2014年1月に第1回目を開催してはや7年。
今回で第36回を重ねることになった飯田橋読書会。
お題は、たびたび取り上げるジャンルの戯曲。
今回は、古代ギリシャの劇作家、ソポクレスの悲劇を取り上げた。
2020年2月5日の第30回読書会『ガリレイの生涯』(ブレヒト)を最後に、同年8月29日の第31回『人間・この劇的なるもの』(福田恆存)からオンライン開催となり、オフラインでの開催は実に1年と10カ月ぶりになった。
さらに1年の総まとめでもあり、参加者は10名の活況となった。
ソポクレスは紀元前497/6年ごろ~406/5年ごろに生きた古代ギリシア三大悲劇詩人の一人である。
父親殺しの「エディプスコンプレックス」をフロイトが命名したリソースの戯曲『オイディプス王』は有名。
作家は生涯で120の戯曲を書いたが、現存するものは以下の7作のみである。
『アイアス』
『トラキスの女たち』
『アンティゴネー』
『エレクトラ』
『オイディプス王』
『ピロクテテス』
『コロノスのオイディプス』
今回は上記の全作品を読書会で取り上げ、議論のたたき台とした。
私は人文書院版の古い『ギリシャ悲劇全集』から再読してみた。
20代のときにかなり読み込んだが、30年近くを経て、さっぱり物語を忘れていたことに気付いた。
また、本をめぐる新たな気づきや出会いがあり、大変興味深かった。
今回は『オイディプス王』と『エレクトラ』の2作だけを読んで全作を読んだことにしておこうかと、いささかの怠け心が発動した。
が、実際にページを開くと、ぐいぐいと作品に引き込まれ、全7作を一気に読んでしまった。
参加者も全員作品群の魅力に引き込まれ、全作を積極的に読まれていた。
さすが、古典の力はすごい。
それゆえに何千年も作品が残り伝えられているのだろう。
意外な名作『ピロクテテス』との出会い
相変わらず、さまざまな属性の参加者から多様な意見が飛び交った。
父親殺しの悲劇『オイディプス王』はマストであり、
「本作に悪人はいない」としつつ、登場人物は
「自分の正義をとうとうと語る」ことに専念し、
「明るい悲劇、ねちねちしていない」
「きっぱりと終る物語」
など、率直な意見が興味深かった。
人がバタバタと命を落とすドラマに「明るい悲劇とは何事か」といわれてしまいそうだが、この時代は「人命が軽い時代」であったからこうした命の扱われ方なのかもしれないし、とはいえ悲劇のテーマがいつも「死」であるというのは、人類最大の課題が「死」であることは科学万能の現代でも変わらないという証明でもある。
「『オイディプス王』を父権性社会の物語」と指摘するエーリッヒ・フロムのことや、一方でフェニキアやエジプトでは母権性社会であったという知識も会場内で披露された。
母親の子供の出生の恐怖と母のその心理への子の恨みという、小此木啓吾が広めた「阿闍世コンプレックス」も指摘された。
作品中では圧倒的に、『ピロクテテス』に人気が集中した。
この作品のキーワードは「弓」と「身体」。
主人公は蛇に噛まれて足が不自由な弓の達人という、特殊技能を持ったピロクテテスだ。
戦闘中上官のオデュッセウスに、島に置き去りにされる。
そして彼の持つ名弓をめぐって、オデュッセウスが舞台を動き回る。
ピロクテテスの存在と技能について
「『畸形の神 -あるいは魔術的跛者』(種村季弘)が参考になる」
という知識も受けた。
『オデュッセイア』では二枚目の英雄を演じたオデュッセウスだったが、『ピロクテテス』の中での彼は、なんとかして弓を手に入れようと、ずるがしこくふるまう嫌な男だ。
『オデュッセイア』はオデュッセウスが島から帰還する物語である。
一方で『ピロクテテス』では、当の本人が部下のピロクテテスを島に置き去りにするという、逆説的な物語だ。
『ピロクテテス』はギリシャ悲劇において一般で語られることが少ない作品であるが、機会があったらぜひ一読をお勧めする名作だ。
人がいる限り、ドラマは生み続けられる
さて、会場からは、
「八百万の神が演じるギリシャ悲劇は素晴らしい」
「ここに文化の根源がある」
「運命愛とサイエンスが混在したギリシャの世界とはいったいなんだろう」
「クリュタイメストラは元祖“毒親”だ」
「これだけの英知を持ったギリシャ民族は内戦で弱くなってまった」
「正義を突き通すことは困難という現実を劇という舞台で表現した」
「コロスとはコーラスの語源だったのだと初めて知った」
など、参加者の意見は多彩で総じてポジティブだった。
中には「自分も昔、親を殺したかった」という告白もあった。
「人間の完成はこの時代に確立していったのであろう」という発言は、ギリシャ悲劇という枠組みを超えた貴重な意見だった。
言葉が人間を創り、人間が言葉を創る。
それが循環し、歴史が歴史を創る。
私も学生時代以来の作品への接触で、たいへん興味深く再読した。
死や運命という壮大なテーマのギリシャ悲劇が、「なにが起こったのかわからない」うちに終わるチェーホフの新劇と「地続き」であるのは不思議だ。
さらにはハリウッド映画やテレビの連続ドラマ、昼のドラマなど、すべては「劇」として地続きである。
実に興味深い。
そこで、なぜドラマは生まれるのだろうかと、ふと考えてみた。
人間は命ある限りドラマを生み続ける。
しかしながら、それが作品として文字で残されない限り、次の時代にはつながらない。
古代ギリシャという、これだけの作家がこれだけの作品を排出した地域と時代には、どこかに特別な理由があるはずだ。
作品は、作家という「書き手」と読者や観客といった「受け手」の需給のバランスが成り立ったうえで生み出される。
この古代ギリシャの時代、絶妙なバランスが成立していたのだ。
これら戯曲をベースに、巨大な舞台に大人数を集め、市民らの間で作品が演じられてきた。
舞台作品の良しあしを競うコンペティションもあり、いまでいうカンヌ映画祭のような感じだ。
古代ギリシャの悲劇はこのように、国家あげて創り上げられる一大プロジェクトとして上演された。
劇場の建造や保守、劇団の運営は言うにおよばず、作家への支払いなど、かかったコストはいまのハリウッド映画もおよばないスケールだったと想像する。
古代ギリシャにこれだけのショー文化があったのは、人間が何かを失いつつあり、それを求め、人間が人間たるゆえんを獲得しようと、必死に努力した結果なのだと私は考える。
メディアでは数々のコンテンツが生み出され、人々は共感を求めてメディアへと群がる。
共感を通じて、人々は分断から逃れようとする。
多くの島々と数々の戦争、八百万の神で構成された古代ギリシャという一種の分断社会は、文学や音楽、サイエンスを通して共感を築き上げようとした。そして、まだ見えぬ未来への旅へと漕ぎ出そうとしていたのだ。いまの人たちのように。
私がいささか疲弊していた学生時代のある時期、ギリシャ悲劇を愛読し、ここにはカタルシス(心の浄化)があると共感していた。
嫌なことや理不尽なこと、「なんだかなぁ」と理解に悩むこと、思っていていても言語化できないこと、すべてはギリシャ悲劇に書かれていると納得していた。
そして「自分の悩みなんてちっぽけなものだ!」と、読後のカタルシスを通して作品に共感していた。
古代のギリシャ人たちも、カタルシスによる共感を求めて観劇に臨んだ。
舞台が人と人とをつなぎ、人々に共感と生命を与えた。
いまでは舞台がメディアとして形を変え、人と人とをつなぎ、人々に共感と生命を与えようとしている。
ブログからSNS、さてはメタバースまで、メディアは人と心の関係を再構築しつづけている。
エウリピデスの悲劇の主人公に「メディア」という女王がいたことを、ふと思い出した。
今回の読書会を通し、ギリシャ悲劇文化とネット文化は、2000年以上を経て実は地続きだった、ということを感じさせられた。
* * *
さて次回は、また趣向を変えて、現代の作品へと戻る。
お題は『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー 著)である。
これは、読書会をテーマにした本。
『はてしない物語』で物語が書かれるがごとく、読書会の中で読書会を読むという、まさにメタな読書会になってきた。
次回も、お楽しみに。