本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第34回・飯田橋読書会の記録:『孔子伝』(白川静著) ~乱世に現れた反逆の聖人~

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皆さんは孔子というと、どのようなイメージを持たれているだろうか。
渋沢栄一の『論語と算盤』はテレビドラマの影響で最近よく話題に上がるが、孔子の名前はその『論語』の原作者として第一にあげられる。

論語読みの論語知らず」のことわざでも『論語』は引き合いに出されている。
ウィクショナリー日本語版によると、「論語を読んで内容を理解してはいるが、その内容を実行しない人。転じて学識を持っているが実行の伴わない人を、嘲っていう言葉。」とある。
どんな時代に生まれたことわざであるかは定かでないが、いつの時代にも、お勉強ばかりで行動が伴わない人がいる証拠である。

今回は孔子の評伝、『孔子伝』(1972年刊)を取り上げる。
東洋学、漢字学の巨人、白川静の作品である。

ノモス対イデアの戦いの記録
本読書会ではどのような声がメンバーから出てきたであろうか。

巣ごもり生活でギター収集に没頭する方、パチンコをテーマにした書籍を編集された人文系編集者、第二の人生を求めて海辺に転居した元IT系編集者など、メンバーからはさまざまなチェックインの声が聞こえてきた。

今回取り上げた『孔子伝』に関して参加者からは、

「読めない漢字がたくさん出てくる」
「どこまでが本当でどこまでが推測か?」
カール・シュミットの著作に『大地のノモス』がある」

という発言があった。
また、

「本作は白川静の文体の粋」
白川静が自分を孔子に重ねた作品。孔子が作者に憑依している」という意見もまた面白い。

白川氏はいう。

「伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれらは、個のはたらきによって人格化され、具体化され、「述べ」られる。述べられるものは、すでに創造なのである。」

このように、文体からも、作者は創造を通して孔子の生き方を追体験したようである。

中央公論の粕谷が書かせた時代的な一冊」
という意見や、
「思想とは敗北であるという白川説を通した全共闘へのメッセージ」
という意見、
儒教は、マルクスが死んだ後のマルクス主義のようなものではないか」
という意見も興味深い。

昭和人の私からすると孔子とは、「老人を大切にし、目上の人の命令をよく聞きなさい」という、お説教の元ネタの発信者である、というイメージが強かった。
上意下達の軍国主義官僚主義、体制保持の基盤を作り上げ、人間に制約を与えた人物。孔子をそう思っていた。

しかし今回の『孔子伝』に触れ、白川静氏の解釈と文体を通して、私の考えは根本から覆された。

会場からも「本書はノモス対イデアの本である」という声があがったが、白川氏は、孔子とは混沌とした時代に新しい秩序を生もうと、「法律や習慣で人間をコントロールするノモス社会に抗した人物であった」を一貫して主張する。

敗北を通してイデアに肉迫する孔子の姿
孔子は支配者ではなく敗北者であることから作者は述べる。

「現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。」

孔子の時代にはノモスが社会を支配しており、それを破壊しようと孔子は、対話と理性を重んじるイデアを説いた。

孔子は、ノモス化しようとする社会のなかで、仁を説いた。しかしもはやイデアへの福音が受け容れられる時代ではなかった。」

さらに、こうも言う。

孔子が求めたイデアの世界は、ノモス社会とは全く相容れぬものであり、孔子の高くきびしい人間精神の探求は、つねに反ノモス的なものであった。」

変革者としての孔子の姿を作者は次のように描く。

「与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。」

そして、次のように述べる。

「思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなくてはならない。しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、 反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。」

孔子はいわば反逆者であるのだ。

そして白川氏は、現代社会へと問題を投げかける。

「ノモス的社会といえば、今日ほど巨大な社会、物量化された社会は、かってなかった。そして今日ほど、ノモスが社会的超越者として、おそるべき支配力と破壊力を示している時代はない。」

本作が刊行された1972年という時代背景から、現代のノモスを「社会的超越者」として、孔子の体験を重ね合わせる。

「数千万の、ときには数億の民衆が、ただ一つの規範に服している人に完全にノモスの支配下にある。しかもノモスは、いよいよみずからを巨大にするために、巨大都市を作り、巨大国家を作る。人は巨大都市が文化の破滅につながることをおそれるが、巨大国家が人間の生きかたと、どのように関与するかを問わない。」

孔子の時代にも、逃げ場としての圏外の世界は存在しない。

「「子、九夷に居らんと欲す」〔子竿〕と孔子が脱出を望んだ圏外の世界は、次第に失われつつある。空間的な世界のことだけではない。精神の世界において、それはいっそう深刻である。」

これに関し会場から、「白川さんはノモスを拡大解釈しているのかもしれない」という意見があがったが、長期にわたったベトナム戦争オイルショックの引き金となる中東戦争など、1972年という危機的な時代背景からも、これはあながち拡大解釈でもなかろう。

いまに目を転じると、GAFA支配やデータ社会、監視社会など、孔子の時代には想像もつかなかったITの世界から、新たなノモスが生まれているという事実もある。

白川氏は、孔子の反ノモスの原動力を一つの狂気としてとらえている。

孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。」

としながら、

「邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。そしてそれは、精神史的にも、たしかに実証しうることである。」

「あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗しうるものは、この「狂」のほかにはないように思う。」

と結んでいる。
狂気はクリエイティブの源泉ともいう。ニーチェのいう酒と創造の神デュオニソスはそれである。この意味でもまさに、孔子はクリエイターであった。

最後に、白川氏はこう述べている。

孔子の時代と、今の時代とを考えくらべてみると、人は果たしてどれだけ進歩したのであろうかと思う。たしかに悪智慧は進歩し、殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった。しかしロゴスの世界は、失われてゆくばかりではないか。」

「殺戮と破壊は、巧妙に、かつ大規模になった」現代だからこそ、対話と理性の世界、ロゴスの世界は重要である。これが、白川氏が現代の我々に投げかけるメッセージの本質である。

理性的な深い対話がこの変革期をどう動かすか
本作が上梓されて50年を経たいま、どれだけの対話が理性的に行われているのであろうか。孔子が憑依した白川氏が現代のわれわれに投げかける深い問いである。

情報があふれ、人には知識が増え、考え、対話しているような錯覚が社会から巧妙に与えられているのが、現代ではなかろうか。
このスピード社会において、本質から考え、本心から対話し、行動に反映することは、愚鈍な行為なのだろうか。
賢明な人たちは愚鈍を選ばない。
だから人はスピードと効率を選ぶのだろうか。
スピードと効率の時代にこそ、愚鈍さは価値を帯びるのではないか。

いまという時代の変革期に、考え、対話し、行動した結果が、5年後、10年後、政治経済という生々しい現実に、どう反映されてくるのだろう。

2026年、2031年になり、本読書会の記録を再読し、私たちの考えと対話の結果が現実社会にどう反映されているのか。そのときにはぜひ、このメンバーたちとともに感想を改めてみたいものである。

   * * *

さて次回は、不連続的な連続性という本読書会の運用テーマにのっとり、古典思想の50年前の解説書から現代経済学に目を転じ、『現代経済学の直観的方法』(2020年刊、長沼伸一郎 著)を取り上げる。

経済学初心者に格好の入門書としてのベストセラーである。
また、物理学者が書き上げた異色の経済学書としても評価が高い。

孔子から2500年の時を経て、現代経済学の世界に入り込む。
次回も、お楽しみに。