本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

セミナー・レポート:危機から見えた、新しい日本を考える ~高嶋哲夫氏によるオンライン・セミナーを開催~

f:id:tech-dialoge:20200727113016j:plain◎オンライン・セミナーの模様

7月21日(火)、作家の高嶋哲夫氏をお招きし、「アフター・コロナを考える「新しい日本の形、新しい日本の創造」」と題し、本とITを研究する会主催のオンライン・セミナーを64人で開催した。
高嶋哲夫氏は、『首都感染』(講談社刊)が「コロナを予言した書物」とされ、2010年の作品が今年の2~6月の4か月間で累計14万4000部を重版するという、出版史に異例の記録を残した小説家であることは言うまでもない。

オンライン・セミナーは「新型コロナウイルスがもたらしたもの」と「次なる試練」、そして「新しい日本の形」という3部構成で進められた。

f:id:tech-dialoge:20200727113101j:plain◎オンラインで登壇いただいた高嶋哲夫

コロナが現実性を加速させた日本の未来の姿
新型コロナウイルスがもたらしたもの」とは、一言でいえば隠されていた課題の露呈である。
政府の危機管理の甘さやIT化の遅れ、地方行政の弱さなどが指摘された。
もう一つは、あいまいな数字やキーワードが世の中に飛び交い、国民がそれに踊らされ混乱が生み出されたこと。
テレビやネットの錯綜した報道に、心身とも困憊する人たちは多い。

「次なる試練」は、東京を中心とした死者2万3000人の「首都直下型地震」と、東海から南海、四国にわたる死者32万人の「南海トラフ地震」の可能性である。
いずれも、30年以内の発生確率が70%と言われる、確度の高い大震災である。

f:id:tech-dialoge:20200727113142j:plain◎災害の模様が写真と動画で紹介された

新型コロナウイルスによる災害と併せて訪れる「次なる試練」に我々はどう備え、国家はどのような姿であるべきか。
それが、今回のオンラインセミナーのテーマである。
そして「新しい日本の形」としての提言が、ダメージを受けた地方を他の地方が支える、「道州制」という国家の新しいスタイル作りである。アメリカやドイツ、スイスなどで取り入れられている連邦制国家として、自然災害にも感染症など複数の同時災害にも耐えうる国家に日本が進化するための提言である。

利権を乗り越え、見えない敵から日本を守る
道州制を導入する利点の根拠の一つとして、次のことが述べられた。
日本の経済主体の大半が属する太平洋側が首都直下型地震南海トラフ地震により壊滅的になることで、日本の経済は停止する。道州制を導入することで地方が経済的な力を持てば、日本海側の力で太平洋側を支えることが可能である。

道州制に関する議論は、過去に何度も行われてはたち消えてきた。
第一に地方での受け入れが非常に困難で、その大きな理由は、利権である。
道州制では、都道府県で管轄されていたものが、北海道、東北州、関東州、中部州、近畿州、中国州、四国州、九州沖縄という割り方で再編成される。たとえば、沖縄県に入金されていた政府からの軍用地使用料の振込先は沖縄県ではなく九州沖縄に移行する。そこで「これは誰のお金?」となる。これが、最も単純化した利権の構造だ。

利権を書き換えるために、歴史的に行われてきたことがある。
それは、革命である。
内戦や粛清により利権の対立集団を「力」で排除する方法だ。
しかし、新型コロナウイルスという目に見えない敵に万人が直面したいま、こうした革命はまず考えづらい。
戦う敵は、私たちの外部に、情報として存在する。
同時に、私たちの内部に、体内に存在する。

新しい社会には新しいイメージを
新しい酒には新しい革袋を、ということわざがある。
新型コロナウイルスという新しい災害に遭遇したいま、私たちは新しい社会を迎え入れる必要がある。
新しい社会を阻むものには「人々の持つイメージもある」という発言は非常に印象深かった。
「東京都という首都に対する魅力的なイメージ」が、新しい社会の形づくりを阻むと、高嶋氏はいう。

いったい、このイメージとはどういうものだろうかと、私は考えた。
共同体は形成されたイメージで成り立っているという、政治学ベネディクト・アンダーソンの言葉を思い出した。
東京都でたとえれば、明治維新以降形成されたイメージにより、その魅力が固定されているといえる。

では、どうしたらこのイメージを新しく書き換えることができるのだろうか。
この場で語られた一つは、地域単位ではなく大学などの機関単位でのつながりによる、人やお金、モノの交流である。
機関単位で人のつながりをつかさどるとは、コミュニティの発想ともいえる。
さらに言えば、その機関は建物などの物体である必要はない。
ネット上のバーチャルな機関でもよい。
内閣府が提唱する、仮想(デジタル)空間と現実空間を高度に融合させたシステム「Society 5.0」が、これに近い。
エストニアではすでに税務処理の自動化なども含め、電子政府が作られつつある。
新しい日本の形としての道州制国家にいたる中間ステップとして、このSociety 5.0が機能するのかもしれない。
しかし、幕藩制時代から日本人の心に深く根差すイメージは、そう簡単には変わらないという意見もある。

政治哲学者のユルゲン・ハーバーマスの言葉を思い出す。次のように語っている。

「イメージはそのつど空間と時間において個別化されている個々の主観に属するのに対して、思想はそもそもコミュニケーションされうるためには、意味内容を変えることなく個人の意識の境界を越えるものでなければならない。」

イメージは各個人の主観でしかなく、考え(思想)が他者と共有(コミュニケーション)されるためには、その主観を超えるものでなくてはならない。つまり、漠然としたイメージが共有されるには、具体的な考えへと昇華され、言語化される必要があるのだ。
国家や人種、宗教、言語を超えた新しい社会の形を模索するハーバーマスの象徴的な言葉である。

イメージの共有を促す対話の力
道州制電子政府の導入という発想は重要だが、それを具現化するためにも、イメージの言語化と共有はさらに重要である。
生活とはなんなのか、災害とはなんなのか、首都とはなんなのか、地方とはなんなのか、日本とはなんなのか、世界とはなんなのか……。
私たち個々の内面が持つイメージを言語化し、共有することが、いまこそ重要である。
その出発点が、対話と議論である。
人と人との接触が阻まれるいまであっても、意識して、対話と議論を深めていく場は持ち続けていきたい。
今回のオンライン・セミナーを通し、改めて感じた。

質疑応答と交流を含め2時間ほど、高嶋哲夫氏は私たち一人一人の将来にかかわる、大きな課題を投げかけてくれた。
同時に、これからの時代を読み解くための知恵も共有することができた。
いま、全人類は試され、災害大国である日本は試練に直面している。
小説家という、身体から言葉を紡ぎ出す仕事をする方からの言葉を参加者全員で共有できたのは、貴重な体験だった。この日は各人にとって、一つの歴史となるだろう。

      * * *

日本人は「会社教・日本教の信者だ」「保守的だ」といわれ続けてきた。
しかし、退職金制度や終身雇用、年功序列はなくなり、GDP右肩上がり神話や、日本が世界に名をとどろかす時代ではなくなり、会社教・日本教の信者数は激減した。
そして保守的である日本人でも、1990年代後半に「まず日本では普及しない」と言われたネット決済を一気に受け入れた。その他スマートフォンSNSなどのネット社会も、日本人は一気に受け入れた。
日本人は狂信的ではないし、極度に保守的でもない。ある意味、生き延びるためにはこだわり持たない「したたかな人種」である。いまこそ、そのしたたかさを発揮する時期ではないか。

高嶋哲夫氏による今回のオンライン・セミナーが、新しい社会づくりに向けた、一人一人のイメージを書き換え、共有する言葉を持つきっかけになることを願っている。

三津田治夫

本を読むにもノウハウがある ~あなたの読書を「最適化」しよう~

f:id:tech-dialoge:20200717134014j:plain

人は本を読む必要があるのだろうか?
教養や趣味、娯楽など、読書にはいろいろなゴールがある。
今回は、編集者として、また、一人の本好きとして、「情報収集のため」と「知識のため」をゴールに、「本の読み方」のお話をお届けしたい。

そもそも「情報収集」と「知識」のために読書が必要かというと、やはり「必要」と断言する。
読書には、Webではまず得られない「経験」がそこにあるからだ。
これらを頭に入れるだけでも、読書のノウハウの一つを手にしたことになるはずである。

1)本は編集されている
本は基本、編集制作者の手で編集されている。
査読や校正が何度も行われ、ページの並びなどが考慮されており、正確性と読みやすさが担保されている。

2)コンテクストで内容の記憶定着力を高められる
ページの並びがコンテクスト(文脈)を形成している。
これにより、手にした情報と知識が自分の中で「物語」となり、より深く記憶に定着する。

3)アクセス性の高さ
自分の読みたい場所に飛んだり、戻ったりが容易にできる。
また、ページ順に従わずに読むことで、「自分の文脈」で読み進めることもできる。

4)一覧性の高さ
上記と関連するが、数冊の本を並べるなどで、複数の情報を素早く一覧することができる。

上記4点を見ただけでも、少なからず、読書ならではの価値の高い体験が得られることがわかっていただけるはずだ。
「読書」とは、本という、古くからの完成されたメディアから、情報と知識を引き出してくる行為であるとも換言できる。

日常的に、読書についてさまざまな質問や相談を受けることが多い。
そこには、本を読みたいという欲求があるからに他ならない。
ときにはその内容が私自身への問いかけにもなることもあり、有意義な時間をいただくとこも多い。
そこで、具体的な読書のノウハウをFAQ形式でお伝えしたい。
読書が苦手という方には、ぜひ参考にしていただきたい。

一冊の本は何度も読んだ方がよいのか?
答えは、「イエス」である。
1度の精読でもよいが、2度、3度読むことで、情報や知識として最も自分の身になる。

毎回、最初から最後まで読む必要はない。
自分の心に引っかかった文章や文字にラインを引き、そこを何度も読むだけでもよい。
さらに言えば、これらをタイプインし、アウトプットし、毎日持ち歩いて反復読みしてもよい。
そうすることで、本の中の、自分の心に響いた情報や知識のエッセンスを、より自分のものにすることができる。

本に自分の言葉を書き込むのも効果的だ。
気づいたこと、要点、反論、ときには誤字訂正など、「本との対話」として、自分の言葉を書き込む。
すると、その本に対する理解は一気に高まる。

しかし、本を汚したくない、という人もいるだろう。
一方、蛍光マーカーで汚しながら読むという人もいる。
読み方はさまざまだが、マーケットプレイスで売ることはあまり考えずに、躊躇なく、本は買って汚すことをお勧めする。
汚した分だけ、本の情報や知識は、自分のものになる。

ページ全体を折ったり、ページの角に折り目を入れながら読む人も多いだろう。
折り目を付けるだけで、他のページへのアクセス性も高まるから不思議なものだ。
私の場合は、「付箋」を使用している。
付箋なら、新しい発見などがあった際、すぐに貼り替えができるうえに、色分けすることで、気になるページを区分できる。
最近は、ライン引きせずに済むような、ページ内部に貼る付箋もある。
いろいろな付箋を活用することで、読書体験をより高めることができる。

本はどこで読むのがよいのか?
まずは、読書する時間の確保できる場所こそが、本を読む場所だ。
「本を読む時間も、時間を確保できる場所もなかなかない」という人も多いだろう。
となると、よく使われる場所は、通勤電車内だろう。
私は長年長距離通勤(片道80分)だったので、その間、いろいろな本を読むことができた。
ただ、乗車時間が短かったり、往復がラッシュアワーでそれどころでない、という、状況に恵まれない人も多い。
そのような方には、「貪欲に読む場所と時間を探す」ことをお勧めする。

ランチタイムは食事をしながら会議室や公園で読書する、待ち時間や移動の空き時間には喫茶店や駅のベンチで読書する、など、断片的な時間ではあるがさまざまな捻出方法が考えられえる。
「細切れでの読書は文脈が分断されるので、なかなか頭に入ってこないのではないか」という不安の声もあるだろう。
しかし、10分あれば、断片的な読書は案外成立するのだ。
そうした読書の細切れを連結させる意味でも、付箋貼りやライン引きは、とても有効である。
再読する際に付箋やラインをたどることで、文脈が一気に再構築される。

また、新書や文庫といった、携行性の高い本はお勧めする。
読む場所を選ばないのが最大のメリットだ。
価格も比較的安いので手軽に手に入り、家での置き場にも困らない。

複数の本を並行して読んでもよいか?
結論から言うと「よい」である。
しかし、これには慣れが必要だ。
いわゆる「読書家」がこの方法で本を読む。
複数並行読みは情報収集に威力を発揮する読み方だが、不慣れだと、なんだかわけがわからなくなってくる。
なので最初は、「関連性が高い本」を複数冊選択して読むことをお勧めする。
自己啓発、経営、IT、化学、ビジネス読み物など、それぞれの本に自分で納得する関連性さえできれば、複数の本を並行して読むことは徐々に苦でなくなってくる。
慣れてくると、哲学や思想、芸術など、「古典」と複数並行して読むこともできる。
これができるようになると、本から得られる世界観や時間空間の感覚が劇的に広くなる。
と同時に、「情報収集と知識」の幅も一気に広くなる。
手にした情報収集と知識の扱い方次第で、間違いなく人生が豊かになるのである。

乱読はよいか?
複数の本を並行して読むことと似ているが、一冊ずつ乱読を繰り返す人もいる。
これも読書家がとる読書方法である。
関連性のまったくなさそうな本を手あたり次第に読む。
言い換えると、読みたいと思った本を、欲求に従って読む「冒険的読書」である。

しかし情報収集と知識の向上に関しては、あまり効率的とは言えない。
本と本の関連性が少ないので、文脈として読んだ内容を自分のものにすることが困難だからだ。
だが、読書の一スタイルとしてありなので、ときには目的を捨て、欲求に身を任せて本を読むのもよいだろう。
これにより、自分なりの新しい読書スタイルとの出会いもあるはずだ。

偏読はよいか?
偏った読書は、本を読むという行為の入り口として否定はしない。
しかし、長く続けることはお勧めしない。
とはいえ私も、学生時代は偏読家だった。
何年か、ロシア文学しか読まなかった時期があった。
しかし卒業を迎える時期ぐらいからか、とたんに偏読がおさまった。
新しい世界との出会い、書物の「横展開」ができるようになったからだ。
そこから、本を読む喜びもさらに深まった。
そんな個人的読書体験があったこともあり、「未来の横展開を視野に入れた偏読はよい」、と考える。

        * * *

上記の通り、本を読む「読書」という行為には「これ」というスタイルがない。
細分化すれば、まだまだ読む方法があるはずだ。
さまざまなスタイルを知りながら読むことで、自分なりのスタイルができあがってくる。
いわば、柔道や空手の「型」を身につけると、あるときから自分なりの「型破り」が出てくる。
そうなったら読書は一層面白い。
本は楽しむものである。いろいろな本に触れ、本を読むという行為自体を楽しみ、自分なりのスタイルを見つけていただけたら、この上なくうれしい。

三津田治夫

7月7日(火)、ピアニストの高橋望氏による第1回ブック・トーク大会、開催しました

f:id:tech-dialoge:20200708113645j:plain

f:id:tech-dialoge:20200708113630j:plain

7月7日(火)「withコロナ時代に捧ぐ読書の快楽 第1回 ブック・トーク大会」、無事終了しました。
60分足らずで以下11冊を高橋望さんに猛スピードで紹介いただきました。

モーツァルトの手紙』(高橋英郎訳、小学館
方丈記』(鴨長明著、高橋源一郎現代語訳、河出書房)
『オペラと歌舞伎』(永田由幸著、水曜社)
『宇宙を聴く』(茂木一衛著、春秋社)
『忘却の整理学』(外山滋比古著、筑摩書房
『歌舞伎ナビ』(渡辺保著、マガジンハウス)
ロッシーニと料理』(水谷彰良著、透土社)
リヒテル』(ブルーノ・モンサンジュン著、筑摩書房
『雑の思想』(辻信一、高橋源一郎共著、大月書店)
長谷川利行の絵~芸術家と時代』(大塚信一著、作品社)
『珈琲屋』(大坊勝次、森光宗男共著、新潮社)

その後の質疑応答や意見交換では音楽や哲学、形而上学、数学の話など、多岐にわたり、90分ではまず終わらない勢いでした。非常に興味深く、楽しい時間でした。
高橋望さんのピアノルームからの中継で、ときどきベーゼンドルファーを弾きながら本を語っていただく高橋望さんのブック・トークのスタイルは斬新でした。
しかしながら、本の話をしていると、エンドレス。
実に面白い。
一冊の本を通して、その人の人生や世界観、価値観が浮き彫りになります。
見方を換えると、本を語るって、結構怖い(勇気がいる)し、ときには恥ずかしい。
この、恐怖や恥じらいを乗り越えたところに、本当の人間同士の、本心からの「共有」「共感」があると、今回改めて感じました。
8月1日にも開催しますので、ぜひ、高橋望さんのトークと、博覧強記の世界に浸っていただき、「共有」「共感」の場を過ごしたいと思います。
興味のある方、ぜひご参集ください!

三津田治夫

7月21日(火)『首都感染』の作家、高嶋哲夫氏をお招きし、オンライン・セミナーを緊急開催

f:id:tech-dialoge:20200626174540j:plain

ウィズ・コロナ、ポスト・コロナ、アフター・コロナ、ニューノーマル、などなど……。新型コロナウイルスを巡って、さまざまなキーワードが生まれました。
一方で、私たちはそんな言葉に翻弄されているようにも見えます。

本オンラインセミナーでは、『首都感染』新型コロナウイルスを予言し、『首都崩壊』では日本の道州制国家を示唆したといわれる、作家の高嶋哲夫氏をお招きし、言葉のプロの観点から、アフター・コロナの日本の姿、世界の姿を語っていただきます。

コロナ禍をきっかけに、世の中は急激に密集社会から分散社会へと変貌しています。
都心への集中通勤なしに遠隔で働ける、企業のリモートワークの導入は、その第一歩です。
オンライン回線や遠隔会議ソフトの普及という、ITの進化がもたらした新しい働き方が、リモートワークです。
リモートワークは、分散社会を形成する起爆剤ではないでしょうか。

こうして、人と社会、お金の流れが、コロナ禍をきっかけに大きく変容しています。
高嶋哲夫氏の本オンラインセミナーを通して、先行き不透明ないま、いかに生き、いかに次の時代を働き、次の時代のビジネスを提供し、次の時代をつくるのかを、深く語っていただきます。

同氏は、コロナ禍での組織の運営方法、危機管理の方法の啓蒙活動も行い、執筆だけではなく、実活動でも、次世代へのさまざまな働きかけを行っています。

高嶋哲夫氏の言葉で印象に残るのは、「『首都感染』は予言の書物と言われるが決してそんなことはなく、物事を科学的に調べ、捉え、書き上げた結果の小説だ」、でした。
あらゆる情報を集め、客観的に捉え、事象を時間軸に配置することで、起こりうる未来を予測できる、ということです。
作家であり、科学者でもある高嶋哲夫氏の、象徴的な言葉です。

未来を執筆する作家の高嶋哲夫氏と、次の日本、次の世界へと向かう希望を、共有しましょう。
希望の共有が、私たちのよりよい明日を作っていくと願っています。
共有の人数は、1人でも多い方が良いです。
国民全員が共有すれば、それは世界におよぼす大きな力になります。

多くの方のご参加を、心から、お待ちしております。

【7/21 高嶋哲夫 オンライン特別セミナー】アフター・コロナを考える「新しい日本の形、新しい日本の創造」 (登録サイト)
https://tech-dialoge.doorkeeper.jp/events/108069


●関連記事
『紅い砂』(高嶋哲夫 著)を読んで ~社会変革と「壁」そして自由の本質(前編)~

『紅い砂』(高嶋哲夫 著)を読んで ~社会変革と「壁」そして自由の本質(後編)~

『首都感染』~情報に対する心のあり方へのヒント~

テレワークが加速させる、地方分権社会の形づくり

コロナと「変わる」ということ

三津田治夫

第20回飯田橋読書会の記録:『サド侯爵夫人』(三島由紀夫著、新潮文庫)

f:id:tech-dialoge:20200619182744j:plain

今年で早くも5年目に突入。20回目となった読書会のお題に、読書会初の戯曲、三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を取り上げた。

基本、この読書会のメンバーはあくが強く満場一致の意見はまずないが、今回は見事に意見が分かれた。
「共感できない、面白みがわからない」「古くさい」「装飾過多」「作家が文章に酔っている」というネガティブから、「女性にサドを語らせるという形式に感心。三島の中の女性性が見られた」や「いない人を論じるというスタイルが面白い」「数時間で読めるサド便覧だった」などのポジティブまで、読後の見解が真っ二つに分かれた。

私は後者のポジティブ派で、今回で読んだのは4度目だ。確かに1度目に読んだときはどのように読むべきかさっぱりわからなかったが、何度か読むうちに真意が伝わってきた。天才の作品たるや何重にも複雑に思考が織り込まれているので、しばしば一読しても理解不能が起こる。

またポジティブ派の一人は、学生時代あまりにも感動したので2階で音読していたら、1階にいた母親に「息子は気が狂ったか」と思われたというエピソードを語ってくれた(仮に私の息子が音読とはいえ女言葉でモントルイユ夫人などを情感込めて演じていたらとても恐ろしい)。

異常性愛文学の元祖
サド侯爵とは言うまでもなくサディスト、サディズムの語源となった人物で、フランス革命の時代を生き抜いた、いじめや虐待を美学として確立した芸術家かつ本物の異常性愛者である。ただの変態でないところは、非常に頭脳が明晰で数々の著作を残した天才作家であること。先日、フランス政府がサド直筆の『ソドムの120日』の原稿を国宝に認定したという報道があったのには驚いた(『ソドムの120日』がどんな小説なのかは、興味がある方はぜひ読んでいただきたい)。

政府認定の変態作家という特殊性からして、三島由紀夫のお眼鏡にかなわないわけはない。奇しくも1965年、澁澤龍彦は伝記『サド侯爵の生涯』を上梓。三島由紀夫はこの本にインスパイアされ『サド侯爵夫人』を書き上げた。

会場では参加者から、三島由紀夫の常識に対する否定とアウトサイダーへの憧れが作家のサドへの共感につながっているという意見や、作中ではフランス革命を通した女性の解放を描きたかったのではないかと、読後の第一印象から話は本質的な内容へと入り込んでいった。

f:id:tech-dialoge:20200619182847j:plain◎持ち寄られた副読本たち

副読本としてサドの『悪徳の栄え』や『悲惨物語』が読まれ、それぞれからの印象も語られた。
悪徳の栄え』は私ともう一人の参加者が読んできたのだが、双方で一致した意見として、「読んでいて目が回ってきた」である。この作品は「サド裁判」として出版史に残るいわば当時のわいせつ文書である。しかしいま読むと、わいせつ性はネットや現実の方が実に高い。わいせつさというよりも、この本は極めて反社会的である。徹底的に良心を否定する極悪文学なのだ。そうした下劣な内容が澁澤龍彦の美文名訳で日本全国の書店に配本されたのだから、これは当時の出版界を震撼させた一大事件である。
『悲惨物語』は娘との近親相姦を描いた中編小説。これも主人公は極悪非道の限りを尽くすが、サドの作品にしては珍しく勧善懲悪的なエンディングだ。

こんな暗黒文学談義をしている中、読書会の会場には3歳ぐらいのかわいらしいちびっ子が二人、間違えて乱入してきた。その瞬間から、会場の暗黒中には一気に光が差した。

話は『サド侯爵夫人』に戻り、いじめられても夫を慕うルネ夫人は典型的な極道の妻ではないかという意見や、この作品はいまの定年離婚を扱った戯曲なのではないかという斬新な意見も出てきた。

そのほか、同時代の変態文学として三島由紀夫の大絶賛により世の中に送り出された覆面作家沼正三の作品『家畜人ヤプー』の名前がすぐさまあがった。本当に沼正三天野哲夫と同一人物だったのか、などの議論も出てきた。 

サドの文学は残酷で変態なのか、現代文学の方がよほど残酷なのでは、という議論にもなった。現代文学で描写される残酷性や事件性は、そのまま模倣できてしまうようなものが多い。一方でサドの場合はあまりにもスケールが大きく(たとえば国家の支配者やお金持ちはすべて変態であり、彼らの権力欲で社会が書き換えられていくような描写など)、模倣不可能で、その意味で作品以外の何物でもない。サドの作品は、言うなればダダ、キッチュである。私が読んでいる限りでも、確かにサドは変態だが、天才的な文筆力を生かして、フランス革命時代に対する個人的な恨み辛みを晴らしたかったに違いあるまい、とも感じる。彼の作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、バスティーユ監獄や各地の精神病院に、女性に媚薬を飲ませたなどの罪で延べ20年以上収監されている。あの時代本人にしてみたら、「周りにはもっとひどい奴らたくさんいるじゃないか。なんで俺ばかり」と、恨み節を吐いていたのだろう。

日本に文壇、論壇がない理由

話は三島に戻る。『サド侯爵夫人』において、彼の中の女性性が見事に表出されているという意見があった。しかしそれでも彼の女性観は、女を女としてみていない。つまり彼の天才性で、女性という存在を文学という形式や図式として捉えているのである。だからこそ、形式と図式に則って書かれる戯曲に彼にとっての名作が多く、また、『宴のあと』や『金閣寺』などの具体的な題材を持つ彼のモデル小説にも名作が多い。

このようにサドと三島を考えながら、会場内では「では、文学とはなんなのだ」という議論に話が進展した。
いまとなっては、論壇や文壇が存在しない。
「論壇や文壇なんて、権威じゃないか」「そんなもの上から目線だ」「なくたっていい」「権威があったって売れなければ意味がない」という意見もあろう。とはいえそれでいいのか、である。

言葉を通して問題提起し、事象を共有し、共通で考えるたたき台を与えてくれる場がこの日本から失われて、大丈夫なのだろうか。文学がそうした役割を失ってしまって、日本人の持つ言葉は本当に大丈夫なのだろうかという議論に発展した。またそうした日本の出版界を憂慮して、三島はああいった死に方をしたのでは、という話も出てきた。一方で「そう思わせてしまうところも三島らしい自己演出かもしれない」という鋭い指摘まで飛び出てきた。

論壇や文壇のないいまの日本社会において、なにがモラルや価値を定義しているのかという議論になった。本を例にとれば、数多く売れる本には価値があり、モラルがあるのか、という話である。そもそも日本には哲学がないよね、という意見も、英国には哲学のラジオ番組があり、フランスには哲学の授業がある。日本にはお寺という立派な哲学の場が存在していたがいまでは社会の隅に追いやられ、檀家の減ったお坊さんたちは夜になると「坊主バー」なるものを経営して衆生に功徳を施す。夜な夜なバーに訪れる男女らが僧侶相手にアルコールの力を借りて口にするのは、生命のこと、存在のこと、すなわち、哲学のことであるという。確かにヨーロッパは狭い国土に多言語多宗教がひしめき合い、それぞれを信仰のある人の言葉をない人の言葉に言い換える翻訳作業が必要になる。その作業の担い手が、哲学者である。日本に哲学が不要なのではなく、あってもよいがそれほど切迫した問題ではない、である。が、島国とはいえ、高度な情報社会では島だろうが山だろうが関係はない。哲学のない状態は、そう長くは続かないだろう。

ヨーロッパに異常性愛を扱う文豪が多い理由
ヨーロッパ文学にはサドをはじめとし、ジョルジュ・バタイユやローベルト・ムージルアルトゥール・シュニッツラーなど、異常性愛を扱った大文豪が多数いる。しかし日本にはいないよね、という議論にもなった。谷崎潤一郎永井荷風は耽美であるが異常とまではいえない。そこに出てきた意見として、「日本には禁忌がないからだ」という言葉は、本日の読書会を包摂するような鋭さを持っていた。つまり三島由紀夫は、西洋のキリスト教的禁忌をベースにした思想を持ちながら他方で天皇制や『文化防衛論』を書くという複雑な思考もって作品を作り上げた人物で、だからこそいびつで、分裂した違和感も隠しきれないのだ。

作家の分裂という意味で会場からは、『鏡子の家』の名前があがった。これは官僚とボクサー、俳優、絵描きという4人の主人公たちの群像劇で、この4人はそれぞれ三島の人格を表した分身である。この作品こそが三島の分裂性を見事に表現したものだというのだ。

虚弱体質の青年が急にボディビルをはじめたり、自衛隊体験入隊してジェット機に乗ったり、ちぐはぐで矛盾に満ちた生き方は、あまりにも才能があるからつねにその逆を行こうとするのであり、また、演じているうちに「本物になってしまう」のも三島の特長である。

三島由紀夫の晩年は、若者を率いて思想結社とも右翼団体ともいえない団体「盾の会」を結成し、その若者の介錯のもとで市ヶ谷の自衛隊駐屯地で45年の短い生涯に幕を閉じだ。

特異な才能の天才に好奇心は駆られるが、共感は?
最後に、こうした複雑でそう簡単には捉えられない日本の作家と、本国では国宝級の変態文学者というお墨付きを得たフランスの作家とを同時に扱い、諸々戸惑うところもあったが、本読書会のルールとして、結論は評論とうんちく禁止。各人に自分の言葉で語ってもらった。

三島由紀夫の作品は面白いが共感はできない」「三島は生理的に合わないし好きじゃない」や、「サドは自分の暗黒面を映し出している感じがする」「政財界の権力者がいずれも変態として描かれているところをウッシッシとほくそ笑みながら読んでしまった」「サドの描くことは、確かにちょっぴり好奇心としてはある」などの言葉が飛び交った。

とはいえ私は「まだ評論しているんじゃないかな」「皆さんかっこつけているな」と思い、何度か突っ込んでみたが、やはり上をいく言葉は出なかった。そこも話し合ってみたところ結論として出たのは、三島もサドもいい悪い好き嫌い以前に、いろいろなものを超越した天才であり、ある次元からは共感の領域を大きく逸脱してしまう。サドのことに関しても、ちょっぴりの好奇心まではあるが、あそこまで徹底した残酷は理解できない。三島にしてもそうで、晩年の行動を見ても徹底しており、私たちがあずかり知る場にはいないのである。

そう考えてみると、サドより三島の方が人間的にいいのかな、という意見もあった。また職場にはサドっ気が強い人、結構いますよね、という話も出た。とくにこうした人ほど加虐に対しておとなしく、我慢強い。そして自分よりも力が弱い者が目の前に出てきた瞬間から態度が豹変し、その人は受けてきた加虐をそのまま自分よりも力の弱い者に対して与える。これが虐待の連鎖である。「これって日本企業の典型だ」という言葉も聞こえてきた。ちなみに同じモデルの虐待の連鎖は、かつての南アフリカや各国の紛争地域で、絶えず起こっている。

話が広く深く、多岐にわたり、いささか目の回るような読書会であったが、実りの多い内容であった。

三津田治夫

テレワークが加速させる、地方分権社会の形づくり

f:id:tech-dialoge:20200605200540j:plain

新型コロナウイルスの影響でテレワークを導入した企業が急激に増えた。

これにより、対面でも電話でもない、独特のコミュニケーション形態を味わってしまった人たちが急増した。

私もたびたびオンライン会議やWebセミナーを実施したが、なんともいえない距離感(目前に顔が見えるのに人の気配がない)は、言語化困難ないままでにないコミュニケーション形態、ともいえる。

人は分散し、意識はつながる
ニュース番組で、ある作家さんが、「これからは多くの人たちと離れてつながっている感覚を持った個人が増える」ということを言っていた。地方で一人で仕事をする人たちも、独居老人も、専業主婦も、ネットを通じて気持ちがつながり、意識の共同体ができ上っている、という状態なのだろう。

テレワークはこうして、私たちの内面を大きく書き換えている。
この内面の変化から第一に現れてきたものは「会社に行かなくてもいい!」という従業員の安心感だった。
その一方で、「目前にいない部下をどう評価するのか?」という管理職の不安感である。

目前にいない部下への人事評価は、「成果主義」に尽きる。
「会社勤めなのになぜ成果が問われるのだ」と、成果主義評価に慣れない人たちの働き方への意識は、根底から覆される。働き方改革の本質である。

企業にテレワークが導入されることで、スマートフォン一つで従業員の自宅は営業所になる。
地方都市や過疎地帯、海岸や山の中、リゾート地、などなど、全国津々浦々に営業所が点在する。

本社に集中していた労働が、テレワークにより「地方で本社勤務」というスタイルが当たり前になる。

これはなにを意味するのだろうか。
つまり、地方分権型社会、である。

密集が好ましくない状況が生み出した分散社会
企業のリソースが首都から全国に分散する。
これにより、今度は地方に貨幣が分散される。
貨幣が分散されれば、権力が分散される。
企業に導入されたテレークは、地方分権型社会へとつながっていく。
そしてひいては、日本の道州制という国家形態を作り上げる土台になる。
海外の連邦制国家とは異なった、日本式の幕藩体制ブレンドした、独自の道州制国家ができるのではないかと想像している。

いまの時代、一つの大きなものが万人を牛耳ることは向いていない。
そして、人が密集することも好ましくない。
好ましいのは、分散である。

高度なIT化でなんでも小型化し、ネットワーク化したいま、地方分散型社会の実現は、決して夢物語ではない。

コロナがもたらしたテレワークの普及から鮮明に見えてきた、一つの明日である。

三津田治夫

新時代の受容と戦いを「差別」から扱った不朽の名作:『破戒』(島崎藤村 著)

f:id:tech-dialoge:20200529173439j:plain

私が高校生時代に亡くなった明治43年生まれの祖母から、実家山形の農家にいたときの次のような昔話をよく聞かされた。

村には「えた」という人がいて、茶碗を持って玄関の土間にやってくる。玄関から茶碗に食事を分け与え、決して土間から上に入ってこない。
彼らは牛馬の死体処理や死んだ人間の埋葬を手がけており、祖母の口調からは一種の恐れのようなものをいつも感じていた。
子供の私は、「死んだ人間を扱うなんて、怖くないの?」と祖母に聞くと、「えたはいつも、“死んだ人間よりも生きている人間の方がよっぽど怖い”といっていたよ」と答えていたのが印象深い。

祖母が語っていた「えた」が、日本の制封建社会が残した「穢多」と同じ言葉であると知ったのは、成人近くになってからのことだった。

祖母が語っていた人たちが差別をされていた人たちだったとは、祖母の言葉からはまったく想像がついていなかった。ただ子供心に祖母の言葉から感じ取っていたのは、「えた」とは別世界の人、怖い人、というイメージばかりだった。

明治文学として「穢多」の存在を中心に扱った作品が、この、『破戒』である。

差別と闘争、新生活の人間ドラマ
作品にはなにかしらの存在価値が必要になるが、この作品はまさに芸術。信州を舞台にした美しい情景描写や、主人公の教員瀬川丑松による心の煩悶、心理描写は、実に見事である。

明治時代、穢多といわれていた人たちはに「新平民」として近代社会の中に組み込まれた。しかし市民の意識下からそう簡単に差別が消え去るわけがない。
瀬川丑松を取り巻く意識から、「丑松は新平民ではないか」という周囲の疑惑がしだいに首を持ち上げてくる。
丑松は父親から、自分の出生を口に出すことはその後の人生を放棄するのと同じだという戒めを受けながら育ってきた。
そんな中、思想家の猪子と出会う。
彼は著作の冒頭で「我は穢多なり」と自分の出生を堂々と宣言し、活動し、社会的に認められている。
その後猪子は政敵に暗殺されてしまう。

猪子の生き方に感銘を受けた丑松は、自分の出生を告白して職場を去ろう決意。恋人のお志保と生徒の前で自分の出生を告白する。
彼らはその告白に耳を傾けず、丑松の人間性を認める。
恋人は彼について、猪子の未亡人と共に東京へと向かう。
同じ新平民の大日向とともに、丑松はテキサスで農業を営むことを夢見る。
そうした新生活と希望のなか、物語は幕を閉じる。

どんなエンディングかとはらはら読んでいたら、丑松は恋人と共に新生活を求めて故郷を去るという、一種のハッピーエンドだった。

明治維新以降の、新しい日本人の生き方を示唆した希望の書
しかし「新生活を求めて故郷を去る」とは、どんな未来が待ち受けているかわからないという意味で、ハッピーエンドとは言い切れない。
新生活を求めて故郷を去るというエンディングを見て、没落貴族が自らの土地から出て新生活を迎えようとするチェーホフの『桜の園』(1903年の作品)を連想した。
桜の園』は悲劇とされているが、『破戒』はどちらかと言えば未来を暗示した喜劇と感じた。
つまり島崎は、封建社会の根っこにある差別は前時代的なものであり、丑松の新生活を新時代の象徴であると描いている。

「明治になってせっかく日本は西欧の様式を受け入れたのだから、今度は意識も着替えて、自由になろう」と、藤村が読者に訴えかけているように聞こえる。
逆に言えば、藤村のような大作家がいなければ、日本の歴史から穢多という存在は単語でしか残らなかったはず。
この言葉を取り巻く意識や背景は歴史の一事象にしかすぎず、歴史家のみが持ちうる情報だったはず。
ここに一つの芸術の力を感じ取った。

目に見えず共有の困難な意識というものを、目に見え共有可能な言葉に置き換え、それを物語に組み立て、表現し、一般の読者に届けるという、芸術の誇り高い力を。

果たしていまの時代から、どういった意識が、100年後の文芸として残っていくのだろうか。
そんな疑問も『破戒』は与えてくれた。1905年の作品。

※注:穢多という言葉は差別用語です。そもそも、特定の人間に対して「けがれが多い」という意味の呼称を与えること自体おかしなことです。『破戒』のあとがきでさえ、被差別民という言葉に置換し使われています。しかしここでは、私と祖母のエピソードや、『破戒』の持つ芸術性の高さと言葉の意味との関連性を考え、被差別民など他の言葉に置換することは不可能と考え、あえて穢多という表現を使っています。

三津田治夫