本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』の動画取材を受けました

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「本TUBE」の取材を受けました

先日、「本TUBE」の取材をいただきました。
紹介書籍は、監修させていただいた『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』です。
懐かしのITガジェット紹介なども交え、楽しく、本書の魅力とITをめぐるお話をさせていただきました。
元アナウンサーの中村優子さんの引き出し力がとても素晴らしかったです。
ありがとうございます。
アップされた動画も長丁場を13分にまとめていただき、素晴らしかったです。

第35回・飯田橋読書会の記録:『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎 著)~「縮退」の停止した多様な世界はどこに?~

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毎回連続したテーマを取り扱わないことをモットーとした飯田橋読書会。
前回の『孔子伝』(白川静著)から変わって、今回は『現代経済学の直観的方法』(長沼伸一郎 著)を取り上げる。
世界的に経済が混乱をきたすいまだからこそ、経済学に取り組むことには意義がある。

毎回連続したテーマを取り扱わないといいながらも、非連続で経済に関するテーマを取り上げてきたことは付け加えておく。読書会第1回目の『トランスクリティーク』(柄谷行人 著)をはじめ『ヴェニスの商人資本論』(岩井克人 著)と、今回は3冊目である。

さらに今回は、記念すべきキリ番の第35回目(2021年10月30日(土)開催)だ。
第1回目の読書会が開催されたのは2014年1月25日(土)で、実に8年目。
年が明ければ9年目。
ここまで継続できたのは、まさに僥倖である。

進歩とは資本主義の必然か? 人類の必然か?
今回も新型コロナウイルス対策としてZOOMにて開催した。

チェックインでは、ワクチンの副反応がひどい編集者のMさんとAさん、最近移転して勉強&求職中のAさん、巣ごもり需要のギター売買を繰り返すNさん、ジム通いで美と健康を追求するM女史など、相変わらず元気な顔触れであった。

『現代経済学の直観的方法』は非常に面白いベストセラーということで、Nさんからの紹介による作品として今回は取り上げるにいたった。

内容に関し、まずは「物理数学者が解釈した経済学」という位置づけで、非常にユニークな切り口だった。
銀行券を発行したイングランドを紹介しながら、貴金属から紙幣が開発された経緯を経て、貯蓄で減少した通貨量を自在にコントロールできる利便性、帳面上の数値を担保に貨幣を追加流通させられることなど、信用創造のメカニズムの解説は腹におちた。
統計の本を20冊読破したM女史の「とても面白かった」「良くまとまっていた」という声など、参加者からは総じてポジティブな意見だった。

全体として、高校教科書の経済学に書かれた内容がうまくまとめられているという印象。独特のたとえが面白い。
一方で、前半でふんだんに使われている図解が、かえってわかりづらくしている印象もあった。
イスラムを絡めた歴史と貿易の話は興味深く読むことができた。また、為替と利子のことには謎が多く、これらの話は入っていたらよかったとも個人的には感じた。

本作を読んだ印象を受けて、いまの日本を取り巻く経済へと議論が移った。

長期のデフレが続きながらも日本政府は通貨量を増やさず、

「もしかしたら日本は壮大な実験をしているのではないか?」
「日本は脱資本主義をしようとしているのかもしれない」

という興味深い意見も聞かれた。
今回のコロナ禍を通して見えてきたこととして、「日本は底辺を救う政策が好きだ」という意見もあった。
とはいえ、企業の内部留保がこの状況下で増加傾向にあることや、資本は相変わらず特定の層に集中しトリクルダウンなど一向に起こらなかったではないかという、市民的な恨み節も聞こえてきた。

「そもそも、人間はなぜ進歩が必要か?」という疑問に「資本主義は進歩が必須です」という返答があり、人間には進歩が必要だから資本主義がある、資本主義があるから進歩が求められる、といった、卵が先か鶏が先か論も提示された。

一つの考えとして、資本主義という自由の仕組みが、人間の創造欲求と生存欲求を正当化しているともいえる。
しかしながらそう考えると、人間の創造欲求と生存欲求を解放しながら、一党独裁という制約の仕組みが資本主義的な経済の成果を上げている中国の存在は奇妙だ。本来自由に発想し、共創・協創し、価値を生み出す資本主義の本質が覆させられたような格好である。

ベルリンの壁が崩壊する5カ月前の1989年6月4日、北京で天安門事件が起き、政府の武力で多くの死傷者が出た。
それでいて各国が経済・外交に断固と制裁を加えなかったのは、ひとえに、中国の巨大な経済力であったといわれている。
「カネさえあればなにをやってもよい」のモデルを一つ作ってしまったのである。
果たしてこのモデルがこれからも続くのか。いまはその判断の過渡期にある。

「縮退」の停止した多様な世界とは?
作者の長沼伸一郎氏は「縮退」というキーワードで読者に問題提起する。
世界はグーグルやAppleAmazonなど一部の巨大企業が支配する「縮退」の方向に向かっていることを指摘する。
湖の中で強力な外来種は在来種を追いやり、外来種の個体そのものは増加する。しかし、種の多様性は滅びる。
このような生物学にも例えているように、経済では資本は拡大するが、多様性の低下で資本を生み出すインフラである文明がダメになる。
これが、縮退だ。
作者は経済学者J.M.ケインズの言葉を引き、文明を「薄い頼りにならない外皮のようなもの」とし、これが世界の多様性を支えていると言う。

駅前の小さな書店やおもちゃ屋もほとんどなくなった。
町からは商店街がほとんど消えてしまった。
これも、目に見える縮退の一つだ。
グーグルやAppleなどのデジタル巨大企業は「総ドリ」ができる。
物体の存在しない無限なデジタル空間では、根こそぎ市場をとっていくことが可能である。

こんな縮退を防ぐものに、作者は「大きな物語」の共有が必要であると主張。
すなわち、かつてのマルクス主義ケインズ主義、毛沢東主義といった「〇〇主義」や、最近ではSDGs(持続可能な開発目標)やMMT(現代貨幣理論)も、「大きな物語」に加えてよかろう。

こうした「大きな物語」が、縮退をとどめることができるのだろうか。
いまの私にはわからないが、少なくとも人間が人間の首を絞めて自滅するという、いままでとってきた行動様式からの人類の大転換はすでに迫られていることだけは断言できる。

トマ・ピケティが『21世紀の資本』で、従来型の資本主義である限り富の格差は広がり続けるという現実を、人類数千年のデータを紐解き訴えてきた。

縮退が停止したフラットな富の世界とは、どういったものなのだろう。
ITが高度化したいま、人と人との間の障壁や過去の仕組みを取り払うDX(デジタルトランスフォーメーション)が、その一つの解を与えているだろう。

最後に、会の談話の中でデヴィッド・グレーバーやジョン・ロールズという現代経済学者の名前も出てきたことは付け加えておく。

     * * *

さて次回課題図書に関し、メンバーで議論が繰り広げられた。
ロシア文学から『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ著)はどうか。
いやこれは大作すぎるので台湾文学や魯迅などはどうかという意見。
トルコのノーベル文学賞作家のオルラン・パムクはどうか。
安部公房の『砂の女』やポール・オースターカポーティなど。
作名や名前が飛び交った。
そんな中、「超古典」というキーワードが出てきた。
そこで早速、紀元前のギリシャ悲劇に話が遷移した。
次回は、ソフォクレスの戯曲を全作取り上げることに決まった。
いまはちくま文庫で手軽に読むことができる。
時間がなく全作読破できない人は、最低限『オイディプス王』は読んでおきましょう。

それでは次回、ギリシャ四大悲劇作家の横綱ソフォクレスの戯曲に挑戦いたします。

では次回も、お楽しみに。

19世紀の哲学者がまとめたビジネス書の原典:『法の哲学』(I/II)(ヘーゲル著)

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大学時代、授業の課題図書として本書を出され、著者の意図するところがさっぱりわからずに挫折した。
20代、サラリーマンになりたてのときにも再挑戦。
それでも本書の意図がほとんどわからなかった。
50代になり、やっと、ようやく、ドイツの哲学者ヘーゲルが言わんとしているところのしっぽの先端を少しだけ掴んだ。

端的に言えば、書店で平積みされているビジネス書の「元ネタ」である。
社会や組織の仕組みを言語化フレームワーク化する。
いわば「言葉攻め」である。
だから書名にも「法」とある。
本書は決して法律のみを扱った専門書ではないのだが。
ドイツ語で「法」(Recht)は「権利」や「正しいこと」を意味する。
国家や軍隊、企業といった、世の中のあるべき仕組みを文字に起こした「法」である。

ビジネス書の総元締めのP.F.ドラッカーはドイツ語圏のオーストリア移民なので、学者の基礎教養としてヘーゲルはかなり読んでいたはず。
その他ドラッカーの著作を読むと、ドイツ思想界の大御所であるゲーテやシュタイナーの流れを組んだ考え方が随所に見られる。

カントがいなければヘーゲルのような人はいなかったわけだし、ヘーゲルがいなければマルクスもいない。そしてデリダのような人物もまず出てこなかった。

中公クラシックスの読みやすい組み方と充実した注釈(これは素晴らしい)で、読者をヘーゲルの世界にやさしくいざなってくれる貴重な作品だった。

『法の哲学』(I)
『法の哲学』(II)

草加せんべいをめぐる小さな文化の物語

f:id:tech-dialoge:20211023151340j:plain草加宿を北に抜けた場所に設置された松尾芭蕉

地元の名菓に草加せんべいがある。
草加は17世紀に栄えた日光街道二番目の宿場町だ。
俳人松尾芭蕉が訪れたことでも知られており、当時は戸数120軒ほどからなる小さな宿場町だった。
宿場では余った米やまんじゅうを焼いてせんべいとしてお客に出していたという。江戸時代の保存食として、日光街道を歩く旅人のエネルギー源となったのが草加せんべいの発祥だ。

草加せんべいの名称はせんべいの代名詞として一般に流布している。
大型で厚く、硬く、醤油がたっぷりと乗っており、草加や越谷でとれた地元コシヒカリを原材料に炭火で一枚一枚手焼きされる製法は古来から踏襲されている。その香りと独特な歯ごたえにファンが多い。
草加せんべいには昔食べた懐かしい味がある。
近ごろは触れる機会の少ない貴重な味覚、ともいえる。

f:id:tech-dialoge:20211023151457j:plain◎古来からの製法で作られた手焼きの草加せんべい

信じるに値するリアルなストーリー作り

スーパーやコンビニで手に入る一般的なせんべいは、柔らかく、口触りが良く、少し甘みがあり、香りもよい。
とくに大手製菓メーカーによるせんべいにこの傾向は強い。
これこそ、マーケティングの成果である。
ドラッカーがいう、セールスしなくて勝手に売れてしまう状態を作るのがマーケティングである。
綿密な顧客調査と商品実装を通し、マーケティングはせんべいに大量生産と大量消費の仕組み化を実現し、せんべいを買いやすく、食べやすくした。

しかし近年は、この「買いやすく食べやすく」が、買い手にとって本当に最良なのか、もしかしたら売り手視点なのではないのか、という疑問も耳にする。「買いやすく食べやすく」は、人の心身にとって最適なのかという本質的な視点からの疑問である。
人は本来、心身の成長を目標とする。
昨日よりも明日、明日よりも明後日がよりよくなることを願って生きている。その逆を計画しながら生きている人はまずいない。
さらに昨今は、その商品を口にして心身によいのかという本質的な課題の解決に加え、「その商品を口にしてうれしいか」という、顧客体験の解決までが商品価値に織り込まれている。

一昔前は、「その商品を口にしてうれしいか」は、味覚や触覚、視覚といった課題を解決するだけで実現した。
しかしいまは、そこに「信じるに値するリアルなストーリー」までが問われる。
浅薄な商品開発秘話や顧客の体験談を作り上げても顧客は納得しない。
そこにはたえず「信じるに値するリアルなストーリー」が求められる。

そう考えると、せんべいを一つ売るにも、ビッグデータによる顧客ニーズ分析やマーケティング分析、これらをベースにしたストーリーづくりがキモになるのは想像がつく。しかし、作業には知識と資金力を要する。大量な利潤が必要であり、そのための大量消費と大量生産の仕掛けが必要になる。
一方で、この、大量消費と大量生産の仕掛けが、製品が陳腐化させたり、口にして体に悪い製品を作らせてしまうというネガティブな要因にもなる。

f:id:tech-dialoge:20211023151602j:plain草加八景の一つである、真言宗智山派寺院 東福寺の山門

伝統工芸と古典技能をITが救う
先日、草加駅近くの観光案内所の女性と話していたら「「草加せんべい」は世間で一般化した単語であるため商標登録できていない」と嘆かれていた。ここに、マーケティングの一つの壁が出現している。
そもそも本場の草加せんべいは、大量生産・大量消費の仕組みを持っていない。
観光案内所では地元の方々が草加の街の魅力を元気に紹介している。
草加せんべいは、手作りを売りにする、いってみたら伝統工芸品や古典技能の一つである。

時代には波がある。
歴史的なものは時代という時間の波に飲み込まれる。
もしくは、伝統的なもの、文化的なものとして保存されるか、時代の波を逆手にとってに乗っていくか。
時代の波を逆手にとる力が、経済である。
大量生産・大量消費の仕組みもまた経済という力を得る手段の一つであった。

時は金なり、という言葉がある。
時代という時間の波はマネーとテクノロジーよってコントロールできる。

そのテクノロジーの中でも、最も身近でお金がかからない強力な選択肢が、IT(情報技術)である。
卑近な例でいえば、チラシを印刷して駅前で配布するのに加え、SNSで告知する、動画を流す、という選択肢がある。
ITが強力で安価な選択肢であるとはいえ、ITにはお金以前に「難しい」「怖い」「そもそもITって……」というメンタルとマインドへのブロックが立ちはだかる。
それでも、もはや伝統工芸、古典技能となった草加せんべいは、ITの力をもって普及させる価値がある。
厳しいかないまは、いいものは必ず残る、という時代ではない。
情報・ファイナンス・経営の課題といった障壁を乗り越えられずに、時代の波に飲まれ、さまざまな優れたものが消えている。
価値の高い味を提供し続けた飲食店や、優れたパフォーマンスを提供し続けたライブハウスなどの閉鎖は、まさにそれだ。
「劣っていたから閉鎖されたのだ」「経営が間違ったからだ」と一言で片づけられない時代が、いま来ている。
情報・ファイナンス・経営課題こそ、ITを使うことで相当の解決ができる。
草加せんべいを例にとれば、SNSによる情報発信からECサイトでの直販、地元農家からの材料の直仕入れ、伝統製法の保存伝授のYouTube化など、いわゆるDX(デジタル・トランスフォーメーション)の基礎を導入するだけでも、多くの状況は一変する。そして、草加せんべいがコンテンツ化するのだ。

小さな文化の物語が、世界を縮退から守る
物理学者の長沼伸一郎氏は『現代経済学の直観的方法』の中で、世界はグーグルやAmazonなど一部の巨大企業が支配する「縮退」の方向に向かっていることを指摘する。湖の中で強力な外来種が在来種を追いやり、外来種の個体そのものは増加するが、種の多様性は滅びることにも例えている。

いま、歴史的で再現困難なもの、文化的に価値の高いものがどんどんと追いやられている。同氏は経済学者J.M.ケインズの言葉を引き、文明を「薄い頼りにならない外皮のようなもの」とし、これが世界の多様性を支えているという。

文明という大きな物語は、数えきれないほどの小さな物語から構成されている。
その意味で草加せんべいは、縮退の外側にある価値を持つ小さな文化の物語だ。

いま、規模の大小を問わず、さまざまな分野でDXが進んでいる。
「伝統工芸DX」「古典技能DX」の分野でも導入が進んでいるところもあるだろう。
こうした、伝統や古典といった、一見お金にならなそうなものにこそ、ITの力が大きく寄与する時代が来ている。

ストーリーを想起しながら歴史と味覚を味わえる一枚のせんべい。
草加せんべい+DXの明日がとても楽しみである。

秋の虫から聞こえた、命の循環と環境のこと

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草むらでは秋の虫が元気に鳴いている。
このところ、環境のことや健康、食べ物のこと、世界のことを考える人は増えてきたと思う。
健康、食べ物のことは、10年以上前に医師たちと書籍をつくっていた関係から、よく調べたし、いまでも個人的関心は高い。
とくに食べ物のことは、最近は考えているだけでもなぜか幸福感に包まれる。「生きることは食べること」ともいうが、食べることは健康の大切な指標でもある。

ふと、虫の鳴き声を聞きながら、「この虫の鳴き声は、5年後、もしかしたら環境破壊で聞けなくなるかもしれない!」と思い、ぞっとした。
子供のころ(1970年代後半)、毎年夏、九十九里海岸でホタルをとるのが楽しみだった。
草むらから飛び立つホタルを手で払い、落ちてきたのをとるのだ。
どんな仕組みで光るのか、生きたホタルをつまみ上げながら、好奇心から小さな命の仕組みを調べたものだ。
そのホタルが、ある年を境に急にいなくなった。
この記憶が忘れられない。
九十九里海岸に流入する河辺から、ホタルが一匹もいなくなったのだ。
同時に、小川に這っていた大きなカニたちも、消えてしまった。
さらに、模型ボートを浮かばせて遊んだ小さな池も駐車場になってしまった。
子供心に、これは大きなショックだった。
これは1年間の出来事だった。
思い出した瞬間、いまの環境のことと食のこと、世界のことが、一気につながってきた。

「東西冷戦以降の世界ってどうなっているのか」と、長年もやもやとし、いまでも主義や思想、武力が世の中を支配しているものだと思いこんでいた。それはその通りなのだが、いまは世界がさらに複雑化した。
一年前、偶然「畜産業の高度産業化の反省」というキーワードに世界の視線が向かっていることを知る機会があった。
いまの食肉や穀物(食肉の餌)は、生産性向上と収益を第一に、地球や人体の安全を二の次に、大量生産されているという仕組みが指摘されている。
この仕組みを圧力団体への献金を通して保持し、地球や人体を犠牲にして収益化を図っている大手企業が多い。
と、米国企業を名指しで指摘するアメリカのメディアが出てきていることを知った。

生産性と収益性向上のために穀物には遺伝子操作が加えられている。
発がん性物質を含んだ農薬も使用されている。
食肉生産にも発がん性物質が使用されている。
食の安全への指摘は、日本で何十年も前から何度も繰り返されてきた。
もはや世界が見過ごせない深刻な時代に突入したことを万人が認識し始めた。
それは、さまざまな意味で、今回のコロナ禍が影響している。
自他の心や人との関係、仕事やお金、命のことなど、いままでは頭で考えていたことを、言葉ではなく体で考える時代になった。
私自身もこれからも考え、動き、働きたい。
5年後にも、そしていつまでも、元気な秋の虫の声を聴きたい。

個人が事業の「ファン」として投資する、クラウドファンディングを取材

日経ムック『DXスタートアップ革命』の事例⑨で紹介された日本クラウドキャピタルが、渋谷東急本店に「FUNDINNO SHOP」を出展されました。
出展最終日の9月20日(月)、取材にお伺いしました。

f:id:tech-dialoge:20210922130128j:plain◎案内してくださった日本クラウドキャピタルの向井純太郎CMO中村優子さん。

「FUNDINNO」は、個人投資家が事業の「ファン」として投資する、株式投資クラウドファンディングのサービス。投資先各社が出展されていました。

f:id:tech-dialoge:20210922130306j:plain『DXスタートアップ革命』の展示を発見

f:id:tech-dialoge:20210922130335j:plain◎足をスキャンし、3Dプリンターによる最新技術を使い、一生もののフルオーダー靴が10万円を切る低価格で手に入る「菖蒲」「AYAME」ブランドを提供するcrossDs japanの諏訪部代表(中央)たち

f:id:tech-dialoge:20210922130412j:plain◎足型の3Dプリンター。14時間で足型を生成する

近年「タンス預金」は増加傾向にあり、日銀発表では2020年12月時点で初の100兆円突破の101兆円となり、過去最高を記録したという。
人間の防衛本能は即座に経済活動に如実に現れる。
こと新型コロナウイルスによる心理的影響は大きい。

f:id:tech-dialoge:20210922130557j:plain◎沖縄の卓球チーム「琉球アスティーダ」の応援グッズ&、沖縄物産

世の中は本来、血液のようにお金が循環して活動するものだ。
タンスに入った101兆円は、言い換えれば、いつ使われるかわからない輸血用バッグに蓄えられた血液。
しかも個人の自宅に。
個人の所有であれ、世の中に循環させてお金は初めて活きる。
その意味で「投資は体験」というFUNDINNOのコンセプトは時代の要求に一つだろう。

日本ではお金や投資というと、1970年代の田中角栄金権政治、2000年代の村上ファンドライブドア事件など、なにかとネガティブなイメージが多い。
日本人古来のメンタリティに由来するものなのかは定かでないが、かつて「米」が財力のベンチマークとして使われていた時代が長かったことから、お金への潜在的なネガティブイメージに関連しているように思える。
ともあれ、勤務する会社も収益と投資、融資、資金繰りによって成り立っている。
また、投票した政党も政治献金や投資、助成金で成り立っている。
住んでいる地方自治体も税収や公共投資によって成り立っている。
お金と投資は我々の生活でいつもつながり、循環している。

その昔、「交通戦争」という言葉があった。
交通事故で自動車は人命を奪い、排ガスは光化学スモッグをもたらす。
だから自動車は社会的にネガティブな存在である、という論調だ。
いま、自動車を社会的にネガティブな存在という人はどれだけいるだろうか。
自動車は、産業、物流、日常など、社会になくてはならない存在だ。

同様に、いまはお金や投資の意味も再定義される時期にある。
接触が推奨されるこの時代、お金や投資という「媒体」「記号」も重要である。
お金や投資に対する教育やサービスの登場を通し、お金を社会的にネガティブな存在という人はどれだけいるだろうか、と問われる日は近いだろう。

お金と投資の在り方を見せていただくことで、知と発見のあった貴重な出展だった。

この夏の、もう一つの敗戦体験 ~第五福竜丸展示館にて~

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毎年夏になると、東京新木場(夢の島)にある第五福竜丸展示館に来る。
きっかけは、2011年6月に埼玉県草加市の講演で偶然お会いした、第五福竜丸
乗組員として被ばくされた大石又七さんとの対話だった。
講演での質疑応答や講演後の名刺交換で20分ほど話させていただいたが、
この方のエネルギーと知性は今でも忘れられない。
またお会いしたいと思いながら年月が経ち、今年、大石さんがお亡くなりに
なられたことを聞きとても驚いた。一期一会の大切さと、思っているだけでは
なにもならないのだという現実を悔やんだ。

大石又七さんとゆかりの深い方との出会い
先日テレビをつけたら、偶然、NHKスペシャルで大石又七さんが特集されていた。
大石さんと晩年を過ごしたという、第五福竜丸展示館学芸員市田真理さんが
インタビューに答えていた。
このような方がいたという事実に私は驚き、一度お会いすることはできないかと、
今年も展示館に足を運んだ。
が、オリンピックの関連であいにくの休館だった。
入り口に事務所があったので訪ねてみた。
市田さんを訪ねると、ご本人が出てこられた。
これもまた偶然のご縁である。
お忙しい中、一時間ほどお時間をいただき、貴重な体験やお話をお聞かせ
いただいた。
私は大石さんの著作『ビキニ事件の真実』(みすず書房刊)を取り出し、
この本のことを市田さんと語ることで時間を過ごした。
市田さんは、大石さんの講演の事務や膨大な資料のまとめ、著作活動の編集に
長年携われていた。
いまだ大石さんの死が受け入れられないとのことだった。
大石さんのことを私は多くを聞かなかったが、この談話の中でとても
印象深かった話がある。
市田さんは、第五福竜丸展示館の学芸員として、子供たちを招いて作文や
お絵かきのワークショップをよく開催されていた。そして参加された子供たちが
成長し、しばしば訪ねてきてくれるらしい。中には、社会に出てジャーナリスト
になった人も来られたという。

戦争と子供
子供たちが体感する第五福竜丸という一つの「事実」は、反戦が語られる
多くの言葉よりも雄弁な証明である。

大石さんと市田さんから得た共通の印象は、戦争や被ばくという巨大なテーマを
背負いながら、熱狂的に反戦を叫ぶ、という雰囲気はどこにもない。ひたすら、
事実を、冷静に伝える。そのうちなる重さは計り知れない。事実の強さを
理解しているからこその態度であろう。

2011年の草加市での講演で私は大石さんに「3.11に遭遇した日本人に被爆者とし
て何が言えるでしょうか?」という質問を投げかけた。
返答は、「日本人は事実を知ること。私たちはずっと事実を隠蔽され続けてきた」
であった。
この言葉を聞いたときはいまひとつピンとこなかったが、3.11以降の日本で起こ
った事実を振り返れば、事実の伝達に関してなにが起こったか、おわかりだろう。

私は子供のころから、戦争を事実として生活してきた。
私が子供時代を過ごした下町葛飾区は、東京大空襲でやられた地域だ。
中学校の隣の図書館には機関銃の弾頭や焼夷弾の破片が普通に展示されていたし、
教師からは戦争の話を嫌というほど聞かされた。中川を褌で友達と泳いでいたら
米軍の戦闘機から機関銃掃射された話、スコップで土を掘り遺体を土に埋める作
業を手伝わされたことなど。
1942年の東京空襲では、14歳の石出巳之助君が葛飾水元国民学校の校舎を米軍
のB-25爆撃機に掃射され犠牲者となった事件があった。これも子供のころよく聞
かされた。機関銃で撃たれたらとても痛いだろう、血がたくさん出るのだろうと、
子供ながらに小さな想像力で大きな恐怖心を持っていた。

   * * *

戦争を語り、考え、当たり前の日常がいかに貴重なものであるのかを共有するこ
とは大切である。
それ以前に、子供時代から「事実」(ファクト)を共有することが大切ではなか
ろうか。過去になにが起こり、私たちの人生の先輩たちはなにを体験してきたの
かというファクトを知ることが大切である。
9月から第五福竜丸展示館が再開している。
被爆の事実としてもさることながら、最後の木造大型船舶としても貴重な展示で
ある。一度は足を運ばれ、感じてみることをお勧めする。

関連記事:原爆投下日にあたり、ビキニ環礁で被爆した大石又七さんの講演メモ