本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

読みました:『ネオ・ダダの逆説 ~反芸術と芸術~』(菅章 著、みすず書房 刊) ~アートとその本質とのジレンマ~

作者は『現代美術史』(山本浩貴著)に記された日本現代美術史を取り上げ、「驚くべきことに〈ネオ・ダダ〉は〈ハイレッド・センター〉の項目の中で、赤瀬川原平を語る際(「赤瀬川原平とネオ・ダダ」という小見出しが付され)わずか10行の記述にとどまり、解説以前の扱いになっている。」と語っている。アート史に埋もれつつある「ネオ・ダダ」を救済しようという試みが、本作の主題である。

ネオ・ダダとは、1910年代半ば~1924年に起こったアート活動である「ダダ」(1916年にトリスタン・ツアラが命名)の現代版である。
ダダの流れから1924年アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いといった、理解困難な(理解されることを拒否した)詩やオブジェの創作を含む「シュルレアリスム」へと進化する。
大づかみに言えば、こうした理解困難なアート活動の原点であるダダに回帰し、1958年の第10回読売アンデパンダン展を起点に日本で発生した「反芸術活動」が、ネオ・ダダである。

残ることのない一回生の芸術
注目すべきは、作者の菅章氏が大分生まれの大分市美術館館長で、ネオ・ダダの中心人物である赤瀬川原平(1937~2014年)は幼少期から大分県大分市で育ち、別府国際コンベンションセンターを設計した建築家の磯崎新(1931~2022年)は大分市出身、身体アーティストの風倉匠(1936~2007年)も大分市出身という、九州大分はネオ・ダダというアート発信の中心地だった点である。

赤瀬川原平は、千円札裁判(1963年)で偽造紙幣はアートか否かという物議を醸し、宮武外骨リバイバルさせたり、廃墟や遺構の意味を再定義した『超芸術トマソン』(1987年)や路上観察学会の立ち上げ、超芸術トマソンの人間版である『老人力』(1998年)の上梓など、メディア界で八面六臂の活躍を見せる作家だ。

中でも、本作の第2部で取り上げられている、風倉匠は大変興味深かった。また、ネオ・ダダ活動においてきわめて象徴的な存在感のある作家である。
第一に彼は、「作品を残したがらなかった」という。
パフォーマンスやハプニングを表現の主体とし、中でもバルーンの中に入って動き回るパフォーマンスが代表作。ナム・ジュン・パイクは彼を「世界で最も無名な有名人」と評しリスペクトしていた。

風倉匠の志向からも、作品の一回性を尊重したであろうし、そもそも彼の活動は「代表作」といわれることすら拒絶したであろう。
作品を残したがらなかった姿勢は、作品が歴史になり、権威になることを徹底拒絶した、ともいえる。

一回性の芸術といえば、1994年ごろ、つくばに住む友人から「うちでパフォーマンスをやるから」と誘われ、元山海塾の滑川五郎(1951~2012年)の舞踏を目前で見たことがある。
夜空にスポットライトを浴びた白塗りの体を弓のようにそらせ、屋根の上で踊る彼の姿はあまりにも衝撃的だった。懇親会でお話ししたとき、前歯が抜けた笑顔が印象的だった。
風倉匠の一回性の芸術、ぜひ生で見てみたかった。

アートの本質はマイノリティ
1958年というネオ・ダダが生まれた時代が、メディアの時代であることも、反芸術活動の発生と決して無関係ではない。
資本主義というマジョリティへのカウンターとしてネオ・ダダが街を闊歩し、赤瀬川原平磯崎新は別次元でのマジョリティの地位を確立するなか、風倉匠はひたすらマイノリティの道を歩む。

権力、搾取、歴史、習慣、大衆、そして反自由へのカウンターとしての一回性を貫いた風倉匠こそ、「アートとは自由」を体現したネオ・ダダの生き証人だったのではないだろうか。

アート史の中に埋もれて消えることことこそが、風倉匠のネオ・ダダイストとしての活動の主眼だったはずである。
ここに、アートの本質とジレンマがある。
権威と形式を破壊し、アート本来の自由を取り戻すことが、反芸術活動である。
そしてアートの本質には、マジョリティを疑うという基本姿勢がある。
アートとはいつの時代でも、反芸術活動である。
その活動が市民権を手にした瞬間、他の反芸術活動が出現する。
宗教にたとえれば、ユダヤ教のマイノリティだったイエス・キリスト新興宗教をおこした瞬間、カソリックからマイノリティだったプロテスタンティズムが生まれた瞬間、テロリストが自由の戦士になった瞬間のような物語を、本作『ネオ・ダダの逆説 ~反芸術と芸術~』が示しているように読むことができた。

三津田治夫

「SEによる、SEのためのパワー交換会」を開催しました。

2月14日(水)、「顔OFF OK」ということで、IT開発現場のエンジニアたちが11人集まり、IT書籍著者・IT教育コンテンツ開発者の谷藤賢一氏を中心に、参加者たちとの現場ぶっちゃけ本音トーク「SEによる、SEのためのパワー交換会」を、のべで3時間行った。

独立しIT企業を立ち上げた方、元金融系SEでIT書籍を執筆するベテランエンジニア、働き方改革のプロ、ホームレス支援をライフワークにするWebエンジニアまで、さまざまな経歴と深い想いを持つ方々から貴重な意見をいただいた。

「プログラミングは、やらされる「お仕事」でよいのか?」という基本的な疑問から、従業員への「要求」が多い現状や、AIが弱者を助ける理想は実現するのだろうか、そもそもIT開発の現場に欠けている本質はなんなのかなどの、多岐にわたる課題や意見が交換された。

「2000年あたりを境にIT開発の現場に異変が起こった」という声はいくつかあがっていた。
それまで現場は、仕様書のインスペクション(査読)に14時間をかけるなど、議論に議論を尽くして最適解を求めソフトウェアを開発する環境、ユーザーの声を繰り返し聴く姿勢、などの風潮があった。
しかしいまではこれら本質が現場から欠損し、時短や収益拡大など目前の課題に上書きされ、ITエンジニアが共有すべきゴール意識がブレてきているという。

また、リベラルアーツやリスキリングという言葉の流行が示すように、社会で生きるためには「総合能力」が求められている。
これはSEやプログラマーなど、ITエンジニアにとっても同じである。

総合能力を手にするために「なにを学んだらよいのか」という質問に、谷藤氏は「そもそもお勉強をして学ぶという発想がダメ。お勉強は答案で数字を出す目前の技術獲得にすぎない」と指摘。
では、なにが必要なのだろうか。
「徹底議論」と「ワクワク」だという。

どんなサービス仕様がユーザーにとって必要なのかを徹底議論し、どんなソフトウェアがその最適解であるのかをワクワクしながらコーディングするという基本姿勢を持つことが重要、という回答だった。

上記「仕様書のインスペクションに14時間」というベテランSEは、「この14時間は熱中し、時間を忘れていた」と回想する。
ITエンジニアのあるべき姿ではないだろうか。

総合能力が社会で求められる一方、「評価の物差しが少ない」という指摘もあった。
いまの世の中の流れだと、
「では、評価の物差しを増やしましょう」と、新しい資格試験や昇進試験のテスト問題が設定され、それに対する答案作成技術が求められ、相変わらず目前の「お勉強」にリソースが費やされるという無限ループが見えてくる。

ITエンジニアに求められる「徹底議論」と「ワクワク」は、どこから生まれるのだろうか?
「プログラミングは、やらされる「お仕事」でよいのか?」という疑問にもつながってくる。
また、「評価の物差しが少ない」のなら、答案作成技術といった評価の物差し以外の、他の物差しに測られるための価値や能力を、人はどのようにして手にし、どのような形でアウトプットし、可視化し、社会から評価されるのだろうか?

根本的な疑問を共有することができた。

三津田治夫

第45回・飯田橋読書会の記録:『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著)

2023年ラストの飯田橋読書会は、『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著、 筑摩書房刊)を取り上げた。
アラブが語られる際に、私たちの耳目に入る情報は西洋からのものがほとんどであるが、本作はアラブがいかに西洋から侵略されたのかという逆の視点から描かれた、レバノン出身のジャーナリストによるフランスで出版された歴史書である。

歴史という物語はつねに勝者によって記述される。
ナチスガス室によるユダヤ人大量虐殺は悪だが、アメリカの原爆による大量虐殺は平和をもたらした善であるという物語は、アメリカという勝者の手で記述されている。

本作は、フランク(西洋人)によって侵略された(敗者側の)アラブ(イスラム諸国)の視点で描かれた、十字軍遠征の歴史物語である。本作の概要は過去のエントリで書いたので、こちらをご参照いただきたい。


イスラムは西洋から学ぶものがなかった
今回は私を含め、KN、KM、HN、KS、SK、KA、HH、SM(敬称略)の計9名の参加となった。

会場から発せられた以下内容を紹介する。

「この時代に生きていなくてよかった。」
「苦しい、厳しい内容。」
と、流血が絶えないアラブのこの1000年を、本作で改めて見た印象が聞こえてきた。

宗教とマネーの歴史の源流を見た
「狂信と富の物語である。」
という発言や、
侵略者が地域を征服し敗者を差別する
「フランクによる“アジア・アラブ差別”の物語。」
という発言も印象的だった。戦争の文脈は連綿と繰り返される。

「日本人ってなんだろ? という疑問を与えてくれた。」
多くの人種や宗教が入り乱れ、しかもこれらが陸続きで共存しながら戦争を繰り返すという、日本列島というなかば要塞の中で生きてきた日本人にはまったく想像がつかない世界観が、本作の舞台となるアラブ諸国において繰り広げられていた。

「よくわかっていなかった十字軍遠征が、ようやくわかってきた。」
十字軍遠征とは世界史の授業で耳にしたがその内実はよくわからない、という人は大半だろう。上記の、日本人には想像もつかない世界観ゆえでもある。

「支配者はいったい何人殺すんだよ!!」
キリスト教の理論で略奪が正当化されている。」
「クリスチャン以外は殺してよいという理論はいかがなものか。」
皆殺しが正当化される理論構築を再確認する声もあがった。
人が人から命を奪うことは、悪である。
しかし戦争には必ず、「自衛のため」「食糧難克服のため」「世界平和のため」といったビジョンとミッション、すなわち理論化された大義が必要となる。
大義のもとで殺戮と侵略が繰り広げられた宗教の歴史が絵巻物のように描かれていた。

「欧米以外から出た情報を知ることは大切。」
と、事実を知るために敗者からの情報は貴重であり、
「こうした史実が残るので「歴史家」の存在は重要である。」
とあるように、史実とはさまざまな方面から得ることで初めて解像度の高いイメージをなす。

「宗教都市エルサレムは、いまでも現存しているのがすごい。」
戦争による大量破壊で跡形もなく消滅してきた宗教都市は、歴史に残っていないだけで数知れないはずである。その意味で歴史とは、「文字」であるのかもしれない。

「本作をまったく理解できない」という声があがっていたことに関連し、
「人名・地名など、イスラムの個有名詞を読み解くのが厳しかった。」
という声もあった。ロシア文学も登場人物の名前でわからなくなってしまう人は多いが、類似の混乱がこのイスラム史を読み解く際にも発生する。

「前半が混とんとしていてむしろ面白かった。」
前半にはヒーローやカリスマが登場せず、
イスラム間での連帯がないのが不思議。」
という意見からも、彼らの間に疑いと争いが絶えず、
シーア派スンニ派対立の源流が良くわかってきた。」
という歴史認識の背景に「連帯がない」ことは発見だった。

逆から見ると、西洋人はさまざまな人種や言語で構成されていたのにもかかわらず、キリスト教という一つの旗印のもとで連帯していたところが要点である。
そう考えると、聖書は文字の経典でコーランは音の経典であるという相違にも注目できるし、プロテスタントの出現は、一つの旗印を乱す存在としてバチカンに脅威を与えたことも再確認できた。

「温暖化して生産力が上ったアラブ諸国を侵略した十字軍は、言い方を変えたら“フロンティア”ではないか?」
北米大陸の原住民インディアン、インディオたちから見た西洋人は侵略者であり、西洋人は自らをフロンティアと呼んだことと等しい。

「そもそもイスラムはフランクから学ぶものはなかった。」
元々イスラムは文化レベルが高く、古代ギリシャの農耕や建築の技術、それらを支える哲学や数学、天文学などの科学は、実はイスラム経由で西洋人が欧州へと輸入した。現在、科学の中心は西洋であるが、大元はイスラムがその中心だった。

現代に息づく1000年のイスラムバチカン宗教史
会の発言でとくに印象的だった言葉を紹介する。

「本作は事件史のようだった。“現代”とのアナロジーがある。」

ラストには次のような記述があるように、本作(原著は1983年刊)を1981年のヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件と関連付けている。

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恒久的に攻撃されているムスリム世界では、一種の被害者意識が生まれるのを阻止することができず、これはある種の狂信者のなかでは危険な強迫観念の形をとる。
一九八一年三月、トルコ人メフメト・アリー・アージャはローマ教皇を射殺しようとしたのであったが、手紙のなかで次のように述べている。
〈私は十字軍の総大将ヨハネ・パウロ二世を殺すことに決めた〉。
この個人的行為を超えて明らかになるのは、中東のアラブは西洋のなかにいつも天敵を見ているということだ。
このような敵に対しては、あらゆる敵対行為が、政治的、軍事的、あるいは石油戦略的であろうと、正当な報復となる。
そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種の強姦のように受けとめている。
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メフメト・アリー・アージャについて付け加えておく。
彼は1958年生まれのイスラム教徒のトルコ人活動家で、1979年2月1日にはトルコの有力日刊紙ミリイェットの編集長アブディ・イペクチを暗殺し、逮捕されている。
その後マフィアの手を借りてブルガリアに逃亡。欠席裁判で死刑判決が下されるが、2年後の1981年5月13日、バチカンのサン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ二世に致命傷を負わせ、暗殺未遂で逮捕される。

男のその後の経緯も特殊である。
さらに2年後の1983年、クリスマスの2日後に教皇ヨハネ・パウロ2世は男が収監された刑務所を訪れ、2人は面会した。
教皇は寛大にも「私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」と語った。
2005年4月に教皇が死去。これを知った男は悲しみ、「2007年5月13日をもって、私はイスラム教の信仰を捨て、ローマ・カトリック教会の会員になることを決意した」と、キリスト教に改宗した。
2010年には約30年刑期を終え釈放。釈放後はヨハネ・パウロ二世の墓参に行くが、イタリアから国外退去を宣告され、2014年トルコに強制送還。ハリウッドからは映画オファーがあったというが、その後の消息は定かでない。

『アラブが見た十字軍』の舞台裏では、現代にも通底するイスラムバチカンの物語が流れていたのである。


『アラブが見た十字軍』をめぐる参加者たちのやり取り

本読書会は、メンバーに開催期日を事前にメール調整するのだが、その際に選書の感想や疑問のやり取りも行われる。

今回は密度の高いやり取りが行われたので、本人たちの許諾を得たうえで、以下にその内容を記録・参考として掲載する。

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みなさま
SKです。

ヘルプ!
『アラブが見た十字軍』、わたくしこれ劇的に苦手です。
理由はいろいろですが、内容的にどうのこうのというよりも、書き方がちょっと……。

現在340ページくらい、いまのペースだと当日までに読み終わる自信がありません。
そこで、おもしろかった、とか、こう読んだらいいとか、どなたか、なんとか最後までたどり着くためのヒントをお持ちの方、お教えください!
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KSです。読みにくいの同感です。
わたしもいま300ページを超えたあたりですが、当日までにぎりぎり読み終わるかなという感触でいます。

自分の場合、地理を確認するために毎回スマホでウェブ検索していたのが読むのに時間がかかっていた一因だったのですが、半分くらい読み進めた時点で巻末に地図があることに気づきました。

また、要所で引用されるアラブ歴史家が複数いることにしばらく気づいてなくて迷子になったので、いったん最初に戻って各アラブ歴史家の初出をピックアップしてたりしていたら、少し見通しがよくなった気がします。
参考までに、300ページくらいまでに出てきたアラブ歴史家メモです。

- イブン・アル=カラーニシ:p.25 ダマスカスの年代記作者。ダマスカスで暗殺教団がトゥグティギンの息子ブーリにやられたころは57歳(p.201)
- イブン・ジュバイル:p.23 スペイン出身のアラブの大旅行家。侵攻開始から1世紀後にパレスチナ訪問
- イブン・アル=アシール:p.54 アラブの歴史家。フランクの侵入の初めから1世紀以上も後
- モースルの史家:p.144
- カマールッデイーン:p.174 アレッポ出身の作家にして外交官。アレッポ動乱(1113年ごろ)から1世紀後
- ウサーマ・イブン・ムンキズ:p.232 ウナルの友人の年代記作者

あと、これは本書を読む助けになるかは微妙ですが、同時代のビザンツを描いた『アンナ・コムネナ』という漫画が、自分にとって「フランクとアラブの間にいたビザンツは何をしていたか」をうかがい知る補助線になってます(本書に出てくるフランクの諸侯や地名も当然ながら出てきます)。
https://sai-zen-sen.jp/comics/twi4/annakomnene/

もうひとつ、これは本書を読む助けにならない情報ですが、アラブがモンゴルの襲来を受けたときのイスラム世界から話が始まる『天幕のジャードゥーガル』という漫画があり、この漫画の世界に本書のアラブ世界がどうつながっていくのかが自分にとって本書を読むモチベーションになってます。
https://souffle.life/author/tenmaku-no-ja-dougal/
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次回は、さらに趣向を変え、久しぶりのアジア文学へと向かうことにする。
韓国人で初の英国マン・ブッカー賞を受賞した作家、ハン・ガンを取り上げる。彼女の作品から、『少年が来る』『すべての、白いものたちの』『菜食主義者』など、主要なものが俎上に上がる。文学を通してハングルの世界観をいかに共有できるか。次回も、お楽しみに。

三津田治夫

「クイーンと私」【その3】:『クイーン詩集』

クイーンの歌詞は、取りつく島のない、物寂しい、薄暗いものが多い。
その対極に「バイシクル・レース」のような純粋な言葉遊びがあったり、クイーンの作り出す詩の世界のコンテキストは奥深く広い。

私が『クイーン詩集』を買った当時(大学生)も、クイーンとは大変なインテリ集団だと感心しながら彼らの詩を読んでいた。
彼らはどこでどう、あのような教養やセンスを身につけたのかと、とても不思議に感じていた。

『クイーン詩集』には、ロックバンドの歌詞を「詩集」として翻訳発刊したところに画期的な意義がある。
この版には『A Kind Of Magic』までの有名曲の詞が掲載されているが、映画『ボヘミアン・ラプソディ』によるクイーン・ブームもあって、2019年2月には『クイーン詩集 完全版』が上梓された。
この映画を通して、版元のシンコーミュージック(など音楽専門版元)は大変な書き入れ時、大変なクイーン景気を迎えたともいえる。これはいいことだ。

映画を観ると、クイーンの歌詞の物寂しさや薄暗さ、その半面の言葉遊びやはじけた調子など、両極性の理由がどこにあるのかがよく伝わってくる。
逆に、映画で初めてクイーンに興味を持った方は、ぜひ『クイーン詩集』を読んでいただきたい。
そしてさらに興味が深まったら、英和辞書を片手に、彼らの編み上げた詩の原文に向き合っていただきたい。韻を踏んだりダブルミーニングだったり、よく作りこまれた「詩」の数々世界を、存分に味わうことができる。

三津田治夫

2/23(金)休日、イベント「ピアニストによる ブックトークと音楽」を開催します

FM番組「クラシック音楽への旅」のパーソナリティをつとめるピアニスト髙橋望が、本と音楽のコラボ・イベントを開催します。

ゲーテ、バッハ、三島由紀夫シューベルト川端康成ショパンE.T.A.ホフマンシューマン、チャールズ・バーニーなど……。
古今東西さまざまな作家・作品の魅力を、世界3大ピアノのひとつであるベーゼンドルファーを奏でながら紹介します。

「本」と「音楽」の新たな出会いを、髙橋望と一緒にお楽しみください。

参加ご登録と詳細は、以下サイトにあります。

【2/23(金)休日開催】「ピアニスト髙橋望による ブックトークと音楽」
https://tech-dialoge.doorkeeper.jp/events/167984

参加をお待ちしております。

三津田治夫

読みました:『ねむれ巴里』(金子光晴著)~濃い日本人が多数登場する1930年詩人のパリ滞在記~

少女の頭蓋骨から作った杯を見たとか、川の上の娼館から落ちた娼婦が鰐に食われたとか、どこまでが本当でどこからが詩想なのか、境界線がほとんど見えない金子光晴(1895~1975年)の作品は面白い。
本作は純粋な紀行文学、文明論、エッセイとして味読できる同詩人の傑作である。

第一次対戦後、1930~1931年にかけ、詩人が太平洋戦争前の大都市パリに滞在したときの物語。
無頼漢がいたり、気が狂う者がいたり、行き詰まって自殺する者がいたり。現地で出会った濃い日本人たちとの交わりが生き生きと描かれている。

額縁を彫ることや春画を売ることで金子光晴は生活のためにその場その場でお金を稼ぎ、「売春以外はなんでもやった」という。
あるときは妻の森三千代に帰国費用として日本から送金されてきた現金を着服し、彼女と豪遊するくだりがある。現金欲しさというよりも、妻との別れを惜しんでのことだと本人は弁明する。

このころの金子光晴は森美千代と仲良しで、長崎に置いてきた息子のことを気遣っていたり、パリからベルギーに森美千代を追いかけて行ったりもする。
のちに金子光晴が人気作家として地位が上がってくるにつれ森美千代との対称性が崩壊し、二人は離婚と結婚を繰り返すことになる。不思議な関係性を持ったカップルである。

西洋文化にほとんどかぶれることなく、この時代のパリを、世界都市の中の一つとして冷ややかな目で見る彼の視点が新鮮である。また、都市論としても面白く読むことができる。人やお金の入れかわりの激しさは、いまの東京のそれを見ているようで、詩人の記述には古さを感じさせられない。

彼の、作家・詩人・クリエイターとしての徹底した精神の自由には深く尊敬する。それでいて生きるためにはなんでもやるしたたかさと柔軟さがある人物で、なかなかいまの時代には見かけない骨太な人物である。

ちなみに最晩年の金子光晴は、芸風を大衆喜ばせ路線に振り切り、完全なエロ爺さんを演じることになる(参考:『金花黒薔薇艸紙』)。
金子光晴もおそらく、多くの作家たちと同様、彼の死の5年前に命を絶った三島由紀夫を見て、これまでの表現としての文学が消滅し、商業とエンタテイメントの道具になった文学を悟った結果が、彼の芸風チェンジの動機であるに違いない。

冷静で自分に正直、優しくて反戦で人間愛に満ちた詩人、金子光晴の魅力にアクセスできた貴重な作品だった。

最後に、詩人がパリを去りベルギーに土地を移したときの文を引用する。

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僕らの度を越えた貧窮は、神も、悪魔も同じように枯らしてしまう。僕は、アミーバとおなじように生きているだけだ。一つの星座でありうるアミーバは、僕よりも、明日をもっているだけですぐれている。アミーバとおなじに僕の手足がさがしているものは、たとえそれが恋愛であったにしても、分相応な獲物にすぎない。枯れた日々の施物として、神からもらえる筈の一宿一飯にすぎないのだ。
パリの街には、哲学をもった乞食の精神があって、その臭気があの都会の台所のすみばかりでなく、サロンの天井まで滲みこんでいた。
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三津田治夫

「クイーンと私」【その2】:『戦慄の女王』

デビューアルバム『戦慄の女王』において、すでにクイーンは完成されていた。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』ではこれ以前の、ブライアン・メイロジャー・テイラーが結成した「スマイル」の時代から描かれている。
スマイルがあのままのバンドだったら、よくあるメロディアス・ロックのような、あまりぱっとしないバンドであったはず。強烈な個性と才能を持ったフレディ・マーキュリーの加入とともに一気に色がついた。
人間の出会いとは大変な化学変化を起こすものだと、クイーンの出自を見ていても改めて考えさせられた。

さらに、クイーンがすごいのは、結成以来メンバーチェンジが一度もなかった点。
往々にしてバンドはビッグになると、音楽性の違いなどの理由でメンバーが脱退したり、俺の実力は安売りしないぜ的にソロになったりと、メンバーの入れ替えや決裂が必ず起こる。
各々のお役目を知った賢い音楽家集団という意味でも、クイーンからは学びが多い。

フレディが亡くなった後もクイーンは活動していたが、傍から見ていて、いつも残されたメンバーは「まるでフレディの亡霊と活動」しているように私は感じていた。

フレディの悪魔的な存在感や影響力はすでに『戦慄の女王』でできあがっていたといえる。
いささか音が古臭いが、クイーンの個性ある作品として愛聴している、おすすめの一枚だ。

三津田治夫