本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第40回・飯田橋読書会の記録:『近代日本の陽明学』(小島毅著)

科学といえば森羅万象を仮説検証し再現性のある結果を得る学問で、哲学といえば人間が感知したことを言語化して検討、共有する学問。歴史学といえば過去に起こった事柄を文献や遺物で比較検証、解釈する学問。
では、今回取り上げる「陽明学」とは、どんな学問か?
今回の読書会の発端は、こんな疑問からだった。

時代の転換期に現れる「行動」の思想
陽明学とは要約すると、16世紀中国の思想家、王陽明がおこした儒教の分派である。
そして儒教とはなにかというと、紀元前5世紀に中国で活躍した思想家である孔子がつくり上げた、不正や混乱から人々を守り正しい国家をつくりましょうという当時の革命思想である。
儒教という古典思想をベースに2000年を経て登場したのが、この陽明学だ。
当時はすでに儒教の分派に朱子学があったのだが、それに対するカウンターとしての「朱子学は理屈ばかりの机上の学問。ちゃんと考え、行動しようぜ!」(知行合一)が、陽明学の中心思想である。

近江聖人と呼ばれた17世紀の中江藤樹が日本陽明学の始祖と言われており、17世紀から18世紀前半にかけて活躍した荻生徂徠や18世紀後半の本居宣長など、日本を代表する多くの思想家たちに陽明学は影響を与えている。

陽明学は、時代の転換期に姿を現す。
たとえば、陽明学を唱える人物として江戸後期には大塩平八郎、幕末には西郷隆盛渋沢栄一がいる。
また、1960年代の日本の動乱期に政治活動を行い1970年に自決した作家の三島由紀夫陽明学を唱える人物の一人だ。
いずれも「ちゃんと考え、行動しようぜ!」に則り、明治維新共産主義の危機に対するソリューションを社会に提示し、社会実装を試みた人物である。

個人的なことではあるが、水戸学に関心があったことも、今回の選書理由の一つである。
大日本史』で日本を再定義しようとした徳川光圀の行動や、西欧列強に対する尊王攘夷運動は、どんなメンタリティから出てきて、のちの日本人にどんな影響を与えたのか、などの関心があった。
もとより、山田風太郎の『魔群の通過―天狗党叙事詩』を読んで、日本にも天狗党事件という水戸藩発生の尊王攘夷の悲劇があったことを知り、その驚きとともに問題意識があった。

体系と中心が見えづらい思想
今回でキリ番の40回を迎える記念すべき読書会。
取り上げた課題図書『近代日本の陽明学』(小島毅著)に対する読書会会場からの声をまとめてみる。
課題図書に関し、
「頭に入ってきづらくて困った……」
「本作は山川菊栄三島由紀夫も左右の違いはあれ双方陽明学だったといいたかっただけでは」
と、いささか厳しい意見が多かった。

が、こうした場合の対応法を学んだメンバーたちは、頼もしくも各人で副読本を探し出し読み込み、自由な意見を言語化してくれた。
ちなみに副読本としては、
朱子学陽明学』(島田虔次)が「難しいが、よい」とされながら、
『革命の研究』(林健太郎
靖国史観』(小島毅
があげられた。

今回の参加者は幹事のKNとHN、KM、SK、HH、KS、MM、KAの各氏(敬称略)と、私を含めて9名だった。

陽明学はなじみのない思想だ」
朱子学陽明学の観点から、陽明学は弱者でマイノリティのための行動の思想、非体系」
という意見があがった。
「非体系」とは確かにそうだ。
陽明学を一言で言語化することは難しく、本来文字で構成される思想が「行動のため」とある点から、体系化をぼやかしているのであろう。
この点は後述する陽明学の本質にもかかわることだ。
儒学をロジックと体系で朱子学に進化させ、「もっと素朴に」と陽明学が登場し、体系を崩すことにより行動の促進が前面に出てきて「ヤバい方向」に行ったのだろう」という冷静な意見も出てきた。
思想は体系により文法が各人に共有されないと、時代や地域の違いで文脈が崩壊し、その場その場で個別に解釈される。こうしたことは多々起こる。このように、文法がないのはある意味自由であり、一方でコミュニケーションの崩壊をも生み出す。

陽明学という、人を動かすキーワード
議論の後半に差し掛かると、陽明学の本質が語られた。
陽明学とはなにか。
それは一言、「陽明学とはバズワード」である。
その道の造詣の深い方々に聞かれたらお叱りを受けそうな見解である。
しかし私としてはこの見解が非常に響いた。
つまり、陽明学というキーワードのもとに行動のスイッチを入れ、実行するという、突き詰めると危険思想にもいたる。
言い換えると、陽明学とは他人に行動を喚起させるための掛け声や旗印である。
身近な例では、「夢」「勇気」といったスローガン、SNSの「バズる言葉」、古くは「進め一億火の玉だ」「ほしがりません勝つまでは」などのキャッチコピーも、これに類するキーワードだ。
いわば、他人を思考停止させ、反射的に行動させるための言葉である。
確かに、戦時中や、明治維新など他国の侵略といった生存の脅威にさらされた際には、思考する時間などの暇はない。
思考停止し、一心不乱になることが自らの生命を守る。
いまではこうしたキーワードの使われ方は減ってきた。
しかしキャッチコピーや動画など、人を反射的行動へと導き、商品やサービスを購入させる方法は、Webなどのメディア上で普通に使われている。

陽明学という言葉が私たちに教えてくれることは、思考停止した自分の姿に気づくことの重要さである。
プライドの高い現代人は、自らの思考停止を進んで肯定したがらない。
思考停止から出た行動を、自由意志の話にすり替える場合が多い。

ミネルバのフクロウではないが、陽明学に類するキーワードが流布されると、なにかが終わりを告げる。
ヤバい時代が訪れるサインが出ていると言っても過言ではない。
キーワードから完全に自由に生きる人間はほとんどいない。
とはいえ、キーワードに踊らされている自分を客観視することは大切である。
陽明学というキーワードは、そんなことを私たちに教えてくれた。

   *  *  *

次回はまた趣向を変え、明治の文学作品から、森鴎外の『舞姫』『阿部一族』を取り上げる。
副読本は同作家の作品を中心に各人自由に用意していだきながら、『雁』や、今回とも関連した『大塩平八郎』が推奨されている。

明治という、日本が西欧文化と直面し、自律を守りながら、相交えぬものをうまくすり合わせ取り入れていった時代。
恋愛小説、私小説歴史小説、ドイツ文学やオーストリア文学の翻訳から漢詩まで、実に幅の広い作風を持った医師で作家の森鴎外という超人の姿に迫ってみたいと思う。
次回も、お楽しみに。

三津田治夫