本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

読みました:『ハプスブルク帝国』(岩崎周一 著) ~共産主義以前の、東欧史の本質がわかる物語~

大変興味深く拝読した。
30年前に読んでおいたら、いまの世界の見方が大きく変わっただろう。
「なんでいままでハプスブルク帝国を知ろうとしなかったのだ!」と、長年のもやもやが解かれた印象が、今回の読後感だった。

東欧の本質はソビエトではなくハプスブルクにあり
読後感の最大の理由は、本作は一言で言って、東欧史であるからだ。
東欧とはてっきり、共産主義とスラブの歴史だと思い込んでいた。

それはそれで当たっている面もあるが、東欧史の本質はハプスブルク帝国にあり、それはゲルマンとマジャールの歴史であった。

そうして視点を変えることで、ウィーンを中心に非常に多数輩出されてきたコンテンツの謎も解けてきた。ウイーンが「東欧の玄関口」と言われてきたのもよくわかる。

フロイトマーラーツヴァイク、シュニッツラー、クリムトエゴン・シーレなど、ウィーン世紀末は押し寄せるようなキラーコンテンツの数々である。
これを見て私は、オーストリアハンガリー二重帝国の消滅を惜しむかのようにクリエイターたちは濃いコンテンツを遺品として量産したのだろう、と仮説していた。しかしそれは勝手な解釈にすぎなかったことが本作を読んでわかった。

多数の超一流クリエイターたちがハプスブルク帝国という広大な土地からその中心地ウィーンに終結した。
ようは、土地が巨大だったのだ。ゆえにクリエイターの絶対数は多く、多様性にも満ちていた。
ざっくりと、バルカン半島北からポーランド南部にかけてがその領土だったから、それは広大である。

クリエイターたちは、ハプスブルク帝国を愛していた。
フロイト第一次世界大戦の開戦に歓喜しエールを送っていた話は有名だが、それはひとえに祖国愛である。

マーラ―の軍隊行進曲を彷彿させる壮大な交響曲や合唱曲は、巨大な国家を称揚し国民をエンパワーする楽曲だった。
モーツアルトハイドンが活動したウィーンというちいさな町にどうしてマーラ―が、と合点がいかなかったが、これもハプスブルク帝国というキーワードから解けてきた。

フランツ・カフカカレル・チャペックといった文学の歴史を塗り替えた特異な作家たちを輩出したのも、ハプスブルク帝国という多民族と混沌ゆえの多様性である。
測量技師が永遠に目的地にたどり着けないカフカの『城』や、国土が山椒魚の領土である海洋に侵略されてしまうチャペックの『山椒魚戦争』などは、この土地と時代ならではコンテンツである。

ローベルト・ムージルが書いた、妹との近親相姦で理想の千年王国「カカーニエン」を築くというけったいなモチーフの超大作『特性のない男』は、ハプスブルクという消えゆく千年王国への深い思いからだった。

東欧史を書き換えた一人物の記録
オーストリアハンガリー二重帝国についてはほんの少ししか書かれていなかった。
両国の妥協(アウスグライヒ)で成立した中途半端な国家だったということだけは理解できた。

第一次世界大戦の発端となったサラエボ事件によるフランツ・フェルディナント公暗殺の件も、よくある開戦の理由付け、という簡素な説明だった。この事件は謎が多くよくわからないと言われているが、開戦の理由付けであると聞いて、なるほどと理解した。

そして、本作の最終章が最も印象的だった。
オットー・フォン・ハプスブルクの記述にかなりの紙幅を割いており、これには目からうろこが落ちた。

以前、NHKスペシャルで『こうしてベルリンの壁は崩壊した ヨーロッパ・ピクニック計画』と題する番組が放映され、大変興味深く観ていた。
「西欧にピクニックに行こう!」というチラシが旧東欧で配布され、それを手にした大量の東ドイツ人たちがハンガリーオーストリアの国境に集まった事件を描いた、ドキュメンタリーだ。
1989年8月、彼らはピクニックと称し、国境を越えオーストリアへとなし崩し的に渡る。これが引き金となり同年11月、ベルリンの壁は崩壊した。
チェックポイント・チャーリーの国境警備員は無言でゲートを開き、ブランデンブルク門の東から西へとトラバントに乗った大量の東ドイツ人が次から次へと流れていった。
かくしてソビエト連邦鉄のカーテンを取り払い、旧共産圏、東欧諸国を解放するにいたった。
これがいわゆる東欧革命である。

計画の発案者として、番組の中でオットー・フォン・ハプスブルクの名前が紹介されていた。
番組を見た当時から、彼は何者だと、また「ハプスブルク」という名前がいかがわしくないか、と、いろいろと調べていた。
しかしわかったことは、当時の時代背景もあったのだろうが、欧州の議員という内容にとどまり、それ以上は深追いしなかった。
いまではWikipediaなど情報は充実し、オットー・フォン・ハプスブルクのことがあちらこちらに書かれている。調べると、ハプスブルク帝国最後の皇太子で、ナチス時代にはオーストリアを併合したヒトラーとやり合って国を転々とし、晩年はユーゴスラビア解体後クロアチアの独立を支援し、バルカン問題に首を突っ込むと身内のフランツ・フェルディナント公みたいにやられるぞと脅迫されるといった、つわものの皇族、歴史上の大人物であることが判明した。2011年7月まで存命だった。

時代に応じて、一つの歴史は何度でも書き換わる
ヨーロッパ・ピクニック計画という、歴史を塗り替えた運動が一政治家の手でなされたとは非常に考えづらく、どうやって国境警備員を買収したのだろうかまで考え、長年の謎になっていた。しかしこれも本作で解けた。

東欧革命の本懐は、旧東欧から共産主義鉄のカーテンを外し、西側の仲間に入れよう、ではない。
旧東欧を、ハプスブルク時代の混沌と多民族を受け入れる、よかった状態に戻そう、である。
それをプラン・実行した人物がハプスブルク最後の皇太子だった、ということで納得がいった。

歴史に「もし」は言いっこなしというが、もし、フロイトもマーラ―もムージルツヴァイクも存命で、1989年の東欧革命に遭遇していたら、ハプスブルク帝国の再来として、彼らは喜んで迎え入れていたに違いない。

ハプスブルク帝国』は、そんなことを気付かせてくれる貴重な作品だった。

◎参考資料

サラエボ事件(1914年6月28日)で暗殺された皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント公が乗っていた車(この1ヶ月後、第一次世界大戦勃発)。

◎下手人たちとその拳銃
●ダニロ・イリイッチ(爆弾運搬、プリンツィプの幼馴染、計画では監視役)
●ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(ボスニアの印刷工場で無政府スト決行で国外追放。結核末期。計画では手榴弾投擲)
●トリフコ・グラベジュ(学生時代に教師に暴行で前科あり)
●クヴジェトコ・ポポヴィッチ(学生、イリイッチが誘う、計画では爆弾担当)
●ヴァソ・チュブリロヴィッチ(学生、イリイッチが誘う、計画では爆弾担当)
●ムハメド・メフメドバシッチ(計画では先手役だったが行動せず)
●ガヴリロ・プリンツィプ(計画ではしんがりの刺客)

※以上、2011年3月3日、ウィーン戦争博物館にて撮影。

三津田治夫