
カフカほど、時代ごとにいろいろな読み方がなされ、世界中の読者を魅了してやまない作家は存在しないのではないだろうか。
なぜそのようになったのか?
それは、膨大な数の「カフカ論」にある。
世界中の作家や学者、評論家たちが、ありとあらゆるカフカ論を書いている。
それゆえカフカの作品には、哲学的で難解である、わかりづらい、作品の魅力が見えない、などの評価が付きまとっている。
カフカの思い出 ~システム開発者1年生~
本が好きな人なら、文庫で手軽に読める『変身』は一度は読んだことがあるだろう。
私も学生時代に何度か手を出した。そして上記の、「作品の魅力が見えない」という率直な印象を受けた。会社員の若者が甲虫に変身してなにが面白いのか。救いも教訓もどこにもないではないか。そんな理解だった。
新卒でプログラマーとして就職したその年だった。
カフカに再挑戦しようと、古本屋で買った集英社文学全集から『城』(原田義人訳)を読んだ。作品に没入し、土日で一気に読み上げた。
当時のIBM大型汎用機は情報がクローズで謎めいており、システム開発に関与する組織や人間関係は重層的で見えず、バグ探しにシステムをたどると謎のソフトウェアに突き当たって新たなバグ究明が迫られる、など。
こんな、携わっている業務の世界と『城』の世界が妙にリンクし、「カフカって、いまやっている仕事を言語表現してくれているじゃないか」と、深く共感した思い出がある。
翌年の1992年、池袋で開催された東京国際ブックフェアに足を運んだときのことだった。
古書がほぼ手に入らなかった新潮社版『カフカ全集』が、フェアを記念して復刊されたのだ。
郵便局に走り3万円を下ろし、すかさず買った。夕方からは新宿のホフブロイハウスでバンド仲間との飲み会だったので、全集の段ボール箱を足下にビールを飲み騒いでいたことをよく思い出す。
全集に収録された『手紙』や『日記』でカフカの全貌を発見し、作家の面白さの核心をつかんだ気でいたのである。
この数年間におよぶカフカ体験は貴重だった。
そこから第二のカフカ体験が訪れたのは21年後、2013年のことだった。
長野の高校演劇部の顧問から、私が書いたカフカの『父への手紙』を論じたブログをもとに『K』と題する戯曲を書きたいという、許諾依頼のメールが届いた。
その後彼らの舞台は地区選考を通過し、長崎での最終選考では文科大臣賞を受賞。東京の国立劇場で晴れ舞台に立つことになった。
このことがきっかけで、選考委員を務めた劇作家の平田オリザ氏や、カフカ研究家で文芸紹介者の頭木弘樹氏との面識を持つという機会もあった。
演劇部の高校生たちや作品との出会いと共に、この時期には新しい世界との出会いがたて続けに起こった。そんな豊かさを私に提供してくれたのは、ほかならぬカフカであった。
多様性に富んだ会場からの意見
前置きが長くなったが、それだけ、自分にとって、カフカという作家と作品が人生の中に織り込まれている。
いまでもカフカを読み返すが、なにが面白いのか、なにがそうさせるのか、読むたびに印象が変わる。
本読書会では長らく、カフカを取り上げることは(なぜだか)避けられてきたが、52回目にして「そろそろ」という感じで、ようやく『審判』(訴訟)が取り上げられることになった。
本作のストーリーは次の通り。
主人公のヨーゼフ・Kが突如逮捕され、釈放のために弁護士や協力者探しに奔走するが、なぜか石切り場に連行されて無残にも処刑されてしまうという物語。
逮捕の理由はよくわからないし、理由も定めず主人公は釈放を暗中模索するしで、カフカの作品が不条理と言われる理由のすべてがここにある。
オーソン・ウェルズの『審判』は映画作品として大変興味深く作品の理解に参考となり、読みやすい新訳も選択できることから、同作が本読書会のテーマとして選ばれることになった。
ちなみに私は今回、『訴訟』(川島隆訳、集英社文庫ポケットマスターピース01)を選んだ。
参加者は主幹のKN、HN、KM、HH、KS、KAそして私の合計7名。
以下、会場からの意見を紹介する。
「響く所があり、再読して面白かった」
「新訳の方が断然よみ易い!」
という愛読者からの意見から、
「作品中で裁判を引き延ばすところは、カフカの“引き伸ばし人生”を投影している」
のように作家の生き方と作品の対比を語った意見、
「とりとめもない作品」
「難しくてよく分らん。その点で不条理」
「結論・テーマ、なにがいいたいのかよくわからんよくわからん作品」
「全体、ツギハギっぽいよね」
「しかしプロットすごいじゃない!」
「昔『城』は読んでみたが、退屈でムリでした」
と、相変わらずの正直なご意見までがあがった。
また、
「どうしてカフカは読者を魅了するのか?」
時代と共に移り変わるカフカの魅力を言及する疑問についても意見が出てきた。
これに関して、
「社会的な体験の抽象化がよくできているところに読者の共感があるのではないか」
というカフカの作品全体にわたる見解から、次のような言葉が出てきた。
「高い社会的プレッシャーの中でカフカが作品を書いたという状況を通して、現代人の共感が得られる結果になったのではないか」
社会が生み出したストレス構造の作品化をカフカが成し遂げたのだという興味深い分析もあった。
『審判』は難解で暗いと言われる一方で、読者を意識した側面について、
「画家ティトレリとのコミカルなやり取りや大聖堂の描写といった、見せ所、読ませどころが多い」
と、彼のサービス精神からのエンタメ要素の高さが指摘された。
「暗い」の側面からは、
「これは悪夢なのか?」
「ラーゲリや反共産主義をイメージさせる」
という長らく論じられてきたカフカ論や、
という素朴な疑問も出てきた。
調べたところそういった記録はなく、ナチス時代にほぼ無名で社会的な影響力のなかったカフカだったから、焚書される理由すらなかった、ということが理解できる。
「『審判』の作中に挿話されている『掟の門』で、最も自由を束縛されているのは門番自身だ」
とは、主人公が永遠に門に通してもらえない短編『掟の門』に対する見解と意見である。

「先日カフェで女子が『審判』を読んでいるのを目撃した」
という日常からの報告があり、「カフェ」「女子」というキーワードから、作品が対象読者を受け入れる懐の広さ再確認した。
カフカの作品で登場するやたらとモテる男や、モテ男と美女との無機質なあいびきといった性表現がたびたび出てくるのも、カフカ作品の特長である。
それに関し、
「カフカにとっての女は性の対象でしかない」
という、カフカの謎を解く助けとなる重要な発言や、男の露骨でエロティックな願望や妄想が作品に表れている点で
「これって、にっかつロマンポルノじゃないか」
といった、昭和の男たちが多い今回の読書会メンバーの発言が印象的であった。
カフカは、かつては聖人的に論じられており、上記のような見解は「けしからん」ものであった。しかしながらカフカも男であり人間である。
より作品の実体に迫ろうという近年のカフカ論のスタンスからすると、生々しい男としてのカフカ像のほうが自然である。
今回はたまたま女性参加者がいなかったが、機会があったら、ぜひ女性からの意見はお聞きしたい。
カフカの人間性を論じた発言として、次のようなものがあがった。
「父は立身出世の西欧的ユダヤ人。そうした性質の父との対立構造がカフカの人間性の本質にあった」
この点は、上記「男としてのカフカ像」に重なる。
父ヘルマン・カフカと息子フランツとの関係は一言でいうと「愛憎」である。
「カフカにとって結婚とは“審判”であり、家庭を持つことは“不条理”」
結婚とはつまり家庭を持つことである。
彼にとって女性は恋愛の対象にすぎず、生殖し子供を生み出し家庭を営み子孫をつなぐためのパートナーとしての女性はありえないのだ。
「『審判』はイメージ上の裁判である」
裁判とはカフカにとっての「曝され」「つるし上げ」の場である。
そして裁判に負けることで、
結婚
=家庭を作ること
=父親になること
=ヘルマンのような家長になること
にいたる。
そしてカフカにとって、
「結婚とは死」
なのである。
「『審判』ラストの処刑は、自殺の象徴では?」
という発言もあった。
「これにより勝利者にならないというカフカの欲求が満たされたのではないだろうか?」
結婚し家庭を築き、家長になることは、父親のような、都市の熾烈な競争に勝ち抜き、ビジネスで成功した「勝利者」になることである。
そうなることを父親からも強要され、それに対しカフカは抵抗をし続けてきた。
抵抗の最後の砦は、作品の執筆の中にだけ存在していた。
作品の中でカフカは、あるときは死者になったり、あるときは小動物になったり、あるときは行き先の見えないさまよえる旅人になったりと、「変身」を繰り返す。
そうした変身願望を満たすための行為が、カフカにおける勤務外の執筆活動だったのだ。
表面上は「イイ奴」を装う男 ~私とカフカ~
作品を語り合ったラストは、「私とカフカ」をテーマに発言することで本会を締めることにした。
「カフカには自身と共通点あり」とし、「表面上はイイ奴を装っているが、心の中が真っ黒な男がカフカ」という、自身とカフカとの共通点を語ってくれた参加者がいた。
人間誰もが持っている陰と陽の両側面をカフカは明瞭に読者に示してくれている。多くの読者の共感を得ているゆえんである。
「ハントケはカフカ大好き。現にフランツ・カフカ賞を受賞している」
参加者でペーター・ハントケ担当編集者からのリアリティの高い発言が印象に残る。
「なんだかんだいってマックス・ブロートは編集者としてすごい人物だ」
と、参加者の大半が編集者である本会の共通見解もあがり、
「これからも読みたいという、読ませる力がカフカにはある」
「同時に、語らせる力もカフカにはある」
やはりカフカはすごいよね、というところで意見はまとまろうとしていた。
最後に、
「半官半民の職場でサラリーマンとして働くカフカにとっての官僚制の表現が『審判』や『城』だったのでは」
「その意味でカフカは社会状況を抽象化して言語化する天才だった」
という意見は、私がシステム開発者時代、カフカに初めてつながったときの精神的な体験を一言で言い表してくれた。
カフカが生きた19世紀末から20世紀初頭、機械やシステムが高度に社会化しつつあった。その時代だからこそ書けたのが、カフカの作品だった。
カフカという天才サラリーマンが自分や友人といった小さなコミュニティのために書いた原稿が、一人の社会的な影響力があるマックス・ブロートという天才編集者と出会い、彼の労力で原稿が本となり、世界的、歴史的なベストセラーとなったのだ。
より正確に言えば、作家の意に反してベストセラーに「なってしまった」のだが。
機械やシステムが高度に社会化した現時点での最先端は、生成AIである。
天才サラリーマンのカフカが描く世界観は、いまという生成AIの社会にも、とてもよく重なる。しかも、カフカが描いたような制度や官僚制といったレベルではなく、さらに重層化・複雑化し、日々「説明不能」になってきている世界だ。
いまカフカが生きて、サラリーマンとして新作を執筆するとしても、恐らく、かつてと同じような作品を書くだろう。
「説明不能社会」という、当時の前代未聞を敏感に察知し、丹念に言語化して作品として描いた第一人者。それはカフカだったのだ。
【後編】につづく。