本とITを研究する

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2024年5月25日(土)開催:第47回・飯田橋読書会の記録『「空気」の研究』(山本七平著) ~空気という認知バイアス支配の構造を考える~

ひと昔前「空気読めよ」という言葉が流行った。
今回取り上げた『「空気」の研究』(1977年、山本七平著)は、まさにこの流行り言葉の先鞭をつけた作品である。
本読書会ではおもに、古典の文学や評論、思想を中心に、誰もが読むベストセラーではないが、一定の評価がなされた作品を取り上げる方針で10年以上動いている。
しかし本作はそれとは異なる。
山本七平(1921~1991年)という名を聞いただけで、『日本人とユダヤ人』を思い出し、少し怪しげな大衆向けベストセラー作家だという認知バイアスが我々にはある。
しかしながら山本七平、最近ではNHKの「100分de名著」で取り上げられたりと、名著の作家として名を連ねられるようになってきた。
時代は変わったものだとため息をついていたが、コロナ禍を通してやたらと「空気」という単語が飛び交うようになってきたことをきっかけに、どうも日本人は「空気」を改めて意識しはじめたようだと、改めて振り返り、分析した。
そんな世相を鑑み、本読書会メンバーにおいても「もはや山本七平は避けられないだろう」と、ついに方針保守を断念し、同氏の代表作『「空気」の研究』に取り組むことを決意した。

山本七平という作家と聖書のこと
山本七平がなぜ怪しげで、ある種のトンデモ本作家であると刷り込まれてきた最大の要因は、彼を一躍有名にした300万部超のベストセラー『日本人とユダヤ人』(1970年)にある。
このときの彼の登場が印象的だった。
山本七平は翻訳者として登場しており、原作者はイザヤ・ベンダサンを名乗るテルアビブ出身のユダヤ人であるというのだ。
イザヤ・ベンダサン山本七平ペンネームであるのだが、『日本人とユダヤ人』での山本七平の豊富な聖書の知識やヘブライ語文献からの引用を交えた話は、ユダヤ人は一神教であるとか(日本人は八百万の多神教)、ユダヤ人は偶像崇拝をしない(日本には仏像や仏画がたくさんある)、ユダヤ人は水を買う(日本にはミネラルウォーターなど水を買う習慣がなかった)など、当時の日本人が見たことも聞いたこともない世界観が一種神秘的でもあり、彼が述べるその言説は世間を驚愕させた。
そうした驚きとペンネームと実名の使い分けは、沼正三を名乗る作家天野哲夫が著した奇書『家畜人ヤプー』(1956年)を想起させたところも、怪しさを醸し出したゆえんである。

聖書研究家であり聖書研究書籍を発刊する版元(山本書店)の経営者でもあった山本七平は、『日本人とユダヤ人』を通して、平易な言葉で聖書の世界観を日本人に送り届けてくれた。そこが読者にとって斬新で、ベストセラーにつながったのである。

いまだ、日本人にとって聖書はわけのわからないものだ。
聖書には旧約聖書新約聖書があったり、物語や手紙が入っていたり、旧約聖書ユダヤ教のベースであったり、イスラム教の聖典であるコーランには旧約聖書がすでに組み込まれていたりなど(だからコーランは聖書よりも優れているのだという言い分の根拠)、聖書はさまざまな宗教の中核を形成する世界最大のベストセラー出版物である。

もとより、日本人にとって聖書がわけわからないというより、関心の対象でもないし、宗教全般をあまり気にしていない。これは日本人の特徴である。ゆえに、昨今のパレスチナ情勢や、アラブやユダヤの戦争三昧がいまいちピンとこない。逆にそういった日本人の無頓着さが、アラブ人たちの日本人に対する親近感というか、まったく問題なし感があるのだと感じている。

日本人は日本人論が大好きだとは昔からよく言われているが、まさに山本七平は聖書の世界から日本人を眺め、日本人とは誰なのかを言語化した、日本人論作家の元祖でもあるのだ。

そしていま、急速に広がるグローバリズムや、それを再認識させた新型コロナウイルスの出現、生成AIの普及による情報産業革命の加速など、再び日本人に「日本人論」が求められるようになってきた。そこにきて、山本七平の名前が世間に再浮上してきた形だ。

山本七平もいうように、日本人は空気が大好きで、空気(雰囲気ともいおう)に流されたり空気に動かされたりと、とかく空気である。
だからこそ、「空気読めない」(「KY」という言葉もあった)人間は、日本社会の中で生きていく能力が劣った人間だと評価されるのである。

空気という認知バイアスを発見した作品の本文
以下、『「空気」の研究』の本文から、山本七平の筆致を引用してみたい。

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臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入を前提とする。
感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態にならねばならない。
従ってその前提となるのは、感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化であり、一言でいえば、それをしないと、「生きている」という実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねばならないのである。
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臨在感とは彼が定義する「空気」のことで、「感情移入を絶対化し」の状態が、人が空気に支配された催眠状態のことを指す。
人骨に対する日本人の感情も「空気」の仕業であると、ユダヤ人の感情との対比において作者は述べている。

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骨は元来は物質である。この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・髑髏という物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。
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パリの地下納骨堂(カタコンベ)を訪れると山積みされたおびただしい数の人骨に遭遇するが、あれは日本人のメンタリティとしてありえない。「空気の基本型」とは、メンタリティであるともいえる。
人骨に対するメンタリティに関し、彼独自の論理展開で次のように結論付ける。

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ギリシャ人は肉体を牢獄と見、そこに「霊」がとじこめられており、死は、この霊の牢獄からの解放であり、解放された霊は天界の霊界の中にのぼって行ってしまうと考えた。
そして残った「牢獄」は物質にすぎない。
その牢獄のまわりを霊がうろうろしていることはない。
ヘブライ人の見方はこれと違い、こういう見方に非常に懐疑的な一面があったことは、旧約聖書のコーヘレスの書の「人の霊が天に昇るなどというが、そんなことはだれに証明できよう」といった意味の言葉にも表われている。
とはいえ、ヨセフスの『ユダヤ戦記』は、最も伝統的と自己規定したエッセネ派の考え方が、ギリシャ人と極めてよく似た考え方であったことを記している。
従って両者の差は、別の研究課題であるが、しかし、少なくとも両者には共に、人骨に何かが臨在すると見る伝統はない。
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ギリシャ人やヘブライ人、ユダヤ人、そしてお家芸である旧約聖書コーヘレス(コヘレト)の書の説を紐解き、「ほら、日本人は空気に支配されているじゃないか」と、作家は読者に披歴するのである。

会場から出てきた、いつもより多めの発言

会場からはどのような意見が出てきたのだろうか。
今回は主幹のKN、KM、HN、SM、SK、KA、HH、KH(敬称略)に私を含めた9人の参加。
以下、会場から出てきた、いろいろな意味を持った、いつもより多めの発言である。
概して、ネガティブ意見が多かった。

「理解しづらい」
「ついていけませんでした」
「イライラする本」

という率直な意見から、

「日本人論は退屈、ツマラナイ」
「全体として完全に意味不明」
「自分に酔ってるんじゃね?」

といった感情的な意見。
また、

比較文化論としては弱い」
「過去ブームになったような本はマジメに読んじゃダメよ!」

といった比較的冷静な意見も出てきた。
反して、以下はポジティブな意見。

「面白かったが、難しい本」

と、言いたいことは単純なのだが難解さをぬぐい切れない読後感や、

「すばらしいエッセイでした」
「臨在感的把握がわったのはよい」
「“ロジック≠空気”を発見した山本七平は偉い」

と、作品そのものを率直に評価する声も聞こえてきた。
本作全体への意見としては、

同調圧力への嫌悪感を強く感じた」
「空気は怖い」
「日本軍への憎しみがにじみ出ている」

のように、山本七平日本陸軍従軍時代の恨みつらみが本作の根底に流れているという見解が聞こえてきた。
本作の導入部に公害問題が取り上げられている点への印象深さを伝える言葉もあった。

カドミウム公害問題など、なつかしい話題多い」
「かつては煙突からの煙が文化の象徴だったのだが」

1977年といえばまさに公害問題全盛期。
少年少女時代に「光化学スモッグ」で目がちかちかしたり外出禁止になった記憶がある中高年は少なくない。

作品に対するネガティブ・ポジティブ論から一段上がって、

「日本にはヒトラースターリンもいない」

というように、民族の基盤として空気が日本を支配しているからこそ、こうした危険な暴君が生まれることはなかったのだ、という説も聞こえてきた。
空気というわけのわからないものが日本を支配しているからこそ、

「日本の集団的無責任」
「議論が重視されない日本文化はよいのか?」

という指摘もあった。
確かに日本人においては、老若男女問わず本質的に議論を好まない。
議論とは物事や思考の相違を言語化し、すり合わせまたは分別をするための作業である。
そして発した言語には、必ず責任が伴う。
集団的無責任は言語よりも空気が日本人にとって優位だから起こるのだろうか。
集団的無責任だから言語よりも空気が日本人にとって優位になるのだろうか。
卵が先かニワトリが先か、である。

信仰もまた一種の空気による支配ゆえに、

日本教の信者が日本人である」
「コロナ禍における“マスク教”を想起させた」

という意見には腹落ちがした。

「空気からどう逃れるのと、もがいている本」
「先行のなさ、“天皇制嫌だね”からぬけ出せていない」

とは、上記の、作家の日本陸軍従軍経験からの恨みつらみが本作の根底にある。
日本陸軍従軍経験からの恨みつらみを作品に昇華した例としては、水木しげるが顕著で、彼の妖怪を題材にした諸作品や長編『コミック昭和史』に現れている。

水戸黄門の印籠も一つの空気では?」

という意見もなるほどであった。
掌中におさめられた小さな物体が、周囲の人間たちをひれ伏させるなどの強烈な「空気」を発しているのだ。
派生して、

「ところで、印籠の実物を博物館で見た人はいるのか?」

といった、水戸黄門印籠ねつ造説や、

水戸黄門の歴代スポンサーが松下電器産業であったことにも意味があったはず」

と、放映を通じて全国に空気をばらまこうとしたパナソニック陰謀論めいた話までが出るにいたった。
最後に、芸能関係の見解として、

「ジャニーズの性犯罪事件はまさに“空気”に包まれ隠されていた」

という発言が印象的だった。
確かに、あれだけ大規模な事件が、当事者が死ぬまで組織的に闇に葬られていたという異常事態は、しかも海外のメディアの力でその事態が露見したということは、まさに日本を支配する「空気」の仕業である。

「わたし」と「空気」について語る
本読書会の締めくくりは、主語を「わたし」とし、取り上げた作品を「自分のことば」で語ることをルールとしている。

山本七平高崎高校に講演に来た」とは、同名門校のOB二人が在籍する本読書会ならではの「わたし」発言であった。
それにしても山本七平を高校に召還した教員の判断眼はどこから来たのだろうかと、素朴に興味を持った。

「家で読書ばかりしているので、空気を読み忘れちゃったよ!」

というのもまた独特な発言であった。
読書会そのものを生業とするKH氏からしか出ない発言であり、確かに、家で読書ばかりしていてネットや社会に触れなければ、空気に汚染されることはない。
そう考えると、ネットとは空気なのだ。

最後に、本読書会の論客であるSK氏からは

「空気は日本特有じゃないだろ」
「欧米にも「空気」あるの?」

という意見に対し、

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・「空気」は、少なくともアメリカにはある。
アメリカ英語に「read the room」(部屋読め)、「negative peer pressure」(ネガティブ同調圧力)という熟語がある。
・恐らくどんな国にも空気はある。
・だいたい、空気がなければトランプとかプーチンとかいない。
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という意見を書面でいただいた。
そして同氏からは「わたしが考える日本の空気」として、

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・その場の状況が、自分で作るものではなく与えられるものと思っている。
・日本人は自分から「空気」を探しに行く。
・「空気読め」とか名前をつけて表面化させる自分たちの“自虐ネタ”を開発する。
・追いかける目標がある状態が居心地がいい。だから“謙遜”の名の下に自分たちを落としがち。
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と、日本を支配する空気と日本人の特性を、独自の視点でまとめてくださった。

日本の外で私が見た「空気」
空気は日本人独特かというと、私も、そんなことはまったくないという意見だ。
西洋に行けばキリスト教の空気は大いにある。
日本人が持つ空気感覚よりもそれは強力だ。
人種や歴史に対する空気やタブー意識も強い。
日本でも昭和時代に「菊タブー」というものがあったが、そのレベルではないことを体験する機会が海外で多々あった。

たとえば、昨年ドイツに行ったときのエピソード。
友人を訪問した際の出来事だった。
街案内をしてもらっていると、駅舎にナチス強制収容所に連れていかれた人たちを弔う石碑が置かれていた。
友人はそれを指さし、「祖母がここに収容されていたんだ」と、ぽつりとつぶやいた。
一瞬耳を疑ったが、間違いなくそう言ったはずなので、5分ほど間をおいて恐る恐る、「プライベートのことで申し訳ないけど」と、聞きただした。
それからぽつりぽつりと友人は出自を語りだした。
そこから、自伝を書いて亡くなった伯父様の話もした。
彼とは以前一度だけ東京で会ったことがある。都内の職業訓練校でエンジニアとして講師をされていた方だ。
その自伝というのが、自分の「半ユダヤ人」としての人生を告白したものだった。
さっそく購入したのだが、強制収容所でナンバリングされ強制労働させられたことや、例の囚人服を着た当時の識別写真の数々など、生々しい自伝だった。
友人いわく、伯父様は晩年急にユダヤ人であることを告白し出したという。
シナゴーグユダヤ教の教会)に行ったりタルムード(教典)を読むなどユダヤ教の本式の信者ではないため、半ユダヤ人を名乗っていたらしい。
その後友人ご先祖の墓参りに行ったり、夕食をともにしながらシュテファン・ツヴァイクフロイトなどユダヤ人学者の話をするなど、深い時間を共有した。
おばあちゃんが収容されておじいちゃんはなぜ収容されなかったのかとの疑問を投げかけたら、「ヒトラーにとってそんなのどうでもよかったんじゃない?」との返答。

友人は相手が外国人である日本人だからいろいろと腹を割って話してくれたのだろうが、こここまでプライベートが語られたことには驚きを隠せなかった。

翌日、友人の街から離れ、寄宿先に戻った。
そこの友人のご両親と食事をしながら、昨日はどうだったかというので、街では友人とユダヤナチスの話をしていたことを説明した。
すると、一瞬にして部屋の中が凍り付いた。
友人のお父様は時計に目を向け「あ、寝る時間だね」と、話を切り上げ寝室に入ってしまった。
これがドイツの、象徴的な「空気」である。
そして外国人である私は、完全に「空気読めてなかった」のである。

宗教や人種という空気を強く感じるドイツ
ドイツでの空気体験はほかにもある。
友人たちは旧東ドイツの人たちで、昔はよく統一のことやベルリンの壁の話をしていて、「自由はいいよな」とか笑いながら言い合っていた。
その感覚で旧東ドイツの話題を振ると、「お前はその話好きだねえ」「それ終ってるよ」と、あたかも黒歴史に触れられたかのようなあきれた反応を受けた。
日本人からすると、外国人がやってきて「日本の軍歌は格好いいね!」と言われているような感覚なのだろう。

ドイツでの空気ネタを出すと枚挙にいとまがないが、最後に、宗教の話題が印象的だった。
代々ケーキ職人を営む寄宿先の友人一家の7代目が30歳の甥っ子で、近々結婚式を挙げるというのだ。彼と車の中で雑談しているとき、「それはおめでたい、挙式はどこの教会?」と問うと、教会は脱退したから、南ドイツのホールを借りて挙式をするというのだ。脱退した理由を問うと、一言、「宗教は戦争の元凶だから脱退した」という。

宗教とは民族を支配する空気の象徴であるが、日本人で「神社は社会的に〇〇だから氏子を脱退した」「お寺は政治的に〇〇だから檀家を脱退した」という話はあまり聞かない。それだけ、ドイツの宗教的空気は濃厚なのである。

生活を支配するこうした空気や、上空を飛行するジェット機や街中を歩くウクライナ人が持つ戦争の空気に、向こうの友人たちは強く反応していた。
このような体験から感じることは、むしろ日本人は、人種や宗教、歴史から相当解放された人種である、ということだ。日本を太平洋戦争に突進させた「空気」の反省から、こうした解放がきているのだろうか。

いま山本七平が生きていて、一緒にドイツに同行したら、どういった反応を示していたのだろうかとも考えた。旧約聖書ユダヤ文化に詳しい彼のことだから、きっと向こうでも、濃厚な空気を感じたに違いない。

最後に、論客SK氏からいただいた、コロナ禍と「空気」を考えるための引用が大変興味深かったので、以下に再掲載させていただく。

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かつて政治的無関心という古典的なことばを通じて問われてきたのは、投票や選挙運動といった積極的な政治行動における無関心だった。これに対しコロナ禍では、政府が提示する行動指針に従うか従わないか、あるいは政府が自分たちに「何をしてくれたか」を評価するという、受動的な側面での「政府への信頼」が問われた。換言すれば、人々の日常的行動に政府が干渉することをどこまで受容できるかが問題になった。
特徴的だったのは、コロナ禍で日本の人々は政府による強制や罰則を伴った規制より自粛を支持したことだ。大多数がおとなしくマスクをつけワクチン接種の予約をしただけではない。自粛要請に従っていないとみなした飲食店への嫌がらせなどの「自粛警察」的行為、マスク非着用者に罵声を浴びせるなどの「マスク警察」も現れた。日本の人々は政府を信頼し政府に従うという形での行動変容より、むしろ世間の空気を読んだ自粛を好み、さらにそれを身近な他者に強いる社会規範を選択したのだ。

『政治不信を超えて(中)昭和の遺産払拭できるか』(重田園江 日経新聞2024年5月24日)
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次回は、またまた視点を変えて、といっても広義の「日本人論」ではあるが、茨城県水戸出身のKH氏の発案から、『覚書・幕末の水戸藩』(山川菊栄著)を取り上げることに決定した。
徳川御三家水戸藩に仕えた武家の娘として、弘道館初代館長の曾孫にしてマルクス主義者、超インテリ思想家、フェミニスト、政治家、文筆家として、東洋のローザ・ルクセンブルクといっても過言ではない女傑、山川菊栄(1890~1980年)の作品を取り上げる。
次回も、お楽しみに。

三津田治夫