本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

7月7日(火)、ピアニストの高橋望氏による第1回ブック・トーク大会、開催しました

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7月7日(火)「withコロナ時代に捧ぐ読書の快楽 第1回 ブック・トーク大会」、無事終了しました。
60分足らずで以下11冊を高橋望さんに猛スピードで紹介いただきました。

モーツァルトの手紙』(高橋英郎訳、小学館
方丈記』(鴨長明著、高橋源一郎現代語訳、河出書房)
『オペラと歌舞伎』(永田由幸著、水曜社)
『宇宙を聴く』(茂木一衛著、春秋社)
『忘却の整理学』(外山滋比古著、筑摩書房
『歌舞伎ナビ』(渡辺保著、マガジンハウス)
ロッシーニと料理』(水谷彰良著、透土社)
リヒテル』(ブルーノ・モンサンジュン著、筑摩書房
『雑の思想』(辻信一、高橋源一郎共著、大月書店)
長谷川利行の絵~芸術家と時代』(大塚信一著、作品社)
『珈琲屋』(大坊勝次、森光宗男共著、新潮社)

その後の質疑応答や意見交換では音楽や哲学、形而上学、数学の話など、多岐にわたり、90分ではまず終わらない勢いでした。非常に興味深く、楽しい時間でした。
高橋望さんのピアノルームからの中継で、ときどきベーゼンドルファーを弾きながら本を語っていただく高橋望さんのブック・トークのスタイルは斬新でした。
しかしながら、本の話をしていると、エンドレス。
実に面白い。
一冊の本を通して、その人の人生や世界観、価値観が浮き彫りになります。
見方を換えると、本を語るって、結構怖い(勇気がいる)し、ときには恥ずかしい。
この、恐怖や恥じらいを乗り越えたところに、本当の人間同士の、本心からの「共有」「共感」があると、今回改めて感じました。
8月1日にも開催しますので、ぜひ、高橋望さんのトークと、博覧強記の世界に浸っていただき、「共有」「共感」の場を過ごしたいと思います。
興味のある方、ぜひご参集ください!

三津田治夫

7月21日(火)『首都感染』の作家、高嶋哲夫氏をお招きし、オンライン・セミナーを緊急開催

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ウィズ・コロナ、ポスト・コロナ、アフター・コロナ、ニューノーマル、などなど……。新型コロナウイルスを巡って、さまざまなキーワードが生まれました。
一方で、私たちはそんな言葉に翻弄されているようにも見えます。

本オンラインセミナーでは、『首都感染』新型コロナウイルスを予言し、『首都崩壊』では日本の道州制国家を示唆したといわれる、作家の高嶋哲夫氏をお招きし、言葉のプロの観点から、アフター・コロナの日本の姿、世界の姿を語っていただきます。

コロナ禍をきっかけに、世の中は急激に密集社会から分散社会へと変貌しています。
都心への集中通勤なしに遠隔で働ける、企業のリモートワークの導入は、その第一歩です。
オンライン回線や遠隔会議ソフトの普及という、ITの進化がもたらした新しい働き方が、リモートワークです。
リモートワークは、分散社会を形成する起爆剤ではないでしょうか。

こうして、人と社会、お金の流れが、コロナ禍をきっかけに大きく変容しています。
高嶋哲夫氏の本オンラインセミナーを通して、先行き不透明ないま、いかに生き、いかに次の時代を働き、次の時代のビジネスを提供し、次の時代をつくるのかを、深く語っていただきます。

同氏は、コロナ禍での組織の運営方法、危機管理の方法の啓蒙活動も行い、執筆だけではなく、実活動でも、次世代へのさまざまな働きかけを行っています。

高嶋哲夫氏の言葉で印象に残るのは、「『首都感染』は予言の書物と言われるが決してそんなことはなく、物事を科学的に調べ、捉え、書き上げた結果の小説だ」、でした。
あらゆる情報を集め、客観的に捉え、事象を時間軸に配置することで、起こりうる未来を予測できる、ということです。
作家であり、科学者でもある高嶋哲夫氏の、象徴的な言葉です。

未来を執筆する作家の高嶋哲夫氏と、次の日本、次の世界へと向かう希望を、共有しましょう。
希望の共有が、私たちのよりよい明日を作っていくと願っています。
共有の人数は、1人でも多い方が良いです。
国民全員が共有すれば、それは世界におよぼす大きな力になります。

多くの方のご参加を、心から、お待ちしております。

【7/21 高嶋哲夫 オンライン特別セミナー】アフター・コロナを考える「新しい日本の形、新しい日本の創造」 (登録サイト)
https://tech-dialoge.doorkeeper.jp/events/108069


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テレワークが加速させる、地方分権社会の形づくり

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三津田治夫

第20回飯田橋読書会の記録:『サド侯爵夫人』(三島由紀夫著、新潮文庫)

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今年で早くも5年目に突入。20回目となった読書会のお題に、読書会初の戯曲、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を取り上げた。

基本、この読書会のメンバーはあくが強く満場一致の意見はまずないが、今回は見事に意見が分かれた。
「共感できない、面白みがわからない」「古くさい」「装飾過多」「作家が文章に酔っている」というネガティブから、「女性にサドを語らせるという形式に感心。三島の中の女性性が見られた」や「いない人を論じるというスタイルが面白い」「数時間で読めるサド便覧だった」などのポジティブまで、読後の見解が真っ二つに分かれた。

私は後者のポジティブ派で、今回で読んだのは4度目だ。確かに1度目に読んだときはどのように読むべきかさっぱりわからなかったが、何度か読むうちに真意が伝わってきた。天才の作品たるや何重にも複雑に思考が織り込まれているので、しばしば一読しても理解不能が起こる。

またポジティブ派の一人は、学生時代あまりにも感動したので2階で音読していたら、1階にいた母親に「息子は気が狂ったか」と思われたというエピソードを語ってくれた(仮に私の息子が音読とはいえ女言葉でモントルイユ夫人などを情感込めて演じていたらとても恐ろしい)。

異常性愛文学の元祖
サド侯爵とは言うまでもなくサディスト、サディズムの語源となった人物で、フランス革命の時代を生き抜いた、いじめや虐待を美学として確立した芸術家かつ本物の異常性愛者である。ただの変態でないところは、非常に頭脳が明晰で数々の著作を残した天才作家であること。先日、フランス政府がサド直筆の『ソドムの120日』の原稿を国宝に認定したという報道があったのには驚いた(『ソドムの120日』がどんな小説なのかは、興味がある方はぜひ読んでいただきたい)。

政府認定の変態作家という特殊性からして、三島由紀夫のお眼鏡にかなわないわけはない。奇しくも1965年、澁澤龍彦は伝記『サド侯爵の生涯』を上梓。三島由紀夫はこの本にインスパイアされ『サド侯爵夫人』を書き上げた。

会場では参加者から、三島由紀夫の常識に対する否定とアウトサイダーへの憧れが作家のサドへの共感につながっているという意見や、作中ではフランス革命を通した女性の解放を描きたかったのではないかと、読後の第一印象から話は本質的な内容へと入り込んでいった。

f:id:tech-dialoge:20200619182847j:plain◎持ち寄られた副読本たち

副読本としてサドの『悪徳の栄え』や『悲惨物語』が読まれ、それぞれからの印象も語られた。
悪徳の栄え』は私ともう一人の参加者が読んできたのだが、双方で一致した意見として、「読んでいて目が回ってきた」である。この作品は「サド裁判」として出版史に残るいわば当時のわいせつ文書である。しかしいま読むと、わいせつ性はネットや現実の方が実に高い。わいせつさというよりも、この本は極めて反社会的である。徹底的に良心を否定する極悪文学なのだ。そうした下劣な内容が澁澤龍彦の美文名訳で日本全国の書店に配本されたのだから、これは当時の出版界を震撼させた一大事件である。
『悲惨物語』は娘との近親相姦を描いた中編小説。これも主人公は極悪非道の限りを尽くすが、サドの作品にしては珍しく勧善懲悪的なエンディングだ。

こんな暗黒文学談義をしている中、読書会の会場には3歳ぐらいのかわいらしいちびっ子が二人、間違えて乱入してきた。その瞬間から、会場の暗黒中には一気に光が差した。

話は『サド侯爵夫人』に戻り、いじめられても夫を慕うルネ夫人は典型的な極道の妻ではないかという意見や、この作品はいまの定年離婚を扱った戯曲なのではないかという斬新な意見も出てきた。

そのほか、同時代の変態文学として三島由紀夫の大絶賛により世の中に送り出された覆面作家沼正三の作品『家畜人ヤプー』の名前がすぐさまあがった。本当に沼正三天野哲夫と同一人物だったのか、などの議論も出てきた。 

サドの文学は残酷で変態なのか、現代文学の方がよほど残酷なのでは、という議論にもなった。現代文学で描写される残酷性や事件性は、そのまま模倣できてしまうようなものが多い。一方でサドの場合はあまりにもスケールが大きく(たとえば国家の支配者やお金持ちはすべて変態であり、彼らの権力欲で社会が書き換えられていくような描写など)、模倣不可能で、その意味で作品以外の何物でもない。サドの作品は、言うなればダダ、キッチュである。私が読んでいる限りでも、確かにサドは変態だが、天才的な文筆力を生かして、フランス革命時代に対する個人的な恨み辛みを晴らしたかったに違いあるまい、とも感じる。彼の作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、バスティーユ監獄や各地の精神病院に、女性に媚薬を飲ませたなどの罪で延べ20年以上収監されている。あの時代本人にしてみたら、「周りにはもっとひどい奴らたくさんいるじゃないか。なんで俺ばかり」と、恨み節を吐いていたのだろう。

日本に文壇、論壇がない理由

話は三島に戻る。『サド侯爵夫人』において、彼の中の女性性が見事に表出されているという意見があった。しかしそれでも彼の女性観は、女を女としてみていない。つまり彼の天才性で、女性という存在を文学という形式や図式として捉えているのである。だからこそ、形式と図式に則って書かれる戯曲に彼にとっての名作が多く、また、『宴のあと』や『金閣寺』などの具体的な題材を持つ彼のモデル小説にも名作が多い。

このようにサドと三島を考えながら、会場内では「では、文学とはなんなのだ」という議論に話が進展した。
いまとなっては、論壇や文壇が存在しない。
「論壇や文壇なんて、権威じゃないか」「そんなもの上から目線だ」「なくたっていい」「権威があったって売れなければ意味がない」という意見もあろう。とはいえそれでいいのか、である。

言葉を通して問題提起し、事象を共有し、共通で考えるたたき台を与えてくれる場がこの日本から失われて、大丈夫なのだろうか。文学がそうした役割を失ってしまって、日本人の持つ言葉は本当に大丈夫なのだろうかという議論に発展した。またそうした日本の出版界を憂慮して、三島はああいった死に方をしたのでは、という話も出てきた。一方で「そう思わせてしまうところも三島らしい自己演出かもしれない」という鋭い指摘まで飛び出てきた。

論壇や文壇のないいまの日本社会において、なにがモラルや価値を定義しているのかという議論になった。本を例にとれば、数多く売れる本には価値があり、モラルがあるのか、という話である。そもそも日本には哲学がないよね、という意見も、英国には哲学のラジオ番組があり、フランスには哲学の授業がある。日本にはお寺という立派な哲学の場が存在していたがいまでは社会の隅に追いやられ、檀家の減ったお坊さんたちは夜になると「坊主バー」なるものを経営して衆生に功徳を施す。夜な夜なバーに訪れる男女らが僧侶相手にアルコールの力を借りて口にするのは、生命のこと、存在のこと、すなわち、哲学のことであるという。確かにヨーロッパは狭い国土に多言語多宗教がひしめき合い、それぞれを信仰のある人の言葉をない人の言葉に言い換える翻訳作業が必要になる。その作業の担い手が、哲学者である。日本に哲学が不要なのではなく、あってもよいがそれほど切迫した問題ではない、である。が、島国とはいえ、高度な情報社会では島だろうが山だろうが関係はない。哲学のない状態は、そう長くは続かないだろう。

ヨーロッパに異常性愛を扱う文豪が多い理由
ヨーロッパ文学にはサドをはじめとし、ジョルジュ・バタイユやローベルト・ムージルアルトゥール・シュニッツラーなど、異常性愛を扱った大文豪が多数いる。しかし日本にはいないよね、という議論にもなった。谷崎潤一郎永井荷風は耽美であるが異常とまではいえない。そこに出てきた意見として、「日本には禁忌がないからだ」という言葉は、本日の読書会を包摂するような鋭さを持っていた。つまり三島由紀夫は、西洋のキリスト教的禁忌をベースにした思想を持ちながら他方で天皇制や『文化防衛論』を書くという複雑な思考もって作品を作り上げた人物で、だからこそいびつで、分裂した違和感も隠しきれないのだ。

作家の分裂という意味で会場からは、『鏡子の家』の名前があがった。これは官僚とボクサー、俳優、絵描きという4人の主人公たちの群像劇で、この4人はそれぞれ三島の人格を表した分身である。この作品こそが三島の分裂性を見事に表現したものだというのだ。

虚弱体質の青年が急にボディビルをはじめたり、自衛隊体験入隊してジェット機に乗ったり、ちぐはぐで矛盾に満ちた生き方は、あまりにも才能があるからつねにその逆を行こうとするのであり、また、演じているうちに「本物になってしまう」のも三島の特長である。

三島由紀夫の晩年は、若者を率いて思想結社とも右翼団体ともいえない団体「盾の会」を結成し、その若者の介錯のもとで市ヶ谷の自衛隊駐屯地で45年の短い生涯に幕を閉じだ。

特異な才能の天才に好奇心は駆られるが、共感は?
最後に、こうした複雑でそう簡単には捉えられない日本の作家と、本国では国宝級の変態文学者というお墨付きを得たフランスの作家とを同時に扱い、諸々戸惑うところもあったが、本読書会のルールとして、結論は評論とうんちく禁止。各人に自分の言葉で語ってもらった。

三島由紀夫の作品は面白いが共感はできない」「三島は生理的に合わないし好きじゃない」や、「サドは自分の暗黒面を映し出している感じがする」「政財界の権力者がいずれも変態として描かれているところをウッシッシとほくそ笑みながら読んでしまった」「サドの描くことは、確かにちょっぴり好奇心としてはある」などの言葉が飛び交った。

とはいえ私は「まだ評論しているんじゃないかな」「皆さんかっこつけているな」と思い、何度か突っ込んでみたが、やはり上をいく言葉は出なかった。そこも話し合ってみたところ結論として出たのは、三島もサドもいい悪い好き嫌い以前に、いろいろなものを超越した天才であり、ある次元からは共感の領域を大きく逸脱してしまう。サドのことに関しても、ちょっぴりの好奇心まではあるが、あそこまで徹底した残酷は理解できない。三島にしてもそうで、晩年の行動を見ても徹底しており、私たちがあずかり知る場にはいないのである。

そう考えてみると、サドより三島の方が人間的にいいのかな、という意見もあった。また職場にはサドっ気が強い人、結構いますよね、という話も出た。とくにこうした人ほど加虐に対しておとなしく、我慢強い。そして自分よりも力が弱い者が目の前に出てきた瞬間から態度が豹変し、その人は受けてきた加虐をそのまま自分よりも力の弱い者に対して与える。これが虐待の連鎖である。「これって日本企業の典型だ」という言葉も聞こえてきた。ちなみに同じモデルの虐待の連鎖は、かつての南アフリカや各国の紛争地域で、絶えず起こっている。

話が広く深く、多岐にわたり、いささか目の回るような読書会であったが、実りの多い内容であった。

三津田治夫

テレワークが加速させる、地方分権社会の形づくり

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新型コロナウイルスの影響でテレワークを導入した企業が急激に増えた。

これにより、対面でも電話でもない、独特のコミュニケーション形態を味わってしまった人たちが急増した。

私もたびたびオンライン会議やWebセミナーを実施したが、なんともいえない距離感(目前に顔が見えるのに人の気配がない)は、言語化困難ないままでにないコミュニケーション形態、ともいえる。

人は分散し、意識はつながる
ニュース番組で、ある作家さんが、「これからは多くの人たちと離れてつながっている感覚を持った個人が増える」ということを言っていた。地方で一人で仕事をする人たちも、独居老人も、専業主婦も、ネットを通じて気持ちがつながり、意識の共同体ができ上っている、という状態なのだろう。

テレワークはこうして、私たちの内面を大きく書き換えている。
この内面の変化から第一に現れてきたものは「会社に行かなくてもいい!」という従業員の安心感だった。
その一方で、「目前にいない部下をどう評価するのか?」という管理職の不安感である。

目前にいない部下への人事評価は、「成果主義」に尽きる。
「会社勤めなのになぜ成果が問われるのだ」と、成果主義評価に慣れない人たちの働き方への意識は、根底から覆される。働き方改革の本質である。

企業にテレワークが導入されることで、スマートフォン一つで従業員の自宅は営業所になる。
地方都市や過疎地帯、海岸や山の中、リゾート地、などなど、全国津々浦々に営業所が点在する。

本社に集中していた労働が、テレワークにより「地方で本社勤務」というスタイルが当たり前になる。

これはなにを意味するのだろうか。
つまり、地方分権型社会、である。

密集が好ましくない状況が生み出した分散社会
企業のリソースが首都から全国に分散する。
これにより、今度は地方に貨幣が分散される。
貨幣が分散されれば、権力が分散される。
企業に導入されたテレークは、地方分権型社会へとつながっていく。
そしてひいては、日本の道州制という国家形態を作り上げる土台になる。
海外の連邦制国家とは異なった、日本式の幕藩体制ブレンドした、独自の道州制国家ができるのではないかと想像している。

いまの時代、一つの大きなものが万人を牛耳ることは向いていない。
そして、人が密集することも好ましくない。
好ましいのは、分散である。

高度なIT化でなんでも小型化し、ネットワーク化したいま、地方分散型社会の実現は、決して夢物語ではない。

コロナがもたらしたテレワークの普及から鮮明に見えてきた、一つの明日である。

三津田治夫

新時代の受容と戦いを「差別」から扱った不朽の名作:『破戒』(島崎藤村 著)

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私が高校生時代に亡くなった明治43年生まれの祖母から、実家山形の農家にいたときの次のような昔話をよく聞かされた。

村には「えた」という人がいて、茶碗を持って玄関の土間にやってくる。玄関から茶碗に食事を分け与え、決して土間から上に入ってこない。
彼らは牛馬の死体処理や死んだ人間の埋葬を手がけており、祖母の口調からは一種の恐れのようなものをいつも感じていた。
子供の私は、「死んだ人間を扱うなんて、怖くないの?」と祖母に聞くと、「えたはいつも、“死んだ人間よりも生きている人間の方がよっぽど怖い”といっていたよ」と答えていたのが印象深い。

祖母が語っていた「えた」が、日本の制封建社会が残した「穢多」と同じ言葉であると知ったのは、成人近くになってからのことだった。

祖母が語っていた人たちが差別をされていた人たちだったとは、祖母の言葉からはまったく想像がついていなかった。ただ子供心に祖母の言葉から感じ取っていたのは、「えた」とは別世界の人、怖い人、というイメージばかりだった。

明治文学として「穢多」の存在を中心に扱った作品が、この、『破戒』である。

差別と闘争、新生活の人間ドラマ
作品にはなにかしらの存在価値が必要になるが、この作品はまさに芸術。信州を舞台にした美しい情景描写や、主人公の教員瀬川丑松による心の煩悶、心理描写は、実に見事である。

明治時代、穢多といわれていた人たちはに「新平民」として近代社会の中に組み込まれた。しかし市民の意識下からそう簡単に差別が消え去るわけがない。
瀬川丑松を取り巻く意識から、「丑松は新平民ではないか」という周囲の疑惑がしだいに首を持ち上げてくる。
丑松は父親から、自分の出生を口に出すことはその後の人生を放棄するのと同じだという戒めを受けながら育ってきた。
そんな中、思想家の猪子と出会う。
彼は著作の冒頭で「我は穢多なり」と自分の出生を堂々と宣言し、活動し、社会的に認められている。
その後猪子は政敵に暗殺されてしまう。

猪子の生き方に感銘を受けた丑松は、自分の出生を告白して職場を去ろう決意。恋人のお志保と生徒の前で自分の出生を告白する。
彼らはその告白に耳を傾けず、丑松の人間性を認める。
恋人は彼について、猪子の未亡人と共に東京へと向かう。
同じ新平民の大日向とともに、丑松はテキサスで農業を営むことを夢見る。
そうした新生活と希望のなか、物語は幕を閉じる。

どんなエンディングかとはらはら読んでいたら、丑松は恋人と共に新生活を求めて故郷を去るという、一種のハッピーエンドだった。

明治維新以降の、新しい日本人の生き方を示唆した希望の書
しかし「新生活を求めて故郷を去る」とは、どんな未来が待ち受けているかわからないという意味で、ハッピーエンドとは言い切れない。
新生活を求めて故郷を去るというエンディングを見て、没落貴族が自らの土地から出て新生活を迎えようとするチェーホフの『桜の園』(1903年の作品)を連想した。
桜の園』は悲劇とされているが、『破戒』はどちらかと言えば未来を暗示した喜劇と感じた。
つまり島崎は、封建社会の根っこにある差別は前時代的なものであり、丑松の新生活を新時代の象徴であると描いている。

「明治になってせっかく日本は西欧の様式を受け入れたのだから、今度は意識も着替えて、自由になろう」と、藤村が読者に訴えかけているように聞こえる。
逆に言えば、藤村のような大作家がいなければ、日本の歴史から穢多という存在は単語でしか残らなかったはず。
この言葉を取り巻く意識や背景は歴史の一事象にしかすぎず、歴史家のみが持ちうる情報だったはず。
ここに一つの芸術の力を感じ取った。

目に見えず共有の困難な意識というものを、目に見え共有可能な言葉に置き換え、それを物語に組み立て、表現し、一般の読者に届けるという、芸術の誇り高い力を。

果たしていまの時代から、どういった意識が、100年後の文芸として残っていくのだろうか。
そんな疑問も『破戒』は与えてくれた。1905年の作品。

※注:穢多という言葉は差別用語です。そもそも、特定の人間に対して「けがれが多い」という意味の呼称を与えること自体おかしなことです。『破戒』のあとがきでさえ、被差別民という言葉に置換し使われています。しかしここでは、私と祖母のエピソードや、『破戒』の持つ芸術性の高さと言葉の意味との関連性を考え、被差別民など他の言葉に置換することは不可能と考え、あえて穢多という表現を使っています。

三津田治夫

コロナと「変わる」ということ

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新型コロナウイルスの到来で「働き方や生き方インフラがガラリと変わるされる」と言われている。

この、変わる、とはなにか?
すなわち「革命」である。
日本人が直近で遭遇した革命は150年以上前にさかのぼる。
明治維新(Meiji restoration and "revolution")。

明治維新のとき、日本人はどういう反応をしていたのだろうか。

「袴を脱ぐなんて、ありえない」
「ちょんまげを切るなんて、どうかしている」

である。
しかし袴をはいていたら輸入した軍艦を運転できない。
ちょんまげではヘルメットもかぶれない。
武器を操れないと西欧列強に攻め入られる。
そして、日本列島も植民下に置かれることになる。

「生存をかけた危機感」から、日本人は袴もちょんまげも捨てた。
いまの日本人も、似たような心の状況だろう。
生存をかけた危機感という意味で。

「部下が目の前にいない仕事なんて不安で仕方ないから、うちはテレワーク禁止」
「ハンコがないなんてありえないから、印鑑を持って電車で90分通勤してきなさい」

は、現状況をきっかけに、大きく塗り替わることは間違いない。

革命とはつねにこうだ。
革命以前のことが、古臭くて、野蛮。
そして、前近代的なもの、ダサいもの、古臭いもの。
こうみなされる。

そして革命からさらに時間がたつと、懐かしい。
ノスタルジー、牧歌的……。
こういった、革命以前のことが趣味的な領域へと移行していく。

上司の目の前で集合して働き、印鑑を紙におしていること。
これは、古臭くて野蛮なことと、そろそろなっていくだろう。
そしてその次。
働き方や生き方は本質の革命まで、どこまで向かって行くのだろうか?

明治維新を経て日本人は、働き方や生き方をドラスティックに変革していった。
日本人独自のメンタリティを残しながらも。
第二次世界大戦ではまたまた別の意味で働き方や生き方をドラスティックに変革していった。

さて、これからどこに行くのだろうか?

市民が向かっている道はほぼ決まっている。
が、あとは行政がどのように歩調を合わせてくるのか、である。

苦しい時期ではある。
しかし、いま、革命の世界史の一幕を万人共通で体験している。

大変な時期であり、こんな体験はお金では決して買えない。
「事実は小説よりも奇なり」とはこのこと。
生きているだけでこんな体験まで得てしまうとは、夢にも思っていなかった。

一度の人生、ポジティブな明日に向かって生き延びていきたい。

そしてこの状況を冷静にかみしめ、一歩一歩、成長してまいりましょう。

三津田治夫

『紅い砂』(高嶋哲夫 著)を読んで ~社会変革と「壁」そして自由の本質(後編)~

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前編から続く)

警察が強権をふるう監視社会
当時の東ドイツでは西ドイツのテレビ放送を傍受することができた。
これにより東ドイツの人たちも西ドイツの情報を持っていたが、傍受した内容を学校や町中などで口にすると、市民に紛れた秘密警察(ゲハイムディーンスト)に密告されるという監視社会だった。
ベルリンの壁崩壊の前夜には、教会という守られた施設に市民が集まり、牧師の説教を聞く体裁をとって情報交換を行っていた。

プラハに移動すると、ホテルもユースホステルもどこも満員。
寝る場所を求めてプラハ中央駅に向かった。
バックパッカーが40人ほどホームで寝ていたので、私もそこに加わると、警察官に追われた。警棒で殴られ、痛い思いをした。当時の東欧は、たえず警察や軍隊が市民をにらみをきかせていた。

ハイパーインフレと独裁政治が支配する旧ユーゴスラビアルーマニア
当時の内紛寸前のユーゴスラビアでは、インフレが激しかった。なにを買うにもゼロのたくさんついた値段で、紙コップ一杯の水を飲むのにも多くの紙幣が必要だった。

f:id:tech-dialoge:20200515144552j:plain◎東欧革命前のユーゴスラビア通貨「ディナール」紙幣。単位が4か国語で記述されている

首都ベオグラードでは、数十ドルの換金だったが、駅の換金所ではおびただしい厚さの貨幣の札束を渡された。貨幣単位(当時の通貨単位「ディナール」)の繰り上げスピードに伴った高額紙幣の印刷が追い付いていないのだ。換金した札束の厚さで、日本から持参した愛用の財布が壊れた。
その後私はルーマニアブカレストに行き、6日後にベオグラードで換金すると、前回よりも2割は多い札束が渡された。あとで気づいたのだが、6日間でこれだけのインフレが進んでいたのである。

f:id:tech-dialoge:20200515205315j:plain◎当時のバックパッカーの必需品、トーマスクックの時刻表
ユーゴスラビアからルーマニアへの移動時、国境に近づくと、向かいの座席にいた男から「どうかこれを隠し持ってくれ」と懇願され、大きなビニール袋を手渡された。
国境警備隊のパスポートコントロールで男は連行された(男はなぜか私に投げキッスをし、両手を振って笑っていた)。袋を開けると、中からは密輸品の粉コーヒーとコンドームが大量に出てきた。ルーマニアのさらに深刻な食糧不足、物不足を予感し、ぞっとした。

f:id:tech-dialoge:20200515144633j:plain◎東欧革命前のルーマニア通貨「レイ」紙幣
予想通り、ルーマニアでの食糧不足は最も深刻だった。
並んでもまともに食べられるものがなかった。
かろうじて長時間の行列で手に入ったものは、石のように固く歯の立たないフランスパンだった。
ちなみにこのパン、いつか食べると思いながら携行したが、とうてい食べられる代物ではなかったので、ブルガリアの首都ソフィアの公園のゴミ箱に捨てることにした。街を歩いて数十分後にそのゴミ箱を覗いてみると、そのパンは誰かに拾われ、なくなっていた。
ブルガリアでも同様に食糧不足は深刻だった。

ルーマニアでは、旅館やホテルで出てくるパン類しか食べるものがない。
ベオグラードに戻る途中、中都市ティミショアラに宿泊したとき、レストランの入口でボーイが「俺は日本のファンだ。カラテをやっている」と言い出し、ポーズをとっている。そこでまた質問攻めが始まった。私が食べ物を探している旨を告げると厨房まで通され、その場で調理した料理を内緒で山ほど食べさせてもらった。それだけ、私のような西側の情報を持つ人間は貴重だった。

ルーマニアの首都ブカレストにある大統領官邸の周囲には機関銃を持った兵士が市民を追い回し、首都では味わうことのまずない不気味な緊迫感が漂っていた。街中で沈黙する市民の空気、深刻な食料不足を通じ、東欧では最も衝撃的な印象を受けた。国家の崩壊とはこういう状態からはじまるのだということを、空腹と共に体で感じた。

私がルーマニアを訪問した翌年の1989年12月、ベルリンの壁が崩壊した翌月、独裁者ニコラエ・チャウシェスク大統領は革命軍の手で公開処刑された。この模様は当時のニュースでも頻繁に取り上げられた。また、世界史が示すとおりだ。

f:id:tech-dialoge:20200515144748j:plain◎革命後の、チャウシェスクの子供らのその後を取材した新聞記事(1992年2月18日 朝日新聞
ベルリンの壁崩壊後、東ドイツは国家として統合、消滅。
ユーゴスラビアも激しい内戦を経て国家として分裂、消滅した。
統合、分裂という異なった方向性ではあるが、国家という体制は空気のように消えてなくなってしまった。

この旅でクラコフで知り合ったドイツの友人の一人が、ベルリンの壁崩の4年後、27歳で自殺してしまった。理由はわからない。
あまりのショックで、私はどうしてよいかわからなかった。
それから10年以上たち、私は思い切って、友人のご両親に手紙を出した。とても丁重な内容の返信が返ってきた。ライプツィッヒの諸国民の戦い記念碑そばの墓地に埋葬されているそうだ。毎週彼女を墓参しているとのこと。私はまだ花の一つも添えていない。この時期の記憶として、これは最もショッキングだった。

自由の本質は、自ら手に入れるもの
東西ベルリン間同様、アメリカ・メキシコ間に築かれた「壁」は、単なる物体ではなかった。その壁は、人間の身体の移動だけではなく、モノとコトの流通を分断し、人間からさまざまな自由を剥奪する壁であった。
ベルリンの壁を西側へ越えようと、多くの東側の人たちが射殺された。『紅い砂』で描かれる壁でも、自由への壁を乗り越えようとした多くのコルドバ国民が射殺される。

なぜ革命が起こるのだろうか。
『紅い砂』を読みながら、旧東欧革命前夜の体験を再び回想した。
双方に共通するのは、「奪われた自由の獲得」である。
移動の自由、文化的な生活を送る自由、情報を得る自由、など、人が最も感じる苦痛は、自由の剥奪である。
そして、旧東欧やいまの北朝鮮、あるいは私たちが暮らす民主主義国家でも、情報を「壁」で遮断することで、多かれ少なかれ、壁の向こうの「自由」を見えなくする。

外出禁止や経済活動の停止で、モノとコトの自由な流通が分断された。移動の自由、文化的な生活を送る自由はこうして奪われている。
そこで私たちに残された重要な自由が、情報を選択し、判断する自由である点を知ることを忘れてはならない。

いま、敵は人間ではない。
ウイルスである。
全人類が同時に当事者となってしまった。
こうなると、「壁」どころではない。
あるいは、「宗教」や「人種」でもない。
いままでにない戦いと革命・社会変革の時代が訪れた。

私たちは、目に見えない敵であり目に見えない「壁」であるウイルスから自由になろうと闘っている。
そして、ポスト・コロナ社会を迎えるための革命・社会変革の準備を着々と行っている。
『紅い砂』は、自由とはなにか、「壁」とななにか、戦うとはなにかを、中米の革命劇を通して教えてくれる。
自由とは、勝手に落ちてくるものではない。
自らの意思で手に入れるものだ。
普段考える機会の少なかった、そしていまこそ重要な課題を体験し、考えさせてくれる貴重な作品である。そのきっかけとしても、ぜひ『紅い砂』の一読をお勧めする。

(おわり)

三津田治夫