本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

「なんでこうなったのかわからない!」を言語化した不気味な傑作:『審判』(フランツ・カフカ 著)

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カフカの長編には『審判』のほかに『城』と『失踪者』があるが、その中でも最も暗く、恐ろしい作品だ。
カフカの作風に一貫したものは、「なんでこうなったのかわからない!」という理不尽さや因果関係のわからなさ、不気味さである。
ある意味、いまの「AI」への不安に近い。
AIは大量なデータから優れた結果をアウトプットするのだが、「なんでこうなったのかわからない!」という意味で、である。

『審判』に戻る。
ショッキングなラストシーンもそうだが、ある日突然男たちから銀行員のヨーゼフKが「有罪」を宣告され、その根拠探しと有罪からの脱出の試みは延々と続き、重々しい。
カフカ作品が「暗い」といわれるゆえんはここにある。

しかしカフカの他の作品と同じように、一定の距離をおいて読んでみると、これまたナンセンスだ。
そもそもどんな罪なのかはいっさい明かされないし、有罪であるという事実は男たちから告げられた宣告や周囲のうわさ話といった「言葉」の問題でしかない。
アパートの住民の女をつてに新展開をもくろんだり、弁護士の愛人に接近して罪の本質を探り出そうとしたり、いつもながら主人公は女を使って人生を新規開拓しようと右往左往する。
かしながらこの作品は『城』や『失踪者』のような、ある種の希望(自分探しや、新大陸での新しい生活)の要素が少ない。だから暗い。
もう一つは、ヨーゼフKの前に立ちはだかる不可解な「法」の世界は、カフカの父親そのものの象徴である。
理不尽極まりなく、息子の思考や行動を規制する父親の存在は、カフカにとっての「法」だ。

父子関係に悩まされ続け、カフカと同じ街プラハで活躍した大作曲家に、モーツアルトがいる。彼が父親の像をオペラ『ドン・ジョヴァンニ』に描き出していることはよく知られている。
『審判』でヨーゼフKは父親の象徴である「法」のもとで「犬のように」殺されるよう、ドン・ジョヴァンニは父親の象徴である騎士団長の亡霊に殺害される。

モーツアルトの父子関係はカフカほどは屈折しておらず、モーツアルトの父親は一言で言えば徹底した英才教育を息子に施した極度のスパルタ教育者。
カフカの父親は強烈な強制力を息子に行使したが、それは発展を促す教育者としての父親の強制力ではなく、禁止するための力、すなわち「法」としての強制力である(その辺の様相はカフカの『父への手紙』に詳しい)。

『審判』の作風の深刻さは、このような「法」が一貫して文体に流れているところにある。
もう一つ、この作品を読んでいて感じるのは、情景がよく目に浮かぶこと。事実いくつかの映画になっている。
ラストの聖堂や石切場のシーンは、映画のようにありありと情景が浮かんでくる(ちなみにオーソン・ウェルズ監督の『審判』(1963年)もおすすめ)。

『審判』こそ、ニーチェ風に言えば「万人に与える、万人向けでない本」かもしれない。
誰もが読んで楽しめる作品ではないが、間違いなくカフカの時空を越えた不思議な世界に入り込むことができる。
また、不可解かつ超現実的な独自の世界観を読み取ることができる。読む人を選ぶが、時代を画した名作であることには間違いはない。

三津田治夫