本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

ChatGPTは人類を超えるか?

ChatGPTが巷で大流行だ。一時の過熱ぶりからは落ち着いてきたとはいえ、この言葉を聞かない日はない。
イーロン・マスクなどシリコンバレー系の識者が意味ありげな発言をしたり、新バージョンに対する期待感、ビジネスの根底を書き換えるのではないかという不安感など、ChatGPTという単語は、さまざまな情報で我々の心にゆさぶりをかけている。

私もそうだが、人は、パソコンに向かうと作業をするか、質問を投げかける。
Googleを開いて「柴又で一番おいしいカレー屋さんは?」などと質問を投げかける。
そのノリでChatGPTにも質問をしてしまう。
しかし、これは本来の使い方ではない。
会議のアジェンダと参加メンバーの属性を読み込ませて、
よりよい会議のアジェンダを提案してくれたり、
ソースコードを読み込ませるとリファクタリングまでしてくれる。

いわば、Googleが電子手帳の延長線上にあるものとするなら、
ChatGPTはパートナーや対話の相手、部下や同僚の延長線上にある存在ともいえる。
しかもそれが、すぐに答えを出さずに考えたり、あたかも人間がタイプインしているような振る舞いで応答してくるから、人間的で神秘的だ。
つまり、見せかけがうまい。
コンピュータならではの、見せかけのうまさを発揮している。

このような、AI系の新技術や新サービスが出てくると、毎度毎度、「人間の仕事が奪われたらどうするのか?」という声が出てくる。
機械化によって人間の仕事が奪われるのは当たり前で、実際にクレーンやブルドーザーの登場で相当数の肉体労働者は仕事を失った。
「いや、AIはそんなものじゃない」という意見も出てくるが、本質的にはまったく同じである。

人の魂の状態は、他人から見ることができない
AIは目に見えず、得体のしれないものなので、
人々はおかしな憶測におびえ、おかしな判断や見解を持つ。
明治時代の電話の開線に近いかもしれない。
当時の日本人は、電線に封筒をつるすと、瞬時に手紙が先方に届くと思い込んでいた。

いまではクレーンやブルドーザーと人間の違いが分からないという人はいない。
そして、AIとの対比においては必ず、「人間の存在価値とはなにか?」という本質的な問いが出てくる。
これは、問いとしては素晴らしい。
富や権力を持った人間の投げかけた問いではなく、アルゴリズムとデータの塊といった人造物が、作り主に対して与えた問いである。
いわばAIの出現は、人間に問いを与える鏡の出現のようである。
AIに楽譜を読み込ませるとバッハそっくりな編曲で音楽をアウトプットしてくれたり、
イラストや絵画も人間のリクエストに応じてさまざまなものを瞬時に安価にアウトプットしてくれる。

こういったAIの振る舞いからも、「人間の存在価値とはなにか?」が出てくる。
編曲や作画に限っても、AIは学習データを増やし、今後人間を超えるアウトプットをすることは間違いない。
「AIはチェスで人間に勝てるが、囲碁と将棋では無理だ」と長年言われ続けてきたが、それの言葉はすっかり過去のものになった。
まったく同じことが、さまざまな分野で起こる。

人間とAIの大きな違いを「魂の有無」と答える人もいる。
となると、「魂とはなにか?」という問いが生まれる。
身体と言葉を持ったものが魂であるのなら、人間とウリ二つの外見と音声を持ったロボットには魂がある、といえるはずだ。

人間とは、不安や関心、愛憎といった内発的な心の状態を持つ存在である。
AIにも、不安や関心、愛憎といった内発的な心の状態に「似た振る舞い」をさせることもできる。
人間の目から見えた他者の振る舞いから、内発的な心の状態の根底に、魂が入っているかどうかはわからない。

トレース不可能なAIの判断過程
人間の場合の魂とは、本能や経験、その人の価値観である。
これをAIに例えると、アルゴリズムソースコード)とデータモデル(学習データ)である。

いまのAIが神秘的で謎めいた存在としてとらえられているのは、アルゴリズムによる条件分岐のパターンとデータモデルがあまりにも膨大ゆえに、どんな条件でどうなるのかというロジックを一つ一つ追いきれないからだ。
実際、1997年に世界チェスチャンピオンを破ったIBMの元祖AIスーパーコンピュータのディープ・ブルーでさえも、なぜ人間に勝てたのか、そのロジックを追い切れていないという。

そうしたAIだから、企業での導入は長年渋られてきた。
AIに入れたデータのアウトプット過程が論理的に把握できていないと、経営資産として評価し、投資することは難しい。

そんな中、ChatGPTが彗星のごとく現れたのが、企業にとっては脅威だ。
議事録のアジェンダや来期の事業計画をChatGPTに作らせて取締役会に提出したり、経営判断に採用、ということが起こるわけだ。

入れたデータのアウトプット過程が論理的に把握できていない状況が経営に許される。
ということは、AIのアウトプットは、言ってみたら、根拠やロジックは一つ一つトレースできないが、非常にそれらしい結果であるという意味で、占星術や易、亀甲占卜、イタコの口寄せといった、占いや神秘の世界と、そうあまり変わりがないことになる。

CPUの処理速度は日々高速化し、ハードディスク上に保存されるデータの量は日々増加し続けている。これに伴いAIの処理は果てしなく高速化し、同時に学習データも果てしなく増える。つまり、AIの進化にとどまるところはない。

こんな時代に人間ができることは、AIに使われずに、AIを使うこと、と言われている。
しかしこのAIを使うこととは、具体的には、どういうことだろうか?
一言で言えば、「意思決定」である。

AIがアウトプットしたそれらしい判断を、自分の意思で採択を決定すること。
その意味で、これからの時代、人間の意思決定の局面は日々確実に増えてくる。
車は自動運転になり、ネットショッピングや動画配信では好みのものがレコメンドされてくる。意思決定の場面は減少しているように見える。
しかしこれにより、我々はさらに、AIの入り込めないアナログの領域、きわめて肉体的で精神的な領域に、心身を没入させることが増えていく。
より社会的な、より自己実現的な欲求を満たそうと、我々はあえてデジタルの逆方向に心身をゆだねる。これにより、我々が血の通った人間であることを自覚する。こんな時代はすでに来ている。

人間の判断は多岐にわたり経験は複雑である
AIと比して、我々人間が下した意思決定が優れているかどうかはわからない。理由は、意思決定とは未来にかかわることだからだ。会議で出てきた結果と占いで出てきた結果のどちらが優れているのかがわからないのと同じである。違いは、周囲が同意しているか否かだけである。

AIにはアルゴリズムという仕組みがある。その仕組みの統計学的な信ぴょう性が高いから、人はAIを信じ、事業経営にまで組み込んでいく。
では、我々人間の意思決定の信ぴょう性は、どこから生まれるのだろうか?
いままでのように、その人の見た目や、肩書、学歴、表彰履歴、実績といった過去の事象が、意思決定の信ぴょう性を高める材料になることには変わりがない。
しかし、過去の事象として採択される内容が細分化するという意味で、今後は大きな変化が生じる。学歴や表彰履歴の加えて、日々の善行まで評価の対象になる。

では、過去の事象とはなにか?
一言で言うと、物語と文脈、である。
その人にしかない人生の物語と文脈を持つこと。
そもそも、人生の物語と文脈に、人と人との間に同じものは一つとして存在しない。
AIが持つ物語と文脈とは、そのアルゴリズムとデータモデルと言い換えられる。
その人の人格や習慣、経験、記憶という、アルゴリズムとデータモデルの原型は人間の中に存在する。
しかし人間のアルゴリズムとデータモデルは、AIとは比べものにならないほど複雑で多岐にわたっている。
人間のアルゴリズムとデータモデルを形成するインプットのためのセンサー(五感)の数も、人間はAIよりも桁違いに多い。
その意味でもAIと人間を比較することはほぼ意味がない。

アルゴリズムとデータモデルという、人間の本性を磨く
では、人間がなすべきことはなにか?
自動運転やネットショッピングなどのルーチンはAIに任せ、余った時間を人格を磨き、習慣を見直し、経験と記憶を豊かにすることに費やす。つまり、人間ならではのアルゴリズムとデータモデルを磨き上げること、である。
処理速度とデータの量で人間はAIに勝つことはできないが、意思決定は人間にしかできない。言い換えると、意思決定をAIに任せてはいけない。
意思決定に自信を持てる感性とコミュニケーション力をを磨く。いうがやすしだが、これがAI時代の人間の生き方に他ならない。
言い換えると、一人一人が、人生という一度だけの物語と文脈を創るという、自分の人生のアーティストになるということである。

三津田治夫