、「ストック情報としての本」を着実に読者に届けることができる。

「売れない本だから不要な本なのだ」とは断言できない。
本は経済原理以外で動く、一種の作品でもある。
人には、必ず必要な本がある。
多様性が高まれば、なおさらである。

こうした版元・編集・制作者・クリエイターの新しい協業関係、エコシステムを確立し、本というストック情報を通して読者と社会をハッピーにすること。

これは私のライフワークでもある。

誰にも教えてもらえなかったことが、一冊の本が教えてくれる。
その本は、誰もが平等に手にし、誰からも指図を受けず、誰もが自由に開くことができる。
そして一冊の本が、一人の人間の人生を変える。

編集者・制作者・クリエイターは、ベルトコンベアのような仕事ではなく、もっと読者に多様なエネルギーを与えられる、創造的でワクワクする仕事ができる環境があるべきだ。
そして、「生まれ変わってももう一度、編集者・制作者・クリエイターになりたい!」
という人を、一人でも増やす。

そのための、本づくりの新しいエコシステム。

そろそろ構築する時期である。

三津田治夫

第38回・飯田橋読書会の記録:『新しい世界の資源地図:エネルギー・気候変動・国家の衝突』(ダニエル・ヤーギン 著)

地政学」という言葉に皆さんはどのような印象を持つだろうか。
「学」と言われながらも大学で正式に学問されていない分野である。
日本では太平洋戦争敗戦後、国土侵略の思想原理であるとしてマッカーサーにより禁止されていた、など。

今回は、2月に勃発したロシア・ウクライナ戦争を背景に、世界状況を地政学から見てみようというテーマのもと、以下の2冊を取り上げた。

『新しい国境 新しい地政学』(クラウス・ドッズ 著)
『新しい世界の資源地図:エネルギー・気候変動・国家の衝突』(ダニエル・ヤーギン 著)

そして副読本としては以下を取り上げた。

『陸と海 世界史的な考察』(カール・シュミット 著)

今回の参加者は、主幹のKNさんとHNさん、KMさん、KHさん、HHさん、SMさん、SKさん、KAさん、私の、9人というオフラインでの大人数となった。

結論から言うと、『新しい国境 新しい地政学』に関して誰からもポジティブな意見は引き出せなかった。
選書の動機をKNさんに問うと、「柄谷行人が書評していたので面白そうだった」とのこと。
大家の目を通した書評とはいえ、偏った関心の方向性が書評に反映されてしまうこともままある。
結果、話題の中心は、作品の強さや時事性から、『新しい世界の資源地図:エネルギー・気候変動・国家の衝突』となるにいたった。

国土とエネルギー、権力をめぐる世界の物語
以下、会場のメンバーから出てきた言葉をまとめる。

まず、
「宇宙は地政学の範疇に入るのか?」
という、
宇宙ビジネスたけなわの昨今、火星に人類を送り込もうという話もある中、非常に興味深い意見だ。
宇宙が地政学的に語られれば、エネルギー所有権の問題と縄張り争いの話になり、そこから紛争が発生する。
宇宙ビジネスとは、かつて「宇宙規模で考えれば戦争は起こらないのである」と言われていた、人類へのテストでもある。

「そもそも国家、民主主義ってなんだ?」
という本質的な疑問も出てきた。
国家とは個人と社会が安全平和に暮らすためのインフラを提供するシステムである。
そして民主主義とは、個人と社会の自由を最も尊重したフレームワークである。

地政学の中核にあるエネルギー所有権の問題と縄張り争いを民主的にいかに解決するか、国家がそれにどう対応するかという課題から、国家、民主主義の本質を問う疑問が現れてくる。

今回のロシア・ウクライナ戦争が見せているように、「悪者国家×正義の連合軍」という、古くからある対立の構図が浮かび上がってくる。

「何者にも属さないノーマンズ・ランドは興味深い」
という意見も出た。
人が住まず、国境線も存在しない放置された土地がノーマンズ・ランドだ。
そこから石油やレアアースが発見されたら、発見した人は「うちの国だ!」という主張をはじめる。
そしてノーマンズ・ランドは、正式な国家へと格上げされるプロセスを経る。
そのプロセスの中で紛争が起こる。

「領地拡大欲とは生産拡大欲である。こうした欲から国民国家は成立した」
という見解は納得がいく。
拡大欲が国民国家を成立させるという、国民国家の成立にはそもそも侵略の性質が組み込まれているという見解だ。
そこに関連し昨今は、サステナブルやシェアリング、分散自律といった新しいパラダイムが注目を浴びている。

「なぜ、国家はエネルギーをめぐって争うのか?」という疑問に、
「エネルギーとは、富と生命の源泉であるから。」という明快な意見が聞こえてきた。
人類は富と生命の源泉をめぐって戦争を繰り返してきた。

「今回のウクライナ侵攻に関し、資源、食糧、核という3つを持っている中国から目を離せない」という意見は、世界が持つ共通の危機感である。
この危機感は米中関係の悪化と兄弟関係にある。

「作中に「日本」という単語が出てこない」という発見は、日本の世界的なプレゼンスの低下を意味している。
GDP世界第3位とはいえ、未来展望やダイナミズムにおいて、日本は世界から魅力ある国家ではなくなってしまったのである。

「ロシアのウクライナへの恨みは、ロシアのユーラシア主義にあるはず」
という意見は興味深い。
ロシアはソビエト連邦時代、東のヨーロッパになろうとして頑張っていた(当時は「ソ連東欧諸国」と呼ばれていた)。
この時代、ウクライナソビエト連邦の一共和国であった。
その意味で今回の戦争は、「もともとうちの国だったのに勝手な行動を取りやがって」というロシア人たちのマインドがウクライナに反映した悲劇である。

「ビジネスと戦争には“ゴールがある”という共通点がある」とは、なるほどである。
ビジネスは基本、兵站・戦略・戦術という戦争メタファーで動いている。
死活問題という言葉もビジネスではよく使われるが、ビジネスはまさに戦争である。
より正確に言えば、戦争メタファーで動いているのはビジネスというよりも経営である。
経営において兵站・戦略・戦術が尽きれば、即、ゲーム・オーバーである。

地政学とは国家盛衰を現した図面である
今回の副読本から、「カール・シュミットが法学者であるのは興味深い」という意見があがった。
カール・シュミットといえば地政学の生みの親だが、土地やエネルギーの所有を定義する「法」の観点から、戦争の時代に世界をとらえたゆえの、地政学なのである。

イギリスのシーパワー、中東とイギリス人という話題が出た際に、
ハルフォード・マッキンダー(1861~1947)、アルフレッド・マハン(1840~1914)」という2人の名前があがった。

時代と資源に話題がおよぶ。
「時代とともに資源のトレンドはシェール、リチウム、水素、レアアースなどと変遷し、同時に資源をめぐるマインドも変遷している。そこで利権を取り合う紛争が発生し、その際に誰と連合するのか、という課題が出てくる」
という意見が出てきた。

地政学の変遷は資源のトレンドと深く関係している。
まったく見向きもされなかった国家が資源で力を持つ。
その逆もまたしかりである。

話題は地政学から少し離れて、開国以前の日本における国境に移った。

「その時代の日本の国とは大将の首であり城であった」は大変わかりやすい。
人は大将の首をとった人物についていき、その人物の周囲に人が住み着きはじめる。
国は城壁であったり、お濠であったり、もしくは大将を支持する人の集落の周縁かもしれない。
日本の国境の概念は、ものすごくゆるいのだと、改めて認識するにいたった。

「日本人にはそもそも、命がけで超える国境という概念はないだろう」という意見が突然出てきた。
入鉄砲出女というぐらい関所越えは緊張感が高かったが、東西冷戦時代の東ドイツ人がエンジン付きハンググライダーで西ドイツに亡命したり、冷戦終了直前は「ヨーロッパ・ピクニック計画」と称してハンガリーからオーストリアに大量な旧共産圏国民が禁断の国境を渡っていった世界史を思い出す。
彼らの命がけの行動は旧共産圏の崩壊の引き金となるにいたった。

地政学とは大きなビジョンでとらえた現実そのもの。国取りの面白さもある」という意見もあった。
さすがに戦争まで起こると面白いとは不謹慎だが、エネルギーのトレンドをめぐって国家が強くなったり弱くなったり、他の国家と連合してまた強くなったりなど、国家盛衰の図面を現実として鮮明に見せてくれるのが地政学である。

第三次世界大戦はすでに始まっている
最後に、『新しい世界の資源地図: エネルギー・気候変動・国家の衝突』(ダニエル・ヤーギン 著)そのものについて少しだけ付け加えておく。

最近のベストセラーになっているように、非常にタイムリーな内容を詳細に調べ、かなりのパワーでまとめ上げられている。この情報量と分析力は素晴らしい。

2014年のクリミア併合からロシアとウクライナの関係が悪化したことを発端に、ウクライナに武器を共有するアメリカとロシアの関係も冷戦以降最悪となった。
こうした冒頭の話題から本編へ続くように、現在のロシア・ウクライナ戦争を予見した、ひいてはこれから起こりうる世界勢力地図の描き換えの図面がまとめられている。

作者のダニエル・ヤーギンからすると、地政学的にこの「あたりから火が上がる」ことは明らかだった。
ウクライナにはロシアからパイプラインがいくつも通っている。
ウクライナに相当額のパイプライン税を納めているプーチンとしては、飼い犬に手を噛まれたような心情であることや、米中関係の緊張をいっそう高める「一帯一路構想」など、昨今の世界情勢を読み解く判断材料に事欠かない。

地政学者など識者にとって、現在の世界情勢からお見通しだとは思うが、第三次世界大戦はすでにじまっているのだ。
第一次世界大戦はテクノロジーを駆使した初の世界大戦となり、それが第二次世界大戦まで続いた。

以降は核を持つことで東西大国がけん制し合い、アフリカや中東、南米などで局地的に代理戦争を行うことがもっぱらの戦争のスタイルだった。
そしていまは、核の保有を背景に、情報やエネルギーのスイッチを操作する(サイバー攻撃や金融システムの停止、パイプラインの停止……)ことで世界的な戦争、つまり世界大戦が成立している。

核という、広島と長崎や核実験を想起させる恐怖の心理的イメージを武器とし、情報やエネルギーといった生命にかかわる富をコントロールするという、新しい形態の世界大戦である。それが、いま起こっているのである。地政学を学ぶことで、新しい戦争の形態が浮かび上がってくる。

     * * *

さて、次回はまた視点を変えて、文学を取り上げる。
今回の戦争を鑑み、ウクライナ文学を取り上げることにする。
なかなか読書会で取り上げないと読まないだろうということで、ソビエト連邦時代のウクライナ文学の代表作、『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ著)を取り上げることにする。

ウクライナ文学により、長引くウクライナ・ロシア戦争を自分事としてとらえることができるだろうか。

文学には、文字と文脈を通してその民族と歴史の核心に迫ることができる、強力なパワーが備わっている。
そのパワーを感じてみよう。
次回も、お楽しみに。

三津田治夫

発刊後4日で早期重版決定。『事業分析・データ設計のためのモデル作成技術入門』(佐藤 正美著)

f:id:tech-dialoge:20220729094810j:image当社プロデュースの以下書籍、『DXビジネスモデル』に次ぐ2冊目の重版が決まりました。
発刊後4日での重版決定という、異例の速さでした。
お支えいただいた読者並びに著者様、TMの会の方々、版元ご担当・関係者、書店・取次様など、全関係者に、厚くお礼を申し上げます。
あと10年以上読み継がれる素晴らしい本です。
これからも何卒、よろしくお願い申し上げます。
三津田治夫

『DXビジネスモデル 80事例に学ぶ利益を生み出す攻めの戦略』の重版決定

f:id:tech-dialoge:20220714143851j:image

このたび、当社でプロデュースを手掛けさせていただいた、

『DXビジネスモデル 80事例に学ぶ利益を生み出す攻めの戦略』

の重版が決定いたしました。

著者の小野塚征志さん並びに推薦文をいただいた守屋実さん、お買い上げいただいた読者の皆様、版元各ご担当、デザイナーさん、校閲者、取次・書店様、イベントや取材をコーディネイトしてくださった方々など、関係各位に厚くお礼を申し上げます。

初版部数の多さにもかかわらず、発刊後2カ月に満たず重版を果たしたのはこの時代において異例です。

著者さんをはじめ、関係された皆様の力が一つの方向に向かったからこそ、多くの愛読者を獲得できたのだと改めて認識しております。

本作に関しては、以下の動画もアップされています。

ぜひご覧ください。


著者にきく!本TUBE

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以降も本作のご愛顧を、何卒よろしくお願い申し上げます!

三津田治夫


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