本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

読みました:中欧の香り漂うポーランド文学『逃亡派』(オルガ・トカルチュク 著、小椋彩 訳)

旅の物語や解剖学にまつわる昔話、量子力学ショパンの心臓のエピソードなど、116の断章からなる不思議なポーランド文学。
ポーランドと言えばお隣のウクライナが緊張状態で大変なことになっている。
このような、西と東の狭間にある地理的状況と、それゆえの日本人には考えもつかない複雑なポーランド史が(国家の消滅や国境の移動など……)、本作の背景のメンタリティに備わっている。

本作において、作者の高度なインテリジェンスを感じさせる。
これは一種の奇書である。
時間や空間を絶え間なく移動するテーマは、時間と空間と身体。
日本でも昔「人体の不思議展」で話題となりキリスト教界で物議をかもした「プラスティネーション」(超リアルな人体標本)がしばしば話題にあがる。
作者いわく、ポーランド文学は東欧文学ではなく中欧文学であるという。
その意味で地政学的にチェコカフカ中欧文学に入るだろう。
カフカも長編作品をいくつも残しているが、トカルチュクの作品のように一見バラバラに見える断章を編集(マックス・ブロート)が上手につなぎ合わせことを想像する。

ナマの中欧文学がトカルチュクの作品なのかなあ、と、ふと感じた。
116の断章は、各々のエピソードとしては興味深く、理解できる。
しかしそれらがどんな関係性を持ち、作家がどういった問題意識をもって書いたのかは、あまりにも形而上学的なので、推して知るほかはない(自分という存在への疑問や不安)。

2021年1月に越谷で出会ったポーランド人青年のマツェイ氏からの強いお勧めで読んでみた。
しかし、形而上学的過ぎて、わからない。
そこがまた、独特なメンタリティが投影されたポーランド文学の魅力なのだろう。
学生時代ポーランド人の語学教員にゴンブロヴィッチの『フェルディドルケ』を強く勧められた。以降3回読んだが、さっぱりわからなかった。
おそらく原文で読んだら語調の面白さでわかる、という類の作品なのだろうと察し、4度目を読むことは断念した。
ヴィトキエヴィッチにも挑戦しようと思ったが、さすがにそれはやめた。

ともあれ日本の翻訳文化は素晴らしい。
世界中の作品が書店で手に入り、日本語で読めるのだから。
その国の人のメンタリティに触れるには、その国の文学に触れることが最良であることは間違いない。
インドネシア文学を何冊か読んでインドネシア人との食事の話題にしたら、いたく感心され、話が盛り上がった。
文学にはそういった強力な効能がある。
小椋彩氏の名訳。

三津田治夫

「クイーンと私」【その1】:『Queen2』

写真の『Queen2』は、15歳のとき(1983年)、私が生まれて初めて購入した輸入盤LPレコード。
当時国内版LPというと2600円したが、輸入盤だと1700円で買えたので、葛飾の自宅からお茶の水まで電車賃節約のため自転車をこいで『Queen2』を買いに行ったものだ。

ジャケットがサランラップのような薄いビニールにくるまれており、爪でぴりッと開封すると輸入盤独特のにおいが漂ってきた記憶はいまだ新しい。

盤をターンテーブルに乗せたときの『Queen2』サウンドは衝撃的。
いまでも『Queen2』は個人的な愛聴盤。
旅行のときや野宿のとき、試験勉強のときなど、いつでも聞いていた。
いま聞いても、15歳当時の風景や空気、感情が、盤から出てくる音の中から浮かび上がってくる。

無人島にロックのアルバムを1枚だけ持っていってよい」と言われたら、私は迷わず『Queen2』と答える。
この1枚との出会いを境に、私はいろいろなロックを漁りはじめ、その後クラシックへとのめりこんでいった。
そんなきっかけを与えてくれた貴重な音源が『Queen2』だった。

三津田治夫

当社株式会社ツークンフト・ワークスは創業7年目を迎えることができました

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本日、2024年1月11日(木)をもちまして、当社株式会社ツークンフト・ワークスは創業7年目を迎えることができました。
ここまで来られたのは、支えてくださった皆様のお力にほかなりません。
ここをもって、厚くお礼を申し上げます。

2018年1月、雪が降りそうな曇り空の中、司法書士事務所に登記に行ったことが昨日のことのようです。
出版社を退職して組織を離れ、本当に一人でやっていけるのだろうかと半信半疑でしたが、出版の原点に返って、読者に知を届けるための道具としての本づくりを目前のゴールとし、書籍出版とコミュニティ、オンラインでの活動を連携させながら動いてまいりました。

一昨年の2022年には、新しい働き方の試みとしてワーケーションを取り入れ、さまざまな属性の人たちや企画と接触し、新しい出版価値の出し方を得ることができました。

昨年は、ドイツ、イギリス、デンマークでの視察・取材・ワーケーションを実施し、世界の人と土地と接しながら、これからの本づくりを考えました。
書籍出版においては、アートやブロックチェーン技術といった、新領域への挑戦ができ、これまでにない手ごたえを得ることができました。
また、プライベートで共同運営している読書会コミュニティが10年目、開催総計45回を迎えることができたのもこの年でした。

このような活動を行いながら、著者さんやデザイナーさん、編集者、出版社との、当社ならではの関係性の構築や価値の提供ができたのではないかと感じています。

2024年は、これまでに蒔いた種の刈り入れの年だと認識しています。
会社としての体力をつけ、つねに動きながら考えるを実行できるようにし、出版にとどまらず、本の本質である「伝える」と「対話」をテーマに、本とITを中心にビジネスからアートまで、8年目に向けて、さまざまな形態でコンテンツをアウトプットしていけたらと考えております。

まだまだやりたいこと、やるべきこと、山積ですが、引き続き新しいコンテンツ作りをご一緒いただけましたら幸甚です。

今後とも変わらず、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。

株式会社ツークンフト・ワークス 三津田治夫

読みました:『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(トーマス・マン著)

未完の中編ながらも、実は、本作は名著『魔の山』『ヴェニスに死す』にはめ込む挿話として構想されていたものだという。1922~1937年の作品。

トーマス・マン独特の、言葉をこねくり回したような表現と、この時代のドイツ語文学ならではの描写や文脈が盛りだくさんで面白い。
トーマス・マンはどこが面白いのかまったくわからない作家だったが、読めば読むほどその文体と深みにとらわれていく。

ちなみに「トーマス・マン面白いぞスイッチ」が入った体験は、長編『ブッデンブローク家の人々』との出会いであった。これは是非の一読をお薦めする。ちなみに興味が尽きず、北杜夫の『楡家の人々』まで読んでしまった。

『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』は書名にもある通り、主人公が詐欺師という設定。
詐欺師とドイツ文学の関係は深く、文豪ゲーテが当時の大詐欺師カリオストロをおしのびで取材に行ったときの記録を『イタリア紀行』に記したのは有名な話だ。のちにゲーテカリオストロを主人公にした『大コフタ』という戯曲を残している。トーマス・マンが詐欺師に着目したのは、ゲーテの影響が大きかったことは明らかだ。

断筆されたゆえに、フェーリクス・クルルが詐欺師として活躍するという話にまでには残念ながら至っていないが、少年時代に瞳孔を収縮させる術を編み出したり、さまざまな衣装に着替えて人の心を動かすテクニックを身につけるなど、詐欺師としての素養が積み上げられていく過程が細かく描かれている。
子供時代に積み上げられた身体変幻術は青年時代の徴兵検査の際に活用され、めでたく兵役忌避が達成されるというところで話が終わる。

もし、詐欺師というアウトサイダーが主人公の長編として『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』が上梓され、『魔の山』『ヴェニスに死す』がその一挿話として組み込まれるという形態で発表されていたら、どんな世界文学史になっていただろうか。
文庫にしたらおそらく6巻本ほどの『ヨセフとその兄弟』並みの詐欺師大河小説になったいたはずだ。
こんな出版方法を出版社はまず許さないだろうが、文学史のタラレバを考えていると興味に尽きない。

以下本文から、トーマス・マンならではの文体で語られた詐欺師像について引用する(佐藤晃一訳)。

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何ら高い真理に基づかない真赤な嘘にすぎないようなごまかしは、すべて無器用で不完全で、誰の眼にも見抜かれてしまう。はしからはしまで詐欺の名に値するというのではなく、完全に現実の世界にはいりこんでいるわけではないのだが生き生きとしていて、世間に認められ受入れられるのに必要な物質的特徴を持っている真理が仕掛けるものにほかならぬような詐欺だけが、ひとびとのあいだで成功し撥刺たる効果を持つ見込みがあるのだ。
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読むと、ビジネス、マーケティング、テレビショッピングの手法が、すでに100年前にトーマス・マンの手で言語化されていることがわかる。

偉大な芸術家は、人間が持つ原理原則を見通し、文字という制約の高いメディアを使い、人間の本質を共有する天才である。本作を読んで芸術家の底力を改めて感じた。

三津田治夫

『リチャード三世』を読みました ~イングランド・シェイクスピア・デスメタルの深い関係~

10月に亡くなった友人の元Toransgressor(トランスグレッサー)Bass、キクちゃんが住んでいたストラトフォード・アポン・エイヴォンの作家、シェイクスピア『リチャード三世』を読んでいた。

シェイクスピアの悲劇といえば『ハムレット』や『マクベス』『リア王』『ロミオとジュリエット』といった、主人公の心理葛藤が描き出された作品群を想起するが、この『リチャード三世』は、心理よりも身体行動が先行する作品。同名の主人公が欲望を満たすために悪徳の限りを尽くす流血悲劇だ。

シェイクスピアってこんな作風だったか、と思いつつ、ふと、『タイタス・アンドロニカス』を思い出した。これもまたひどい流血悲劇。

そして調べると、『リチャード三世』は彼にとっての初期の作品であり、この前作が処女作の『ヘンリー六世』であるという。どおりで、『リチャード三世』には「ヘンリー六世」の記述が多い。

スコットランド女王メアリー・ステュアートの生涯は、シェイクスピアマクベス夫人のモチーフを提供したといわれている。彼の同時代人ゆえ、メアリー・ステュアートの生きざまが、その他多くのアイデアを提供したであろうことは想像がつく。

メアリー・ステュアートの人生も、エリザベス一世との女同士の権力の戦いの中で、血で血を洗う悲劇の連続だ。
20代前半でメアリー・ステュアートの処刑をリアルタイムで知ったシェイクスピアにとって、メアリー・ステュアートほどインスピレーションを掻き立てる女子はいなかっただろう。

こうした史実が、アーティストの手でドラマとして記述され、500年近くも連綿と演じられ、歴史と人物が人口に膾炙しているイングランドという島国は、神と伝説の国である日本とは大変な差異がある。

キクちゃんがアーティストとしてライフワークにしていたデスメタルも、死や運命、流血といった、人間を取り巻くネガティブな現実面を煮詰めた音楽、アートだ。
メタルの発生地であるイングランドが、流血悲劇作家の国であるという点でつながってくる。

悲劇/喜劇も美/醜も、アーティストの手で受け手が受容できうる整合性さえとられれば、すべては作品になりうる。
その意味でもキクちゃんは、音楽の作り手として、ジャケットなどアートワークのつくり手として、彼は本物のアーティストだった。

ストラトフォード・アポン・エイヴォンシェイクスピア/キクちゃん」の三題噺ではないが、『リチャード三世』から見えてきた風景を、キクちゃんのご冥福を心から祈りながらまとめてみた。

三津田治夫

バッハの大作をつづる、『ヨハネ受難曲』(礒山雅著)を読みました

師走になると日本もしだいにキリスト教の雰囲気(クリスマス商戦)になっていくが、課題図書として読んだイスラム教をめぐる歴史書『アラブが見た十字軍』から一変し、今度は『ヨハネ受難曲』(礒山雅著)を読んだ。
原曲を聞きながら何度も読むとさらに味わいが深まる。
非常に素晴らしい著作だった。

著者の礒山雅さんが大雪の中の不慮の事故で急死されたのは記憶に新しく、ショックだった。
『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』もまた素晴らしい作品で、この方にはまだまだバッハを書いていただきたかった。
そんな同氏の遺作が、『ヨハネ受難曲』である。

本作のなにが素晴らしいのかというと、(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』でもそうだったが)バッハという人物があたかも目の前に生きているかのような書き方がなされている点。

加えて、著者による聖書へのテキストクリティーク(ドイツ語ルター版とギリシャ語版にまで言及している)と、楽譜クリティーク(という呼び方で正しい?)が緻密で興味深い。

他のバッハ研究家と比較したことはないが、日本でここまで人生をかけてバッハへと情熱的に迫った人は、ほかにいないのではないだろうか。

同氏の著作から得たバッハという人物に対する最大の疑問は、
その音楽づくりのモチベーションがどこにあるのか、である。

いまなら、音楽の再生回数やPV、ダウンロード数、視聴率の高さ、バズったか、など、何人の大衆の心をつかんだのかという数値指標が重要になる。

バッハは天と神に向かってアートを突き詰めた人物、とも言われているが、彼は仕事を通してキリスト教プロテスタント)の信者を増やすという布教活動を支援していたので、そのモチベーションの一つは、「信者数を増やす」は明らかである。同時に、教会関係者の信頼を得ることもそうだ。

こういった宗教的な活動意識と同時に、バッハはたびたび教会関係者とギャラの面で揉めて異議申し立てをしたという記録もある。その他晩年は、チェンバロのレンタル業も営んでいて、自身の音楽事業を支える資金繰りにも、経営者として余念がなかった。

バッハの作品を聴こうと教会に来る人が増え、歌手や牧師の口を通した聖書の言葉にその人々が感銘を受け、その結果として洗礼を受ける人が増え、お布施が急増する状態が、いまでいう「バズる」であろう。結果、バッハは教会運営関係者から「よくやった!」と評価され、彼へのお支払い(報酬)が増えるのだろう。

なにが言いたいのかというと、当時の職業アーティストとしてのバッハは、なにを原動力の中心として、仕事としてあれだけ大量な音楽作品をアウトプットし、宗教に関係なく(私のような非クリスチャンにも)世界中の人々の心(私のような極東の日本人にも)に感動を与えることができたのか、という疑問である。

恐らく、「布教」も「バズ」るもそうだが、アーティスト(情報の出し手)は、「入信者数」や「再生回数」といった数値を求めていなかった。
数値は「過去」の行動の結果に過ぎない。目標数値も、過去の情報をもとに設定される。
アーティストという、未来に向かってアウトプットするという行動原則の、真逆の発想にある。

TouTubeに『ヨハネ受難曲』の良質な音源が上がっていた。
これに長時間聴き入ってしまった(カール・リヒター:指揮、ペーター・シュライヤー:テノールエヴァンゲリスト))。

https://youtu.be/tPQgHScLK8o?si=1ku2mt5pfq-zZ7gl

ヨハネ受難曲』は、著作、音楽、ともに、宗教や時代・歴史、地域を超えて、さまざまな感動や疑問を投げかけてくれる貴重な音楽作品だった。

バッハはこの直後、『マタイ受難曲』という3時間オーバーの超大作を書き上げた。このことに関しても、もしいつか機会があったら書いてみたい。

三津田治夫

第44回飯田橋読書会の記録:『百年の孤独』(ガルシア・マルケス著)

前回の『昨日の世界』(シュテファン・ツヴァイク著)と打って変わって、今回は南米コロンビアのノーベル文学賞作家、ガルシア・マルケス(1928~2014年)の代表作、『百年の孤独』(原作1967年発表。日本発表1972年)を取り上げた。

架空の町マコンドを舞台にブエンディア一家が繰り広げる7代記。
キャラが立った男女が多数入り組んで登場し、死んだ登場人物が復活したり、豚のしっぽを持った子供が近親相姦で生まれてきたり、不思議なエピソードが群れをなす100年の物語。

魔術的リアリズム」「世界文学の時代を画した超名作」といった評価が世界を取り巻き、Web上でも多数の書評エントリがアップされている。いわば、古典である。

否定はダメだが、右ならえもダメ。権威のある古典だからといって「知ったか」をこかずに読み手の正直さを尊重する本読書会において、新しい世界観を文字構築した本作品に深い敬意を表しつつも、告白すると、個人的にはあまり響かなかった。

権威のある古典がなかなか響かなかった過去事例として、ポーランド文学の巨匠、ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥルケ』があった。「超面白い」とある方から強く推薦されて3度読んだが、面白みがほとんどわからなかった。
類似の感覚を、『百年の孤独』からも今回は得た次第だ。

南米文学では、こちらもノーベル文学賞作家、マリオ・バルガス=リョサによる『密林の語り部』は面白く読んだ。幻想文学推理小説の趣があり、興味深く一気に読んだことを覚えている。

もう一つ、響きづらかったのは、マルケスの作品として初めて手にした『物語の作り方』の印象が、個人的には強すぎた点があげられる。
テレビドラマの脚本を作るドキュメンタリー形式の作品で、とにかく視聴率を稼ぐストーリーを作りましょうといった調子が面白かった。「マルケスってこんな実利主義者だったのだ」と感心しながら、文筆のプロ中のプロの言葉に深く共感を抱いた。
同時に、文学とエンタテイメントの古くからの深い関係も想起し、売れる小説づくりや、観客への効果の高い舞台づくりに心血を注いだヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの仕事を思い出した。
そのあとに『戒厳令下チリ潜入記―ある映画監督の冒険』という作品も読んだが、タイトルの通り、『百年の調独』とは趣向を異にするジャーナリスティックな内容だった。

「掴み」が随所にある作品
今回の参加者は、KN、HN、KM、HH、SK、KA、KS(敬称略)、と三津田の計8名。
『百年の調独』に関し、今回、会場からはどのような声が上がってきたのだろうか。

「さらっと読んだ時点で、すごい面白いと感じた」
「物語の「掴み」が随所にある」

といったポジティブな意見が大半だった。
一方で、

「全然面白くない。1980年代の「知的ブーム」の産物だ」
「スラスラ読めたが印象がうすい」
「コミック的」

と、いささかネガティブないしブームの産物という意見があった。
1980年代はニュー・アカデミズムや非西洋の価値観といった、いままでにないものに焦点があてられた時代だ。
このころ「『百年の孤独』を読んだぜ!」と自慢する同級生もいた。
マルケスという南米出現の知、といったところに新鮮味があったのが本作である。

「面白いと思ったが「どう語るの?」と迷ってしまった」
「行動で表現されている」

と、自分の言葉で人に伝えることが難しい本作の作風を指摘する声もいくつか聞こえてきた。

「3回目のチャレンジでやっと読めた!」

というように、読者を選ぶ本作の特性を率直に口にする参加者もいた。
『伝奇集』でおなじみの南米の大作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの名前も会場からは聞こえてきた。

ラテンアメリカ文学において「カリブ性」の有無が重要。それのないアルゼンチンのボルヘスとは類似性が少ない」

おばあちゃんがとくとくと語る「物語」である
百年の孤独』には中心が見えない。
私の、つかみどころのない作品に対する印象のおもな動機がここだ。
そんなことを会場で口にしていたら、ふと、KSさんの口から、

「おばあちゃん語りの本」

という発言があった。
つまり本作は、おばあちゃんがとくとくと語る物語である。
確かに、物語には中心がない。
中心にあるものは、ウルスラという本作の核をなす女傑である。
以下、本文から引用する。

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アウレリャノ・トリステが机の上で描いてみせた図面ーーそれは、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが太陽戦争の計画書に添えた図解を思いださせたーーを前にしてウルスラは、時間というものはぐるぐる回っているという、ふだんの印象をいっそう強めた。
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物語だから、話は円環する。
日本人になじみが深い物語に『源氏物語』がある。
絶世の美男子を主人公に、命が生まれ、恋が生まれ、そして命が生まれ、死んでいく。
それが延々と繰り返される。
生と死と恋愛の物語だ。
語り部はおらず、生と死と恋愛という一本の柱を軸に、物語が円環していくのだ。

物語文学といえば、以前、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』を読書会で取り上げたことを思い出した。
はじめも終わりもない、奇妙な物語だった。

最後に『物語の作り方』から、マルケスが自身の作品観を示した私の好きな一文を紹介する。

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ものを書く時は、セルバンテスよりも自分の方が上なんだと自分に言い聞かせないといけない。
とにかく理想を高く掲げて、一歩でもそれに近づこうとすることだ。
それに、しっかりした考えを持つこと。
削除すべきものを削除し、他人の意見に耳を傾けて、それについて真剣に考えるだけの勇気を持たなくてはいけない。
そこから一歩踏み出せば、自分たちがいいと思っているものをいったん疑ってかかったり、それが本当にいいものかどうか確かめられるようになる。
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次回はさらに趣を変えて、ほぼ議論することなく、KNさんの鶴の一声で、『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著)が課題図書として選定された。
昨今のパレスチナ問題への関心から、イスラム関連の著作を読んでみたいという声が、そもそもの発端だった。
歴史は勝者が作るものだ。やられっぱなしのアラブから見た白人による十字軍遠征は、どういった戦争だったのだろうか。
次回も、お楽しみに。

三津田治夫