
『開かれた社会とその敵』(カール・ポパー 著、小河原誠 訳、岩波文庫、全4冊)とはなんとも挑発的な書名である。さらに副題には「第1巻 プラトンの呪縛」「第2巻 にせ予言者――ヘーゲル、マルクスそして追随者」とあり、いささか扇動的ある。一瞬色物ではないかという疑念も起こりかねない。しかし、内容を読めば納得する。正真正銘の名著である。
目下の日本のような、民主主義の本質が個人に問われているときには、主権者たる市民が読むべき本だ。私は本作と出会うことで、いろいろな意味で大きな励みになった。
まず、著者のカール・ポパーについて。彼はユダヤ系のオーストリア人で、ヒトラーが政権を取ってからひどい思いをしている知識人の一人である。
ヒトラー政権4年後の1937年から筆を進め、翌年の1938年には祖国がナチスに併合される。著作が日の目を見たのは第二次世界大戦終戦直後の1945年11月だった。
発刊後も、東西冷戦、東欧革命、ベルリンの壁崩壊を経て、亡くなる2年前の1992年まで加筆変更が繰り返された。本作は実に55年という長きにわたった知力と執念のたまものである。
独裁の発明者を厳しく非難
書名にある「開かれた社会」は端的にいうと、呪術や権威が社会を支配する古代の「閉じた社会」の対極に位置する社会である。
開かれた社会では権力が万人に分散され、呪術や権威の妥当性は自由に議論され、独裁者が存在できない社会のことを指す。
「その敵」とは、閉じた社会を率先してつくり上げた人たちを指す。具体的には、プラトンを諸悪の根源として指摘。その後継者としてアリストテレスとヘーゲルの二者を取り上げ、彼らを閉じた社会をつくり上げた犯人として分析・批判している。
なぜプラトンが悪者なのか。それは、彼のイデア論にある。
物事にはイデアという純粋で完全な状態があり、時間と共に腐敗の方向に劣化する。そのためいまある状態は不完全であり、国家もまた同様である。
プラトンによると変化は悪なのだから、国家をつかさどる支配者が変化を停止させる必要がある。そして政治的なイデアを保持した人物は(プラトンのような)哲学者であり、哲学者が特権をもって国家を支配することがベストであるという理論を述べる。
アリストテレスは形而上学で物事を分類し世界に上下関係を与えた張本人で、さらに時代が進んでヘーゲルは「歴史の法則として人類は最高に良い頂点へと向かっている」とし、戦争をもよしとする彼の楽観主義が独裁者(ポパーはつねにヒトラーとスターリンらをイメージ)を生み出していると、徹底批判する。
ヒストリシズムへの批判 ~歴史に法則などない~
次にポパーが矛先を向けているのはマルクスである。ヘーゲルによる「歴史の法則」という「ヒストリシズム」の後継者としてマルクスを徹底批判している。
ヒストリシズムとは、歴史には法則やあるべき姿があり、それに則って未来が訪れるという理論を指す。
過去がこうだったから未来はこうだ、こういう仕組みがあるから未来はこうなる、といった、未来を予測するための(科学的)理論である。
「いままで株価が上がったから明日も上がる」「こんな風に世の中の仕組みが変わったから明日はこうなる」という考え方は、ヒストリシズムの一種である。
社会のしくみや物体が人間に与える働きによって歴史が作られていくと捉えたマルクスは、ヒストリシズムの理論家としてポパーに取り上げられている。
しかしポパーは、マルクスが『資本論』で報告したような、子供や女性の過酷な労働環境からの解放といった、同作の基底に流れるヒューマニズムには強い共感を示している。
ポパーには「敵」が沢山いるが、ソクラテスとカントは別格である。
たとえばソクラテスは、「人間は本来無知であり、自分が無知であることを認知することから知恵がはじまる」「無知を知るためには対話が基本」という彼の対話論(弁証法)と、現実を精査するクリティカルシンキングに重きを置いている。
カントに関しては、人間には万人共通の「理性」という判断基準があり、理性を持ってすれば世界が平和になるという理論を持つ。
ポパーは彼らが唱える人間中心主義を支持する。
しかしながらカントは長期の思索の後に短期間で著作したことで読みづらい著作になったのだとポパーは嘆いている。
民主主義への向き合い方を訴える作者の熱意
本作は民主主義の教科書である。また、プラトンやヘーゲル、カント、マルクスといった、いまの社会を作り上げた思想家たちの入門書としてもわかりやすくまとまっている。
彼らの思想を表す単語である「最高善」や「純粋理性」「唯物史観」などの専門用語(ジャーゴン)は意図的に排除されている。これもまた、ジャーゴン大好きなヘーゲルを暗に批判しているポパーの姿勢である。
さらに、本文では読者の理解を促す「たとえば」が多様されている。
広大で入り組んだ内容をていねいに言い含めようとする熱意が、その文体から伝わってくる。
ポパーは本心から、作品を一人でも多くの読者に届けることで、個人の権利を守る民主主義の尊さを一人でも多くの市民に理解してもらい、世界を決して独裁者に渡さないという、強い危機感が表れている。
歴史から抜け落ちた「人間」という盲点
本作で取り上げられているプラトンやヘーゲル、マルクスは、現在でも歴史的思想家として確固たる地位を築いていることには理由がある。
彼らが生きた時代のニーズにマッチし、その時代に受け入れられ大きな社会的インパクトを与えたという側面がある。
たとえば、プラトンが生きた古代ギリシャはアテネとスパルタが戦争を続けており、変化とは破壊を意味していた。そこに登場したのはプラトンのイデア論だった。プラトンはソクラテスという偉大な師匠の言葉で社会に語らせることで、世の中をよくするためのアイデアを説いてきたのだ。
ヘーゲルもその点で似ている。戦争には意味があり、戦争に勝利することで人類は鍛えられ、さらに高み(良い方向)に向かって進化するという。戦争が正当化されないと困る時代に出現した思想家で、いわば痛みを伴う改革を口にしだした第一人者である。
マルクスは、資本主義の仕組みを解明し、百姓一揆の構造から階級闘争のメカニズムを導き出し、双方をドッキングさせ、資本家の搾取で人類を没落させる資本主義を階級闘争(革命)で破壊し、未来の仕組みである共産主義へと進化させましょうというソリューションを社会に提供した。
いま見るといずれもリアリティに欠けるが、当時としては斬新かつ画期的なソリューションだった。
それをふまえつつ、ポパーは世界を変革したソリューションの数々から、その盲点を突いてきたのである。
盲点とはすなわち、プラトンもヘーゲルもマルクスも、説かれたものは、いずれも最終目的が「国家の保持」となり、そこから「人間」がすっぽり抜け落ちてしまった点である。
人間は国家保持の手段ではない。人間が保持されるために国家がある。そうした認識の転倒を、ポパーはさまざまな側面から読者に解き明かし語り掛ける。
独裁者を引きずり下ろすことができる民主主義
ポパーは「歴史には意味がない」という。
同様に、歴史を作り出した権威にも意味がない。
歴史とは勝者の指揮監督下でライターに書かせた、支配の物語でしかない。
となると、意味はどこにあるのだろうか。
意味は、人間の中にある。
意味を掴むためにできることは、対話である。
対話とはつまり理性である。
理性を通した言葉のつながりが個人と世界をより良い方向性に進化させる。
個人と世界をより良くする根拠に戦争は決してない。戦争が生むのは分断と退歩であることは、いまのメディア社会では周知の事実である。
ポパーが言う民主主義とは、独裁者を選ばない民主主義とは少し異なる。正確に言うと、独裁者を引きずり下ろすことができる民主主義である。
独裁者とは、個人から生存の自由を奪い、国家保持に個人を用いる政治手段を独断で行使する人物だ。そうした人物にお引き取り願う権力を市民が持つ。それが民主主義である。
本作『開かれた社会とその敵』が読者に伝えたいことは、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』から、以下の言葉に集約される。
「人間は物件ではなく、したがって単に手段としてのみ用いられるものではなく、あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない。」
すなわち、人を手段として利用したいのなら、同時に目的としなくてはいけないのである。
日本人はいま個人と民主主義に向き合うこと
いまの世の中、上記プラトンやヘーゲル、マルクスといった思想家の言葉による、「大きな物語」が存在しない。それどころか、宗教という人類にまたがる大きな物語も崩壊しつつつある。
西洋のクリスチャンは聖書の物語をよりどころとし、日本人はお釈迦様の物語をよりどころとし、イスラムの人たちはコーランの物語をよりどころとして生きてきた。しかしいまでは、キリスト教教会からの脱退者は世界的に増えており、日本にいたってはお寺に属して仏典を読み唱える信心深い仏教徒は聖職者を除いてほぼいない。イスラム圏でもおそらく類似の現象だろう。
リオタールの「大きな物語の崩壊」という言葉が流布しはじめた1980年代、日本では新興宗教ブームだった。その一派が大規模犯罪組織となり国家的なテロ事件を起こした事件は社会的に大きな傷を与えた。以来、宗教に対するタブーの空気が日本中に流れ、ネット社会の到来とともに、大きな物語の崩壊に拍車がかかる。
では、大きな物語のないいま、私たちが今日より明日「より良くなる」ために必要なものは、なんなのだろうか?
大きな物語のないいま、私たちは仲間内で共通の盛り上がりや「推し」を見つけたり、個人的に「マイブーム」があったり、それらを深め、楽しむことが一つの幸福であるとされている。
このような幸福を発見した人は、その幸福が明日にも続くことを、もしくはより幸福であることを望む。
この時代の日本を、ポパーが見ていたら、一体どのように評するだろうか?
大きな物語のないいまの日本人にとって、むしろ、変化の伸びしろの時代である。私はそう考えている。
しかし「但し」の留保はつく。
大きな物語とは見方を変えると、考えないこと、思考停止を促すシステムである。
つまり、推しやマイブームは、徹底して突き詰めることなしに「明日にも続く」は困難なのである。
推しやマイブームを突き詰めると、必ず個人の思考や生き方の問題に立ち返るからだ。
国民宗教もなく、従来のマスメディアも崩壊した日本において、建国以来ようやく、国民が個人の問題に立ち返り、突き詰めて考えることができる時期が、ようやく到来したのだ。
言い換えると、個人が個人として生きるための仕組み、民主主義を突き詰めて考える時期が来たと。
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独裁者とは言ってみたら、個人の推し活やマイブームを、国家レベルで排除する存在である。それをあなたは許すのか。では、あなたにとっての独裁者とは誰なのだろうか? そんな疑問を少しでも持った方は、ぜひポパーの本作を読んでいただきたい。
文庫で4冊という大著だが、その半分がポパーが書き貯めてきた注釈である。ていねいに読めば、注釈なしに本文だけでも理解できるよう配慮され書かれている。
個人による意思決定が日増しに迫られている日本で、思考停止は生存の危機をも意味する。そんないま、一人でも多くの人に『開かれた社会とその敵』を読んでいただきたい。そして、個人の思考を開いていただきたい。