本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみた:『現象学の理念』(フッサール著)/『存在と時間』 (ハイデッガー著)

f:id:tech-dialoge:20180405120005j:plain

会社の有休消化の1ヶ月を費やし、退職後初の読書ということで、『現象学の理念』(エドムント・フッサール著)と『存在と時間』(マルティン・ハイデッガー著)を読み終えた。
おのおの、今回読んだのが3度目だが、ようやく1割は理解できたか、という感じ。
以下、専門用語と引用を極力避け、私がこれらを読んだ第一の感想と印象を書き残しておく。

エドムント・フッサールの『現象学の理念』はハイデッガーの予習ということで着手。
「現象」というぐらいだから、なにか外部で起こっていることが取り沙汰にされるのだろうと思っていたが、現象学とは「人間の内部でなにが起こっているのか」が問題にされる学問。フッサール現象学には哲学を科学として確立するという意図があり、言い換えると、フッサール以前哲学は科学以外のもの、だったのである。
ページ数が比較的少ないので現象学の入門として読めるかと20代のときに買って初読したのだがさっぱりわからず、2度目もよくわからず、今回の3度目で1割ぐらいがなんとなくわかった感じ。
ページ数の少ない哲学書にはときどきくせ者がある。よく犯す過ちが、書名やページ数から、カントの『実践理性批判』を入門書として読んでしまうことがあげられる。この本は入門書でもなんでもなく、基本、カントのことを知っている人じゃないとまずわからない。

予習を終えて、フッサールの弟子であるハイデッガーの『存在と時間』全3巻を読んでみた。これまた、ようやく1割がわかった感じ。
とくに日本人にとって、この本を理解しづらい点が大きく二つある。
一つは「言葉の話」であることと、もう一つは「宗教の話」であるということ。
「言葉の話」という点で、ハイデッガーはドイツ語での話をしきりとする。また、一種の造語、つまり「ハイデッガー用語」が山盛りにある。ドイツ語では日常の単語なのだが、ハイデッガーは独自の観点から各単語に解釈を加え、存在とはなにか、時間とはなにかを詳細に分析していく。翻訳者の桑木さんもよく日本語に訳したものだと、盛大な拍手を送りたい。この本を読んで頭を抱える人は、独自の言語空間にまいってしまうところが大きいはず。
「宗教の話」という点で、これまた日本人には理解しづらい。ハイデッガーキリスト教の世界で神学を学んだ人だからこそだが、『存在と時間』を通して「神と人間は分離していないのだ」を実証しようとした。
この点、仏教社会に育った日本人にはわかりづらい。つまり日本人の宗教観は山川草木悉皆成仏、つまり山も川も植物も動物も全部一緒、命あるものはすべて仏に成仏する、という考え方。聖書で言われるような「人間は神が作った神の似姿。動植物はそうした人間が豊かになるように仕える生き物」という対立関係は存在しない。この対立関係が、日本人には理解しづらい根拠の一つである。
そこでハイデッガーは、非常に難解かつ複雑な言い回しで、宗教の世界と哲学の世界を分離することで、「現実とはなんだ」を解き明かそうとした。そのうえでハイデッガーは、人間を、時間経過とともに「最高によいもの」に向かって成長するのではなく、「死に向かって歩む生き物」としてとらえている。読んでいてつらくなる論旨だが、これまた日本人になじみの深い、人間とは生まれた瞬間から老いと病、死という宿命を背負って生きているという、お釈迦様が唱えた考えとほぼ同じだ。ヴィトゲンシュタインは、西洋哲学が自分らの時代でようやく東洋哲学に近づいた、と語っていたらしいが、ハイデッガーも同じように、思索を突き詰めていくことで東洋哲学の方に来てしまい、同じような感覚にとらわれたことに違いあるまい。

貴重な有休消化期間中にこのような書物に手を出し、無謀にも西洋にそびえる巨大思想山脈に取り組んでみたわけだが、目前で手にできる実利の少ない行為だと承知しながらも、あえてこうした読書をやってみた。現象学とはなかなかわかりづらい哲学だが、AI時代のいま、「現実とはなんだ」、ひいては「自分とはなんだ」を考え抜くための、最高のテキストだった。

読後の第一印象は以上の通り。
自分の人生の後半へと向かう貴重な時間だからこそ、あえて、こうした難物に取り組み、自問自答のトレーニングをしてみた。いまの心のあり方が、3年後、5年後に、大きく効いてくるに違いない。

三津田治夫