本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

文化と日常の不思議な関係

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今回のコロナ禍で「文化」という言葉が海の向こうからはたびたび聞こえてきた。
飲食店や舞台、ライブなど、言葉や作品の対話がリアルに交わされる場が閉鎖されたため。
しかしこの状況に日本で、「文化」という言葉が使われることが少なかった気がする。
「文化」という言葉に、
 
「実生活から遠く離れた非現実なもの」
「時間とお金にゆとりがある人にのみ与えられるもの」

というイメージを持った日本人が多いと推測するが、どうだろう。 
駅前の居酒屋で大きなビジネスや壮大な歴史・哲学が話されることもある。
街の小さな書店で壮大な文学作品を手にすることもある。
舞台や映画館では質の高いパフォーマンスが世界から定期的に送り届けられている。
こうした文化に日本人も日常で接しているのに、である。
逆に、日本では文化が日常生活の中に溶け込んでいるからさほど意識しないで人々が生活している、という意味なのだろうか。

三津田治夫

DXの「D」と「X」の深い断絶をつなぐメディアとコンテンツのお役目

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DX(デジタル・トランスフォーメーション)という単語が世に知れ渡って久しい。

1年前のいまごろは、

「一過性のバズワードだろう」
「一年後には陳腐化する言葉だ」

という意見が方々から聞こえてきた。
しかしそれどころか、DXはまだまだ世の中に浸透していない。
政府は年頭に「新しい資本主義」を実現するために、デジタル化やイノベーションを社会課題ととらえ、これらを経済成長のエンジンにすると表明している。
言い換えると、デジタル化やイノベーションはこれからの課題であると、政府がはっきりと認めた形だ。
デジタル化とイノベーション(非連続的な進化)とは、言い換えると、まさにDXである。

「D」(デジタル)と「X」(社会変革)の深い断絶
このような状況を踏まえて、私はさまざまなITエンジニアや経営者たちと対話を続けてきた。
その中で一点、気になることが出てきた。
それは、DXとはいえ、そもそも「D」(デジタル)と「X」(社会変革)がバラバラなのではないか、という疑問だ。
本来デジタルとは、社会変革のために発明された道具であるのにもかかわらず、である。

デジタル化を担うITエンジニアたちと組織経営を担うITを使う人たちとの間には、本質的に深い溝が見える。とくに、政府がDXと言い出したあたりから、ますます感じるようになってきた。

たとえば、ITエンジニアたちは「提案型のITエンジニアリングをしている」としばしば口にする。
が、実際にシステムを使う組織経営の現場にどのような提案がどれだけ届いているのか、定かではない。
ITエンジニアたちは、現場のフィードバックの重さを、どれだけ肌身で理解しているのであろうか。
逆に組織経営者で、どのようなデジタル化でどのような価値が生まれるのかを知っている人がどれだけいるのかも、定かではない。
組織経営者は、ITの可能性の深さと柔軟さが、どのような現場でどのように生み出されているのかを、どれだけ肌身で理解しているのであろうか。
ITエンジニアと組織経営をになう人たちの間には、深い断絶がある。

そこでよく、「対話」という言葉が出てくる。
ITエンジニアたちと経営者などITを使う人たちとの間で「対話しましょう」「話せばわかる」という論調だ。
対話はとても重要である。
しかし、国内のシステム開発の現場には、対話以前の本質的な課題が横たわっている。
数値統計で見たわけではないが、あくまでも、31年間ITにかかわる仕事をしてきて私が体感した「臭い」である。

対話以前の本質的な課題とは具体的になにか?
取引先との関係が変わってしまうこと、「このまま働き続けられるのか」という従業員の不安の高まりなど、経営者がDXに消極的になる要因は多い。
また、IT企業そのものが「DXの発注があればお手伝いはするが自社内までDXするのは消極的」というのも本音だろう。

しかし、目前に解決すべき課題がある。
それは「共通言語」の課題である。
つまり、ITエンジニアたちのマインドとITを使う人たちのマインドの間に、共通言語が足りていないのだ。
日本人とフィンランド人が互いの言語で対話するぐらいの断絶がある。
対話という、言葉によるマインドの流通を実現するには、語学に励むか、通訳を入れるかの、いずれかだ。
こうした課題を解決するために、私はITの図解書籍『ゼロから理解するITテクノロジー図鑑』(プレジデント社刊)を監修させていただいた。
発刊後、読者たちからたびたび耳にした言葉がある。
それは、「それでもITは難しい」であった。
これにはいささか驚いた。が、まぎれもない現実である。
そして日増しに、「それでもITは難しい」(もしくは無関心)の人が増えてきているようにも感じる。
ITは日進月歩で進化し、複雑化している。
この進化による複雑化ゆえに、組織経営者などITを使う人たちの無知を利用するビジネスモデルがますます強固になるという悪循環も、「それでもITは難しい」に拍車をかけるのだろう。

共通言語を持つことで、ITエンジニアたちとITを使う人たちとの間に、互いへのリスペクトが生まれる。
違いを尊重し受け入れることから質の高い対話が成立する。
これにより、相手の無知を利用するというようなレベルの意識もなくなる。

「D」と「X」の乖離はこれからもますます広がる
日本のこどものIT教育は先進国の中でも群を抜いて低い。
加えて、2025年には45万人のIT人材不足が予想されている。
目前の課題は山積である。
これら課題は個別ではなく、「課題のセット」である。
ITを使う多様な人たちの多様な要求は日増しに厳しくなり、それと連動して技術の複雑化は進む。
データの大量化、処理の高速化、データと処理の分散化・小型化、センシング技術の多様化、大量データと高速処理を利用したAIによる自動化、これらに伴う量子コンピュータなどハードウェアのイノベーション、など、さまざまな要素が複雑化を加速させる。
「それでもITは難しい」という、共通言語を持たない人たちの増加が止まるはずがない。
「D」と「X」の乖離はますます激しくなる。
残念だが、マインド共有のディストピアが手に取るように見えてくる。

課題のセットを因数分解し、一つ一つ解いていくことが、課題解決の糸口である。

ITと使う人をつなぐ「第3の知識」を届ける、メディアとコンテンツの力
課題のセットは、「教育」の分野と「ビジネス」の分野に大別できる。
双方において共通言語を持ち、全体のマインドセットをリアルタイムで更新し、最適化していくことが目標である。

ITエンジニアたちとITを使う人たちの間で共通言語を持つために私がやっていることは、書籍や雑誌、電子、Webによるメディアとコンテンツづくりだ。

「D」と「X」の乖離がますます激しくなるこれから、そこに歯止めをかけるために、メディアとコンテンツが大きな役割を演じると考える。
私の仕事の役目は、「それでもITは難しい」という人を、メディアとコンテンツの力、編集力、制作力を通して、一人でも減らすことだ。
WebとSNS、メール、紙、オフラインを通し「それでもITは難しい」という人を一人でも減らす。
さらに、ITの言葉を、誰もがわかるように通訳する。
言い換えれば、DXに向けて、人のITへの無知を減らすことだ。
ITエンジニアの言葉とITを使う人たちの言葉の乖離を「語学」で解消する。
語学の本質は単語や文法、発音記号の暗記ではない。
マインドセットを書き換えることだ。
さらに、双方の言葉の乖離を「通訳」で解消する。
メディアとコンテンツを通して「語学」と「通訳」による双方の言葉の乖離を解消する。
これにより「D」と「X」を接近させる。
このままでは、ITとITを使う人たちのニーズの急激な変化と多様化に反比例し、「D」と「X」の乖離はますます広がる。
双方をより接近させるいまの社会の必然的なテーマが、「語学」と「通訳」だ。

Pythonプログラミングの知識でもない、MBAでもない。
確かに各々は重要な知識だ。
それを踏まえたうえで、「語学」と「通訳」を通して「D」と「X」をつなぐ「第3の知識」の獲得が必要だ。
従来の文系と理系をつなぐリベラルアーツの発想をITに導入するイメージに近い。

ITの根底にも文化と歴史が流れている。
なぜ、中学の国語の授業で万葉集を学ぶ必要があるのだろうか。
それは、国語の本質を知るためだ。
これにより初めて、共通言語としての国語を手にすることができる。
同様に、ITの共通言語を手にするために、歴史を学ぶ。
周辺の文化を学ぶ。
それがどうしても困難な人には、万葉集の現代文解釈のように、通訳を入れる。
そして、言葉によるITマインドの流通を実現させ、DXの道幅を広げていく。

「D」と「X」の断絶をつなぐメディアの取り組みに興味のある方は、ぜひ私までお声がけいただきたい。
課題解決に貢献できたら幸いである。

三津田治夫

来週2月3日(木)19時に、交流会を有楽町で実施いたします。

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来週2月3日(木)19時に、以下交流会を有楽町で実施いたします。

bit.ly

2020年、クリエイターとITエンジニアを中心に、学びや考え、アウトプットを共有する「知活人」(ちいきじん)プロジェクトを立ち上げました。
上記は、そのオフライン初顔合わせイベントです。

イベントの趣旨は、2年間の活動報告とこれからの活動を交えた、参加者同士の交流会です。

モノやコトを開発しているエンジニアやクリエイター、文章を書いている人、経営者、社会活動家、地方リモートワークの達人など、いろいろなことを手掛ける(濃い)方が来られる予定です。

ぜひご参加いただき、交流の輪を広げていただけたら嬉しいです。
この場で、知活人3年目の活動の方向性も共有できたらと考えております。
また、この場で新しいプロジェクトが立ち上がったら面白いです。

参加、ご検討いただけましたら幸いです。

またお目にかかり、対話できることを、
心から楽しみにしております!

三津田治夫

第36回・飯田橋読書会の記録:『ギリシャ悲劇全集Ⅱ』(ソポクレス編) ~悲劇の世界から舞台とメディア、カタルシスを考える~

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2014年1月に第1回目を開催してはや7年。
今回で第36回を重ねることになった飯田橋読書会。
お題は、たびたび取り上げるジャンルの戯曲。
今回は、古代ギリシャの劇作家、ソポクレスの悲劇を取り上げた。

2020年2月5日の第30回読書会『ガリレイの生涯』(ブレヒト)を最後に、同年8月29日の第31回『人間・この劇的なるもの』(福田恆存)からオンライン開催となり、オフラインでの開催は実に1年と10カ月ぶりになった。
さらに1年の総まとめでもあり、参加者は10名の活況となった。

ソポクレスは紀元前497/6年ごろ~406/5年ごろに生きた古代ギリシア三大悲劇詩人の一人である。
父親殺しの「エディプスコンプレックス」をフロイト命名したリソースの戯曲『オイディプス王』は有名。
作家は生涯で120の戯曲を書いたが、現存するものは以下の7作のみである。

『アイアス』
『トラキスの女たち』
アンティゴネー』
エレクトラ
オイディプス王
『ピロクテテス』
『コロノスのオイディプス

今回は上記の全作品を読書会で取り上げ、議論のたたき台とした。

私は人文書院版の古い『ギリシャ悲劇全集』から再読してみた。
20代のときにかなり読み込んだが、30年近くを経て、さっぱり物語を忘れていたことに気付いた。
また、本をめぐる新たな気づきや出会いがあり、大変興味深かった。
今回は『オイディプス王』と『エレクトラ』の2作だけを読んで全作を読んだことにしておこうかと、いささかの怠け心が発動した。
が、実際にページを開くと、ぐいぐいと作品に引き込まれ、全7作を一気に読んでしまった。

参加者も全員作品群の魅力に引き込まれ、全作を積極的に読まれていた。
さすが、古典の力はすごい。
それゆえに何千年も作品が残り伝えられているのだろう。

意外な名作『ピロクテテス』との出会い
相変わらず、さまざまな属性の参加者から多様な意見が飛び交った。
父親殺しの悲劇『オイディプス王』はマストであり、
「本作に悪人はいない」としつつ、登場人物は
「自分の正義をとうとうと語る」ことに専念し、
「明るい悲劇、ねちねちしていない」
「きっぱりと終る物語」
など、率直な意見が興味深かった。

人がバタバタと命を落とすドラマに「明るい悲劇とは何事か」といわれてしまいそうだが、この時代は「人命が軽い時代」であったからこうした命の扱われ方なのかもしれないし、とはいえ悲劇のテーマがいつも「死」であるというのは、人類最大の課題が「死」であることは科学万能の現代でも変わらないという証明でもある。

「『オイディプス王』を父権性社会の物語」と指摘するエーリッヒ・フロムのことや、一方でフェニキアやエジプトでは母権性社会であったという知識も会場内で披露された。
母親の子供の出生の恐怖と母のその心理への子の恨みという、小此木啓吾が広めた「阿闍世コンプレックス」も指摘された。

作品中では圧倒的に、『ピロクテテス』に人気が集中した。
この作品のキーワードは「弓」と「身体」。
主人公は蛇に噛まれて足が不自由な弓の達人という、特殊技能を持ったピロクテテスだ。
戦闘中上官のオデュッセウスに、島に置き去りにされる。
そして彼の持つ名弓をめぐって、オデュッセウスが舞台を動き回る。
ピロクテテスの存在と技能について
「『畸形の神 -あるいは魔術的跛者』(種村季弘)が参考になる」
という知識も受けた。

オデュッセイア』では二枚目の英雄を演じたオデュッセウスだったが、『ピロクテテス』の中での彼は、なんとかして弓を手に入れようと、ずるがしこくふるまう嫌な男だ。
オデュッセイア』はオデュッセウスが島から帰還する物語である。
一方で『ピロクテテス』では、当の本人が部下のピロクテテスを島に置き去りにするという、逆説的な物語だ。
『ピロクテテス』はギリシャ悲劇において一般で語られることが少ない作品であるが、機会があったらぜひ一読をお勧めする名作だ。

人がいる限り、ドラマは生み続けられる
さて、会場からは、

八百万の神が演じるギリシャ悲劇は素晴らしい」
「ここに文化の根源がある」
「運命愛とサイエンスが混在したギリシャの世界とはいったいなんだろう」
クリュタイメストラは元祖“毒親”だ」
「これだけの英知を持ったギリシャ民族は内戦で弱くなってまった」
「正義を突き通すことは困難という現実を劇という舞台で表現した」
「コロスとはコーラスの語源だったのだと初めて知った」

など、参加者の意見は多彩で総じてポジティブだった。
中には「自分も昔、親を殺したかった」という告白もあった。
「人間の完成はこの時代に確立していったのであろう」という発言は、ギリシャ悲劇という枠組みを超えた貴重な意見だった。
言葉が人間を創り、人間が言葉を創る。
それが循環し、歴史が歴史を創る。

私も学生時代以来の作品への接触で、たいへん興味深く再読した。
死や運命という壮大なテーマのギリシャ悲劇が、「なにが起こったのかわからない」うちに終わるチェーホフの新劇と「地続き」であるのは不思議だ。
さらにはハリウッド映画やテレビの連続ドラマ、昼のドラマなど、すべては「劇」として地続きである。
実に興味深い。

そこで、なぜドラマは生まれるのだろうかと、ふと考えてみた。

人間は命ある限りドラマを生み続ける。
しかしながら、それが作品として文字で残されない限り、次の時代にはつながらない。
古代ギリシャという、これだけの作家がこれだけの作品を排出した地域と時代には、どこかに特別な理由があるはずだ。
作品は、作家という「書き手」と読者や観客といった「受け手」の需給のバランスが成り立ったうえで生み出される。
この古代ギリシャの時代、絶妙なバランスが成立していたのだ。

これら戯曲をベースに、巨大な舞台に大人数を集め、市民らの間で作品が演じられてきた。
舞台作品の良しあしを競うコンペティションもあり、いまでいうカンヌ映画祭のような感じだ。

古代ギリシャの悲劇はこのように、国家あげて創り上げられる一大プロジェクトとして上演された。
劇場の建造や保守、劇団の運営は言うにおよばず、作家への支払いなど、かかったコストはいまのハリウッド映画もおよばないスケールだったと想像する。
古代ギリシャにこれだけのショー文化があったのは、人間が何かを失いつつあり、それを求め、人間が人間たるゆえんを獲得しようと、必死に努力した結果なのだと私は考える。

メディアでは数々のコンテンツが生み出され、人々は共感を求めてメディアへと群がる。
共感を通じて、人々は分断から逃れようとする。
多くの島々と数々の戦争、八百万の神で構成された古代ギリシャという一種の分断社会は、文学や音楽、サイエンスを通して共感を築き上げようとした。そして、まだ見えぬ未来への旅へと漕ぎ出そうとしていたのだ。いまの人たちのように。

私がいささか疲弊していた学生時代のある時期、ギリシャ悲劇を愛読し、ここにはカタルシス(心の浄化)があると共感していた。
嫌なことや理不尽なこと、「なんだかなぁ」と理解に悩むこと、思っていていても言語化できないこと、すべてはギリシャ悲劇に書かれていると納得していた。
そして「自分の悩みなんてちっぽけなものだ!」と、読後のカタルシスを通して作品に共感していた。
古代のギリシャ人たちも、カタルシスによる共感を求めて観劇に臨んだ。
舞台が人と人とをつなぎ、人々に共感と生命を与えた。
いまでは舞台がメディアとして形を変え、人と人とをつなぎ、人々に共感と生命を与えようとしている。
ブログからSNS、さてはメタバースまで、メディアは人と心の関係を再構築しつづけている。
エウリピデスの悲劇の主人公に「メディア」という女王がいたことを、ふと思い出した。
今回の読書会を通し、ギリシャ悲劇文化とネット文化は、2000年以上を経て実は地続きだった、ということを感じさせられた。

          * * *

さて次回は、また趣向を変えて、現代の作品へと戻る。
お題は『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー 著)である。
これは、読書会をテーマにした本。
はてしない物語』で物語が書かれるがごとく、読書会の中で読書会を読むという、まさにメタな読書会になってきた。

次回も、お楽しみに。

三津田治夫

本日、1月11日をもって、創業5年目を迎えることになりました

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本日、1月11日をもって、私が代表・運営する
株式会社ツークンフト・ワークスは、創業5年目を迎えることになりました。
たかが5年目、されど5年目という、実感です。
思い返すと、未知・未体験の現象が山のように出現し、
勉強と実装の繰り返し、繰り返し、でした。

丸腰のサラリーマン中間管理職から起業し、
なんとか、ここまでやって来られました。
それもひとえに、私や当社の出版プロデュースの
活動をお支えいただいたお客さまや
周囲の方々のお力にほかなりません。
本来なら直接お会いしてご挨拶をすべき事柄ですが、
不躾ながら、この場を借りて、厚く、心から、感謝を申し上げます。

まだまだやれることはたくさんあります。
2022年の5年目を機に、当社では以下にターゲットを絞り、
出版プロデュースの仕事をいたします。

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①日本のDX(デジタル・トランスフォーメーション)の成長支援
②デジタル(IT)に貢献する活動
③トランスフォーメーション(事業変革)に貢献する活動
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「出版」といっても、紙の本だけではありません。
電子出版、Web記事、オンラインイベントなど、
さまざまなアウトプットを、引き続きプロデュースします。
日本のDXの力を支える「出版」に向かって、全力で行きたいと考えております。

具体的には、②に関連する活動として、
「DXビジネスの教科書」企画と「DX時代のデータモデリング」企画の出版が決定しています。
その他にも、クラウド開発、ネットワーク開発、金融システム開発、DX時代のエンジニアリング超入門書などの企画制作も、昨年から鋭意進行中です。
③に関連する活動としても同様に、「DX時代のリーダーの意思決定」や「DX時代の起業入門」「DX時代のスポーツ・ビジネス」「DX時代の医療」などの企画制作が鋭意進行中です。
これらに並行して、コミュニティでの活動も行ってまいります。

岸田内閣総理大臣による年頭所感では、
「社会課題を成長のエンジン」としながら
「デジタル化」と「イノベーション・科学技術」を掲げました。
政府としてもようやく、DXへの力を強める方向でおります。
これからもデジタルと変革をめぐって
大局的な動きがまだまだあるはずです。

いままで私と出会った方々・これから出会う方々は、一人ひとりが「著者」であると
とらえております。
そのうえで「万人が共有する言葉」によるアウトプットを促す助産役が、私にしかできないお役目だと思っております。
そのような活動に、上記の3点にフォーカスし、従事していきたく考えております。

これからも体力を保ち、経験を積み、お世話になっているお客様や周囲の方々に恩返しをしながら、一歩一歩、次のステップに向かっていくことができたらと考えております。

5年目もなにとぞ、よろしくお願い申し上げます。

三津田治夫

小説作品から日本仏教のルーツを探る:『鳩摩羅什 ~法華教の来た道~』(立松和平/横松心平著)

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鳩摩羅什(くまらじゅう)という書名を目にして衝動的に買った一冊。
副題にもあるように、この方は日本に法華経をもたらした中国の高僧で、西遊記でおなじみの三蔵法師の一人である。

小説は2つの物語から構成されている。一つは現代。病苦から世をはかなみ、両親との不和を嘆く青年がお寺の住職との交流で社会福祉に目覚め、人間性を獲得し、恋愛の悲喜、信仰や学問との出会いを通して成長していくという物語。

そしてもう一つは古代。鳩摩羅什がどんな人間で、どんなふうにしてサンスクリット語から漢文に法華教を翻訳していったのかというプロセスが描かれている。サンスクリット語を見事な漢文に意訳していくという宗教家たちの苦労もさることながら、戦乱のさなか長い間捕虜として不自由な身であったことや、晩年には妻や妾が多数いた破戒僧であったという数奇な人生も描かれている。

こうした信仰系の名著に吉川英治の『親鸞』があるが、一つ合点がいったことがある。
親鸞は肉食妻帯を実行した僧として、吉川英治の作品中では、男としての親鸞、父としての親鸞が生き生きと描かれている。それにしても師匠法然のお墨付きで肉食妻帯が許されたのはどういうわけかと、終始疑問を持ちながら読んでいた。『鳩摩羅什』を読んで、なるほど、この時代すでに高僧が妻帯していたという既成事実があったのだとわかった。
いくら戒律云々といっても、高僧、天才と呼ばれるぐらいの知性や人間性、影響力を持った人間においては、本人の意思や性癖を抜きにしてでも、その子孫やDNAを後世に残したいという気持ちは周囲に大きかったに違いない。

法華教は聖徳太子が日本に輸入したといわれているから、鳩摩羅什はさらに昔の人で、その人となりの手がかりとなる情報はかなり少ない。
そんな難物に取り組まれた立松和平氏と、その息子の横松心平氏の作品は、非常に興味深い仕事だった。

三津田治夫

演じられることの少ない名喜劇:『こわれがめ』(クライスト、岩波文庫)

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クライストの書いた喜劇とはどんなものだろう。
そんな疑問を持ちながら読んでみた。

さすがクライストだけあって、喜劇とはいえ辛口。
割れてしまった甕を巡る裁判を通していろいろな事実が判明し、そこにオチがつく。
クライストの作品の中ではわかりやすい世界観を持っている。

ゲーテがワイマールの国立劇場で『こわれがめ』を上演したら演出が大失敗し、それがきっかけでクライストとゲーテの仲が悪くなったらしい。

しかしこういった戯曲、最近は上演しているのだろうか。
上演の話はあまり聞かない。
このような「読まれるだけの名作戯曲」があることを、改めて認識した。
たとえばゴーゴリの『検察官』も同類だろう。

名作の名は高いが、上演の話はあまり聞いたことがない。
そう考えると、シェイクスピアチェーホフのような「読まれ、演じられる戯曲」は少ない。非常にレベルが高い創作物だといえる。

三津田治夫