本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

作家を育てた特殊な父子関係を手紙から読む(4) ~フランツ・カフカ著『父への手紙』 新潮社『決定版カフカ全集3』より~

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前回からの続き

 本人にとっての最大の問題、結婚に関する記述が続く。
 次では、父・自分・結婚の関係を、「牢獄」という言葉で比喩している。

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 譬えてみれば、牢獄につながれているのに、逃亡の意図ばかりか--これだけならもしかすると達成できるかもしれませんが--さらにそのうえに、しかも同時に、牢獄を自分用の別荘に改造するという意図をもつようなものです。だが、逃亡すれば改造はできないし、改造していれば逃亡はできないはずです。父上にたいして独特な不幸な間柄にあるぼくが自立するためには、できうれば父上と全然無関係なことを、何かやらねばなりません。結婚は最大の行為であり、このうえない名誉にみちた自立性を与えてくれますが、しかし同時に、父上と最も密接に関係してくるのです。
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 「逃亡すれば改造はできないし、改造していれば逃亡はできない」とは、いかにもカフカっぽい表現だ。

 父親から支配された精神構造から逃避しつつ、その精神構造そのものを改造してしまおうというのは両立させることはまずできない。結婚により父親から離れ精神構造を変えていくのもよいが、結婚という行為自体が「父上と最も密接に関係してくる」のだから、これにより父親から離れることも精神構造も変えることもできない。

 従ってカフカにとって結婚にはいっさいの自由がない、「牢獄」ということである。

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 ぼくにとって結婚は、それがまさにあなたの固有の領分であるために踏み込めない、遮断されたものになってしまいます。ときおりぼくは、世界地図が拡げられて、それをおおい隠すように父上が身体を伸ばしておられる様子を想像します。ぼくの人生にとって問題になりうる地域は、あなたの身体がおおい隠していない、あるいはあなたの背丈では届かない部分だけかもしれないではありませんか。しかもそれは、ぼくが父上の巨大さについて抱いているイメージにふさわしく、ごくわずかの、あまり愉しそうではない辺境でしかなく、とりわけ結婚という沃野はそこにはないのです。
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 「あなたの固有の領分」とは、父親の"家長である"という領分を指す。
 父親が家長の模範となって家長を体現していて、父親は家長としてのおいしい部分も根こそぎ持っていってしまっている。だからカフカには家長になる気がないし、なることもできない。
 結婚という人生の問題が介入することで、カフカという個人の人格が、父親に一気に覆い隠されてしまう。

 最後に、カフカは結婚を受け入れられない理由として、次のように結論づけている。

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 ぼくの結婚にとって最大の障碍となっているものは、ぼく自身のうちにある、もはや抜きがたいひとつの確信なのです。すなわち、家庭を持つためには、ましてそれを維持するには、ぼくが父親において認めてきたすべての性質が必要なのだ、それも良い面も悪い面も全部ひっくるめて、父上のなかで渾然と融合されていたようなかたちで、絶対に必要なのだという確信です。
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 つまりカフカは、"父親になりたくない"。

 自分の父親を通して、嫌というほど"父親"を見せつけられてしまった。そうしたものに自分はなりたくない、というのがカフカの本心である。

 父親から数々の横暴を受け、また父親の人格的な屈折も目にして、「ぼくはそうなりたくないから家庭は持ちたくない」という。この点で、カフカの現実逃避であるということもいえるし、もう一つ言えることは、カフカはとても優しい人間だということ。

 親から暴行を受けた人間は、子供を持つと、多くの場合自分が受けたような暴行を子供にも与えるという。

 しかしカフカのような極度に想像力の高い人間は、「自分はそんなことごめんだよ」と、家庭を持つことを拒否する。

 最もよいのは「自分はひどい目にあったから子供には優しくしてやろう」だが、カフカ流の優しさでは「自分はひどい目にあったから自分は家庭を持たない。息子から人格を奪う父という存在にはならない。」という結論を持つにいたった。

 その優しさゆえに、『父への手紙』を読んでいて改めて感じるには、カフカはいつも「やられっぱなしのいじめられっこ」、という印象を受ける。

 作品の中でも主人公はいつもやられっぱなしである(代表作の『変身』『城』『審判』がそう)。

 『変身』を例に取れば、グレーゴルは変身したことで最後に喜びを見いだすわけでもなく、悲惨な状況に喜び浸るわけでもなく、ザムザ一家に天罰が下るわけでもなく、最後に天から救われるわけでもなく、グレーゴルはころりと死んでしまう。ただ、やられっぱなしなのだ。

 それをカフカ流のリアリズムと評する向きも多いが、私は『手紙』を何度か読んでいるうち、非常に気になる一文に突き当たった。
 次に引用する部分がそれだ。

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 母が重病にかかった折り、あなたが身を震わせて泣きながら、本箱にしがみついておられたときもそうでした。あるいは、つい最近ぼくの病気中も、あなたはそっと隣のオットラ(カフカの妹)の部屋までぼくの容体を見にきて、敷居のところに立ち止まり、ベッドのなかのぼくを覗こうと首を伸ばし、気遣いから手だけを振って挨拶なさった。こういう時、ぼくはやすらかに体を伸ばし、幸福のあまり泣きました。こうして書いている今も、再び涙がこみ上げてくるのです。......
 ......しかし、こうした優しい印象もまた、長い目で見ると、かえってぼくの咎の意識を増大させ、世界をぼくにとっていっそう不可解なものとする結果になったのでした。
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 カフカには、受け入れがたい恐怖と嫌悪を持つ暴君としての父親と、一方では、妻や息子(カフカ)の容体を気遣い、息子に涙ながらの幸福感を誘う優しい父親という、二人の父親がいる。『手紙』の中で"唯一"見られた、父親についてのポジティブな記述だ。

 このことをカフカは「世界をぼくにとっていっそう不可解なものとする結果」と自己分析しているが、私が思うのは、カフカが容易に受け入れられないこの世界に対して優しさを持って接することができたのは、父親への恐怖と嫌悪の一方に、「愛」が共存していたからではないか。

 愛憎とはこのことをいう。

 「愛の反意語は憎悪でなくて無関心」とマザーテレサが言ったように、愛と憎は反発するものではなく、同居する。

 幼児虐待を受け続けても親を加害者と思えない子供がいる。そうした子供は一生親の虐待を隠し続ける。逆に、虐待を受け続けた果てに親を殺してしまう子供もいる。
 双方の違いには、親子に「愛」があるかないか、ではないだろうか。

 父親から虐待を受け続けていたのであれば、ドストエフスキーの小説のように作品中で父親を殺したっていいではないか。しかしカフカはそうしない。

 グレーゴルを直接死に追いやったのはグレーゴルの父親が投げたリンゴの一撃だった。だからといって、父親は殺されたり、より強い力に罰せられたりということもない。

 カフカの父親への愛がそうさせた。

 かといって、作品中でもっと弱い者にやり返して復讐を遂げる、ということもカフカはしない。

 これはカフカの自己愛とともに、世界への愛や望みがそうさせたのだ(そもそも、世界に対してどこにも愛がない人間が大作家になれるはずはなかろうが......)。

 カフカはとことん冷たい作家だと私はずっと思い続けていたが、『父への手紙』を読んで初めて、カフカ流儀の愛と優しさを理解することができた。

 カフカの作品を不条理文学という面から見てみれば、カフカは現代のシステマティック(個人が意図しない、システム的)な「いじめ」を先取りした作家でもある。

 政治家のトップが弱肉強食という野生動物の原理を人間社会に当てはめようとしたり、国民に向かって自己責任という単語を使い出したりしたことで、ここ日本でもいじめが社会的に正当化されつつ(すでになっている?)ある。

 これに伴って貧富が開き、世界的な経済危機と相まって、自殺や犯罪が爆発的に増加した。生きていくだけで精一杯の貧困層だけではなく、食べるのに不自由のない者までが自殺をしたり、犯罪に手を染めたりをしている。

 人間を生かすために人間が開発したシステムが、人間を殺している。

 これは金銭という物質の問題だけではない。人がシステムに圧倒されて、人の目が愛を感じられなくなってしまったからではないだろうか。

 「カフカは天才だから独特の感受性を持っていて、その強靱な精神で過酷な環境下を強く生きていけたのだ」、という人もいるかもしれない。

 しかし私はそう思わない。人間は感受性の振り向けようで、いくらでも愛を感じることができる。これこそが人間が本能として生まれながらに持った知恵だ。

 知恵を使って世界から愛を感じれば(暴君から父子愛を感じ取ったカフカのように)、自殺をするほど追い詰められたり、嫉妬や恐怖心で犯罪に走ったりする人は減る。自分の置かれた立場で、最大のパフォーマンスを発揮し、十分に生きていく方法を発見することができる。

 カフカほど読み手により百様の解釈が許される作家はなかなかいない。娯楽小説として楽しんでもよいし、手紙と引き合わせて作家の人間性や生き方を想像しながら読んでみてもよい。その意味でも、カフカの作品は多くの人に読んでいただくことをお勧めする。

(以上『父への手紙』の本文は、新潮社版『決定版カフカ全集3』飛鷹節訳から引用)

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4回にわたってカフカ作『父への手紙』を掲載した。
このエントリーのオリジナルは、2010年9月13日からサイト『心との対話、技術との対話』(現在閉鎖)に掲載したもので、2013年に長野県丸子修学館高等学校演劇部が演じた、カフカの生涯を扱った戯曲『K』の底本として、頭木弘樹さん著の『絶望名人カフカの人生論』と共に使われることになった。

◎『K』の掲載された『季刊高校演劇』f:id:tech-dialoge:20180506164814j:plain

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『K』は、2013年8月2日~4日に長崎市で開催された「第59回全国高等学校演劇研究大会」で文化庁長官賞の優秀賞を受賞し、同8月24日、東京国立劇場において、24回全国高等学校総合文化祭優秀校東京公演での上演を果たした。そのときの模様は、以下YouTube動画で観ることができる。

YouTube「2013 青春舞台 長野県 丸子修学館高校」
https://youtu.be/tKt-s2lasgs

三津田治夫