本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

創業6年目で考えた本と「本」のこと

私が経営する株式会社ツークンフト・ワークスは、1月11日をもって創業6年目に突入した。
出版プロデュース事業を起業して丸5年を経て、従業員時代には体験したことのないさまざまな風景を見ることができた。
道半ばとはいえ、ここまで来ることができたのは、ひとえに、私や会社とつながりをいただいた皆様の力にほかならない。いくら感謝しても足りないほどだ。
6年目を機に、事業を通した創業時の過去といま、未来の行動の中核をまとめてみる。

3年目でパンデミックに遭遇
創業は2018年1月11日。
退職した会社の有休消化真っ最中だった。
寒い雲り日、電車で埼玉の司法書士事務所へ登記に足を運び、書類を作成し、開業の申請を行った。
開業直後、ノートPCを片手に都心のコワーキングスペースやカフェ、Wi-Fiのある図書館を渡り歩いていた。
そのとき手掛けていたのはもっぱら会社のホームページ作成だった。WordPressテーマを購入し、突貫で自社サイトを作成した。
創業初の仕事は、業務委託による本づくりだった。
書籍の企画やディレクション、版元への成果物の納入が主だった。
業務委託契約が終了した1年後からは完全なフリー経営者として本づくりを手掛けることになった。
経理・総務・営業・マーケティングといったすべてのことを一人でやることに目が回る思いだった。この時期からまさにナマの経営に直面し、会社勤め時代、いかに自分が企業の従業員として守られていたのかという現実に日々直面していた。冷や汗ものの体験もたびたびだったが、同時に、起業しないとまずお目にかかれないことが多数で、いまでも続く貴重な勉強のはじまりがこの時期だった。

2019年末、経営者であるとともに編集者として理想の本づくりを追求しようとあくせくする最中、中国武漢での新型コロナウイルス騒ぎが報道された。
社会におかしな雰囲気が漂い出したのが2020年の1月ごろだった。
奇しくも2月には、作家の高嶋哲夫さんを囲んだ読書会の司会を引き受ける機会があった。
『首都感染』や『ミッドナイト・イーグル』といった代表作品を参加者と語り合いながら、高嶋さんとは武漢のことを話し合っていた。このときすでに、騒ぎの収束までにはそれなりの年数がかかることや、パンデミック後には世界が一変することなどがご自身の口から語られていたことは、いま思うと衝撃的だった。

日本もしだいに危険な雰囲気に包まれることになった。
飲食店の閉店や都心への外出自粛令などで、目に映る風景はまるでSF映画のようだった。
そして、ようやくこぎ出した新規事業ではあったが、創業3年目にてさっそく事業内容の転換が迫られる事態に直面した。
メディアの報道に惑わされる日本人の姿が生々しく、本づくり以外で言葉でなにか働きかけることはできないかと、仲間と新しいコミュニティを立ち上げたのはこの時期だった。
仕事で書籍という成果物をアウトプットするだけではなく、企画を媒介に著者さんと版元と読者をつなぐ出版プロデューサーとしての働き方を強く意識しはじめたのもこのころだった。
それまではオンラインでのイベントや勉強会はまだ少数派だったが、コミュニティ運営をオンラインに切り替えた時期はこのころだった。

DX、そして戦争
2020年から2021年にかけ、パンデミックがしだいに日常と同化してきた。
企業ではリモートワークが進み、東京都内の人口が漸減する状況に突入した。そんな中、一度もオフラインで会わずに本をつくるという編集制作スタイルが確立し、実際にそのような形態で4冊の本を出版した。
この時期には、「DX」と「スタートアップ」に出会う貴重なきっかけに恵まれた。
日経ムック『DXスタートアップ革命』の制作を手掛けることができた。これがきっかけで、2021年からDXに焦点を当てて出版プロデュースを行い、『DXビジネスモデル』をはじめ、さまざまな本を世に送り出すことができた。
コミュニティ運営においては、数学やアートなどに目を向け、メンバーとの学びや交流を深める足掛かりをつくってきた。

2022年2月にはロシアとウクライナが戦争をはじめた。パンデミックの余波や米中関係の悪化などを背景に、世の中はますます先行き不透明な厳しい状況になってきた。
そしていまは、この5年間で行ってきた出版プロデュースとコミュニティ運営の仕事の双方を強化しようと、次の行動としてなにができるのかを計画している。

人は最も重要な資本だったこと
経営は総合格闘技といわれる。良質な本を読んだり優れた成果をつくり上げた先達の言葉を聞いて、それをマネできるようなものでは決してない。書籍やDVDを参照しながら空手や剣道を学ぶに等しく難しい。
しかし、一つだけいえることがある。
良質な本や優れた成果をつくり上げた先達の言葉には、比類のない情熱が込められている。その情熱は、力強い勇気を与えてくれる。
まる5年間、ぶらさずにやるべき事業を続けてこられたのは、多くの良質な本に触れられたことに加え、天才や偉人と呼ばれるに等しい、優れた成果をつくり上げた人たちと交わることができたのが大きい。
まさにこれらは、貨幣や不動産のようにお金で買うことができない、貴重な資本である。
とある大先輩が口にした「上質な人脈を保持せよ」という言葉は、いまでもしばしば思い出す。
偶然な出会いの連続がもたらした結果であったが、6年目のいまになってようやくこれに深く気付きはじめた。

これから私が事業を通して実現したいこと、できることはなにかと考えた。何度考えても、本のこととコミュニティのことは離れない。
本のことから考えてみた。
出版プロデューサーとして、本を作っているだけで読者に価値が届けられているのかとは、つねに自問自答する。
本はもともと、読者の課題を言語化し、共通言語を提供することで対話を促し、対話により課題の本質をあぶり出し、課題解決という行動への勇気を与えるツールだった。
しかし、出版業界の縮小と読者が抱える課題の多様化という、双方の矛盾により、対話と本質究明という、本が持つツールとしての重要な機能が失われてしまった。
改めて、自らの起業の動機に立ち返ってみると、この矛盾がそもそものきっかけだったことを思い出した。

本で「本」を届ける
「本」という言葉には、人が文字を読むため書籍という意味から、本質の「本」、本来の「本」、本当の「本」、本物の「本」、本能の「本」、本尊の「本」、資本や元本の「本」まで、さまざまな意味がある。
「本」とは、見た目やイメージ、表面、表層、表象の反意語である。
つまり、外観に包まれた中身が「本」である。
このように「本」を因数分解していくと、出版プロデュースで扱う書籍としての本の本質がよくわかる。
また、本と「本」の2つがあることもわかる。
前者は書籍としての本、後者は単語の意味としての「本」である。
その意味で私は、出版プロデューサーを改め、「「本」プロデューサー」でありたい。
書籍がもともと持っていた、読者に物事の本質を届けるためのツールとしての本をつくること。
そして、SNSやコミュニティというツールを使って書籍を相互補完し、読者などの受け手に物事の本質を届ける。
これが、私が手掛ける「本」プロデューサーの仕事だと認識している。

とくに昨今、YouTubeなどのネット動画が社会への影響力を高めている。
情報伝達のために優れた媒体だが、これはあくまでもテレビやWeb派生の、見た目やイメージを瞬間的に受け手に伝えるための手段である。
受け手に本質に迫るための勇気を与えられる可能性まではたしかにある。しかし、その先へのハシゴがすっぽりと抜け落ちている。
世の中の多くは見た目やイメージに支配されている。
見た目やイメージはもちろん重要だが、これらは単体では成立しない。見た目やイメージは、本質と対になって初めて成立する。
本質の伴わない見た目やイメージほど危険性が高いのは、言うまでもない。
極端な例をあげれば、詐欺師の多くは見た目が美しい服装とルックス、聞こえの良い言葉を持った人たちである。彼らは本質とマッチしない見た目やイメージを材料に成果を手にする。
詐欺とは言わずにも、すれすれの線で、美しい服装とルックス、美しい言葉で本質を見えづらくし、人の心を操作するという手法はいつの時代でも利用されている。
このようなイメージ操作で、人が本質から目をそらし続けさせられた結果が、世界から大きく遅れを取ったいまの日本人ではないだろうか。

私が「本」プロデュースの事業を通してできるところは、本質と見た目の橋渡しにあると考えている。
本質から目をそらすとは、たとえば、いま社会を取り巻く物価高の問題がそうだ。
戦争や外交などさまざまな要素が絡み合ってこのような事態が訪れている。
このような問題に直面し、人はしばしば「難しい問題」と口にする。そして、逃げてしまう。もしくは、理解と解決を延ばしにしてしまう。難しいのは当たり前。簡単な問題などはない。

己の弱さを知ることから生まれる心のエネルギー
人は弱い存在である。
だから、逃げや先延ばしをしてしまう。
しかし知っておくべきは、強がる必要はまったくない、ということだ。
逃げや先延ばしをしている自分の弱さを正直に認め、それを言語化することだ。
ここから、本質への接近が始まる。
そして本質へ接近する際には、自他との対話を閉じないこと。
対話とは、一定の場によって生まれる。
立場や肩書が他人の言葉を制圧するような場では、決して対話は生まれない。
その対極にある場が、真の対話を生む。
過去が回答を与えてくれない混迷の時代にこそ、対話が未来を生む。
上記の物価高を例にとっても、絡み合ったさまざまな問題の一つに目を向けるだけでよい。
逃げや先延ばしといった思考停止とは縁を切り、自分の力がおよばない場所にも目を向けること。これが、本質への接近であり、これから生きるための心のエネルギーになる。
本質へのアプローチは流行やトレンドを理解するためにも役立つ。
プログラミング教育を例にとっても、仕事に役立つから、教育カリキュラムにあるから学ぶのではない。数学から生まれた技術でできたプログラミングという作業を通して、生活習慣や言葉、人種、宗教を超えた、論理的で普遍的な万国共通の言語と思考を身につける、というところにある。
同じように本質へと目を向ければ、私たちが義務教育で学んできた国語算数理科社会を学んだ本質が理解できる。これは、思考とコミュニケーションのツールを手に入れるための学習である。
言い換えると、本質を知るとは、一つは、自分の置かれた状況を認識し、言語化すること。もう一つは、学習や常識、習慣など、一般的に変形され認知されていた物事を分解し、言語化し、本質に戻す(再定義する)ことである。

繰り返すが、人は弱い存在だ。
だから、本質は知りたくない。
生命の本質である死を日々考えながら生きている健常者は少ない。
経営難の大企業で、倒産危機を日々考えながら働く従業員も少ない。
そんなことを考えていたら、楽しい日常が台無しになる。
なにより、面倒くさい。
だから、逃げや先延ばしをしたくなる。
人は弱い存在ゆえに、本能として逃げや先延ばしを用いる。これにより生命や身体の自己保全を図る。
しかしそこには限度がある。
目前に迫った津波を、「これは絶対に津波ではない」と自己説得したり、他人の行動を見て「みんなもそうしているから」と同調したりという、生命にかかわる自己保全もある。
そこで、本質を知ることは役に立つ。
知があれば、目前に迫ったものが津波かどうかの判断が自力でできる。
他人の顔色を見ながら判断するという行動原理から自由になることができる。
本質を知ることで、未来へ生きるための扉が開かれる。
つまり本質を知るとは、知を持つ、ということだ。

三津田治夫