本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

作家を育てた特殊な父子関係を手紙から読む(3) ~フランツ・カフカ著『父への手紙』 新潮社『決定版カフカ全集3』より~

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 前回からの続き。

 職業と学問に関しては期待を持つべきではないという将来への予見を持っていたが、結婚の意義と可能性に関してはそうでなかった。なんとかなると思っていたから、カフカはたびたび結婚を試みた(が、残念ながらすべて婚約破棄の結果になる)。

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 なにしろすでに、小さな子供の頃から、学科専攻と職業については明瞭な予感をもっていたのです。ぼくは、そこから自分に救いが与えられることなど毛頭期待しませんでした。この点ではとっくに断念していました。
 これに反して、ぼくがまるで先見性をもたなかったのは、自分にとっての結婚の意義と可能性にかんしてです。
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 ここからカフカは自身の結婚観を語り出す。

 カフカは恋人と長続きせず、関係が進展したと思えば結婚寸前で毎度破談となる。

 彼の人格がそうさせたというよりも、むしろ、彼を取り巻く父親の目に見えない支配が無意識裏でそうさせていた。

 手紙では次のように書かれている。

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 父上の教育の副産物として述べたあらゆるネガティヴな力、つまり虚弱さ、自信の欠如、咎の意識などが、憤りとないまぜになって凝集して、しかもものの見事に、ぼくと結婚とをさえぎる遮断線となったのですから。
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 カフカは少しずつ、自分の結婚観と父親との関係をひもといていこうとする。

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 結婚し、家庭を築き、やがて生まれてくる子供たちをすべて迎えいれ、この不安定な世界のなかで護り、さらにはすこしだけ導いてやること--ぼくの確信するところでは、これこそひとりの人間にとって無上の成功です。
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 彼もまた社会的な結婚観、つまり家庭を築き子供を養い、引っ張っていくということに、「無上の成功」を見出している。しかしそれはできない、と彼はいう。

 この辺から結婚を巡って微妙な話になってくる。

 文脈から、カフカが父親に性的な事柄を質問したことが読み取れる。

 以下、少しわかりづらい話であるが、引用する。

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 そして父上と話すときたいていそうだったように、どもりながら、例の関心事について話しはじめました。......ところが父上は、いかにも父上らしくごく単純に受けとめ、どうすれば危険なしにその方面のことをやっていけるか、ひとつ忠告してやれるのだが、と言われただけでした。たぶんぼく自身、まさしくそういう返答を引き出したかったにちがいないのですが、そしてまたあの返答はたしかに、肉料理をはじめいろいろな御馳走で栄養過多になり、ほかに身体を使うこともなく、永久に自分のことだけにかまけている少年の性欲に応えるものだったのですが。しかしそれを聞いたぼくは、ひどく体面を傷つけられました。......
 ......それは一方では、ひとを圧倒するような率直さ、いわば太古の原始性をもっていますが、他方ではいうまでもなく、教えの内容そのものからすると、きわめて近代的な無謀さを持っています。
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 「あの返答」とは、カフカが「例の関心事」を、16歳のときにどもりながら話した際に父親から聞き出したものだ。手紙が書かれた当時の36歳からさかのぼること20年前の話になる。
 そのときの父親の発した「あの返答」が、20年来のショックになっているというのだ。

 さらに読んでみる。

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 「彼女は、どうやら選りすぐりのブラウスを着ていたらしいな。プラハユダヤの女たちは、その点はよく心得ている。それにのぼせて、おまえはもちろん結婚を決意した。......わたしにはおまえが判らんね。大の男が、それも都会暮しをしていて、行きずりの女と出会いがしらに結婚するなどという知恵しか出ないものかね。ほかにいくらでも可能性があるではないのかな? もし気遅れしているのなら、このわたしがついて行ってやってもいい」あなたはもっと詳細に、明確に話されたのですが、こまかな点まではもはや記憶していません。
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 「 」内は父親の発言だ。父親は息子が彼女と結婚したがっていることに理解を示さない。
 さらにこう続く。

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 ぼくについて従来から抱いていた総合的判断にもとづいて、このうえなく厭らしく、野卑で、滑稽なことを薦められた。
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 カフカは父親から、「結婚以外の女との関係」を勧めたことがわかる。

 文脈から察するところ、「もし気遅れしているのなら、このわたしが("商売女を買いに行くのに"、もしくは"一夜限りの愛人の獲得に")ついて行ってやってもいい」という意味に取れる。

 いままでの父親からのカフカのあしらわれ方から判断すると、「ちょっと女に惚れたからって結婚までしなくていいだろう。都会なんだからいくらでも女は手に入る。そもそもおまえに結婚など無理なんだから」という意味合いの「このうえなく厭らしく、野卑で、滑稽なこと」を父親が口にしたのは間違いない。

 この『父への手紙』が、恋人との結婚を父親に反対された直後に書かれたということからも、息子としてのカフカが得た心の傷と悲しみは計り知れないほど深いことがわかる。

 そこまで父親から言われてしまうと、カフカのいう次の記述には納得がいき、読む者は同情を隠しきれない。

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 すなわち、ぼくがあきらかに精神的結婚不能者だということです。それは現実には、結婚を決意した瞬間からもはや眠れなくなり、昼夜をたがわず頭がほてり、生きているというより、絶望してただうろついているだけ、といったかたちで現れました。こういう状態を惹きおこしたのは、いわゆる心労ではありません。......不安、虚弱、自己軽蔑などによる漠然とした抑圧がそれです。
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幼児期からとことん父親に抑圧されてきたカフカは、不安と自己軽蔑にさいなまされた「精神的結婚不能者」である。彼はそのように自虐的な評価を下している。

(全4回、次回に続く

三津田治夫