毎年夏になると、東京新木場(夢の島)にある第五福竜丸展示館に来る。
きっかけは、2011年6月に埼玉県草加市の講演で偶然お会いした、第五福竜丸の
乗組員として被ばくされた大石又七さんとの対話だった。
講演での質疑応答や講演後の名刺交換で20分ほど話させていただいたが、
この方のエネルギーと知性は今でも忘れられない。
またお会いしたいと思いながら年月が経ち、今年、大石さんがお亡くなりに
なられたことを聞きとても驚いた。一期一会の大切さと、思っているだけでは
なにもならないのだという現実を悔やんだ。
大石又七さんとゆかりの深い方との出会い
先日テレビをつけたら、偶然、NHKスペシャルで大石又七さんが特集されていた。
大石さんと晩年を過ごしたという、第五福竜丸展示館学芸員の市田真理さんが
インタビューに答えていた。
このような方がいたという事実に私は驚き、一度お会いすることはできないかと、
今年も展示館に足を運んだ。
が、オリンピックの関連であいにくの休館だった。
入り口に事務所があったので訪ねてみた。
市田さんを訪ねると、ご本人が出てこられた。
これもまた偶然のご縁である。
お忙しい中、一時間ほどお時間をいただき、貴重な体験やお話をお聞かせ
いただいた。
私は大石さんの著作『ビキニ事件の真実』(みすず書房刊)を取り出し、
この本のことを市田さんと語ることで時間を過ごした。
市田さんは、大石さんの講演の事務や膨大な資料のまとめ、著作活動の編集に
長年携われていた。
いまだ大石さんの死が受け入れられないとのことだった。
大石さんのことを私は多くを聞かなかったが、この談話の中でとても
印象深かった話がある。
市田さんは、第五福竜丸展示館の学芸員として、子供たちを招いて作文や
お絵かきのワークショップをよく開催されていた。そして参加された子供たちが
成長し、しばしば訪ねてきてくれるらしい。中には、社会に出てジャーナリスト
になった人も来られたという。
戦争と子供
子供たちが体感する第五福竜丸という一つの「事実」は、反戦が語られる
多くの言葉よりも雄弁な証明である。
大石さんと市田さんから得た共通の印象は、戦争や被ばくという巨大なテーマを
背負いながら、熱狂的に反戦を叫ぶ、という雰囲気はどこにもない。ひたすら、
事実を、冷静に伝える。そのうちなる重さは計り知れない。事実の強さを
理解しているからこその態度であろう。
2011年の草加市での講演で私は大石さんに「3.11に遭遇した日本人に被爆者とし
て何が言えるでしょうか?」という質問を投げかけた。
返答は、「日本人は事実を知ること。私たちはずっと事実を隠蔽され続けてきた」
であった。
この言葉を聞いたときはいまひとつピンとこなかったが、3.11以降の日本で起こ
った事実を振り返れば、事実の伝達に関してなにが起こったか、おわかりだろう。
私は子供のころから、戦争を事実として生活してきた。
私が子供時代を過ごした下町葛飾区は、東京大空襲でやられた地域だ。
中学校の隣の図書館には機関銃の弾頭や焼夷弾の破片が普通に展示されていたし、
教師からは戦争の話を嫌というほど聞かされた。中川を褌で友達と泳いでいたら
米軍の戦闘機から機関銃掃射された話、スコップで土を掘り遺体を土に埋める作
業を手伝わされたことなど。
1942年の東京空襲では、14歳の石出巳之助君が葛飾区水元国民学校の校舎を米軍
のB-25爆撃機に掃射され犠牲者となった事件があった。これも子供のころよく聞
かされた。機関銃で撃たれたらとても痛いだろう、血がたくさん出るのだろうと、
子供ながらに小さな想像力で大きな恐怖心を持っていた。
* * *
戦争を語り、考え、当たり前の日常がいかに貴重なものであるのかを共有するこ
とは大切である。
それ以前に、子供時代から「事実」(ファクト)を共有することが大切ではなか
ろうか。過去になにが起こり、私たちの人生の先輩たちはなにを体験してきたの
かというファクトを知ることが大切である。
9月から第五福竜丸展示館が再開している。
被爆の事実としてもさることながら、最後の木造大型船舶としても貴重な展示で
ある。一度は足を運ばれ、感じてみることをお勧めする。