今回のテーマは2冊ということで、ミヒャエル・エンデの『モモ』と大島弓子の『綿の国星』の組み合わせだった。前回、「次回のテーマ」を考える際、参加者から『モモ』の声があがり、「ならば『綿の国星』も」と、どんな関連が見出されたのかわからないが、これら2冊が選出された。
前者は、人間から時間を盗む悪魔「時間泥棒」をやっつける少女モモの物語で、後者は、猫の視点から人間世界を見た詩的な少女漫画。
2時間ほど議論をし、「そもそも子どもたちに世界観を与えるスケールの児童文学は日本にあるか」という議論になった。
日本にも西洋にも古くから子供向けの「物語」(童話、神話も含む)はあり、それが時代を経て児童文学となり、これらが多くの子供たちに読まれ、受け入れられたか否か、である。
現代西洋にはローリングがいたり、エンデもそうだし、古くはヘルマン・ヘッセもそうだった。日本には宮沢賢治もいた。
そんな議論を繰り返していると、どうも日本の子どもたちは、児童文学から世界観を吸収するのではなく、「漫画」からそれを吸収する、という結論に達した。
たとえば『ドラえもん』。これも「時間」というテーマに、愛や成長、友情、信頼、思いやりという、人間本来が持つ姿が、家庭や学校という子供たちに理解しやすい舞台で描かれている。
妖怪や霊が住む世界と人間界が地続きであるという仏教的世界観は水木しげるが漫画『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』などで子供たちに提供しているし、楳図かずおは『まことちゃん』で世界の中心は子供で大人の世界はその外にある怪しげな存在、という世界観の顛倒を子供たちに提供している。
私は子供のときあまり児童文学は読まず、もっぱら藤子不二雄や楳図かずお、つのだじろうの漫画(『恐怖新聞』が好きだった。
これもまた「時間」がテーマである)ばかりを読んでいた。
親からは『宝島』や『一五少年漂流記』『ファーブル昆虫記』を買い与えられていたが、まったく興味を示さなかった。
ちなみに小学五年生のときに買い与えられ放置されたままの『ファーブル昆虫記』を42歳になって初めて読んだときには、その内容に感動した。親が買い与えてくれた理由が30年以上を経てようやく理解にいたった。
いまでは海外でも日本の漫画が大量に翻訳されており、洋の東西にかかわらず子供たちは日本の漫画を読んでいる。
となると漫画とはなにか? という議論が読書会で続き、それはお寺の僧侶が仏の物語を一般人にわかりやすく説く「絵説き」では、という意見も出て、なるほどこういうところが日本人のメンタリティやクリエイティビティと結びつき文学と比肩する文化として漫画が発展したのでは、という、結論めいたあやふやな議論で今回の読書会は終了となった。
次回のテーマは「仕事に役立ちそうだけれどもビジネス書ではない本」ということで、高田宏の『言葉の海へ』が選ばれた(いつか小林勇の『惜櫟荘主人』も取り上げたいところ。ちなみに私が提案した二葉亭四迷の『浮雲』は即刻却下されました)。
編集者の視点で『言葉の海』を読むとどんな議論になるのか。次回も楽しみです。