
先日、とある教育関係のエッセイを読む機会があった。
その中で、学費上昇の問題が興味深く取り上げられていた。
ここ60年近くの大学の授業料の推移統計によると、国立大学の年間学費は1万2000円(1965年)から53万5800円(2016年)に増加し、この間、実に44倍にも大学の学費が上昇している。
1965年の大卒初任給の平均額が2万4000円で、2016年のそれが20万3400円(8.4倍上昇)と比較すると、学費上昇のすさまじさを示していることがわかる。
こうした学費上昇に対する著者の見解が目を引いた。
大学の学費を上げたきっかけにはインフレなど様々な理由があるだろうが、結果として学生運動の抑え込みに貢献し、ひいては組織トップによる部下の管理コストの軽減にも大きく寄与してきた、という。
それにしても、給与も物価もあがらないこの時代に、44倍の学費増額は異常である。
学費を上げれば自力で学費を稼ぐ苦学生の存在が不可能になる。
これにより保護者を出資者とした学費依存体質ができ上り、子供は出資者の意向に従った構造の中で大学選択、進路選択を行うことになる。
では、学費の出資者である保護者は、出資先である子どもたちになにを要求するのだろうか?
保護者は子どもたちに、上場大企業など、安定人気企業への就職率が高い大学への進学を要求する。
それが子供の未来にとってプラスであると、保護者が判断するからだ。
保護者自身が安定人気企業に就職することで、幸福な人生を歩むことができた実績があったからだろうか。
それとも、保護者自身が不安定不人気企業で不本意な人生を歩まざるを得なかったからだろうか。
もしくは老後の自分たちを養ってもらいたいからだろうか。その真意は、定かではない。
個人的に、この判断は、子どもたちの未来に対し、非常に考えづらい。
私はすでに社会に出た2人の子供に対し、進学と職業選択に関しては、自分のやりたいことを見つけ、やりたいことをやろう、としか言ってこなかった。
進学先を指定したことはなかったし、安定人気企業への就職など一度も勧めたことはなかった。
子どもたちは、戻ることのできない一度だけの人生を十分に生きることに専念できる人間にさえなってもらえたらよかった。
子どもを持つ保護者たちの、安定人気企業に就職すれば幸福になれるという昭和幻想はいまだに多いと聞く。
その証として、大学生の人気企業トップテンや人気進学先の名称に、保護者による出資者バイアスが色濃く反映している。
若者に返済義務を持たせた学資ローンの現実
大学の授業料の高額化で、発生した課題がもう一つある。
これは、奨学金という名の学資ローンだ。
両親という出資者バイアスを受けない(受けられない)手立てとして有効である。
とはいえ、学生らに利息と返済義務という負荷をかけ、金融業者が収益を得ているという側面があることも事実だ。
あるとき、コミュニティ活動の中で、学歴が高く、非常に聡明な20代の若者と知り合う機会があった。彼の口癖は、お金がない、だった。
一流上場企業に勤務している彼に、まず、お金がないことはないだろう、と思っていた。
彼との談話の中で知ったのは、大学時代に学費を借財し、その負債が700万円あり、返済のために給与の多くを補填しているというのだ。
新卒が700万円の負債。
この話には正直驚いた。
若者の未来が商品化されているのではないか。
ひいては「知」までも商品化されているのではないか。
とても心が暗くなった。
彼はギャンブルにのめりこんだわけでもなく、遊びのための高額消費など、個人の欲求を満たすために借財したわけではない。
大学進学という、知を得るための、ひいては納税(国家の財政拡大)につながるコストを、税金からの還元もないまま、個人で借財したのである。
新卒が入社早々、少ない給与から学費の返済に充てるとは、彼個人の自己責任の問題なのだろうか。
そしてそれは、世界の先進国と言われる社会の姿として、健全な姿なのだろうか。
冷静に考えれば、NOである。
彼の場合は、親の出資者バイアスはないものの、卒業後に返済義務が織り込まれているので、職業選択の基準として返済が就職の目下のゴールとなっていたはずだ。ゆえに、高給が見込まれる上場大企業に(不本意ながら)就職したことも考えられる。
意思決定のハンドルが出資者に握られれば、必然的に、若者は意思決定の自由意志を放棄せざるを得ない。
若者から自由意志が剥奪されることで、いわゆる社会のガバナンスが強化されたという形だ。
それでは、学生運動を辞めた若者たちがおとなしくなって、治安は一件落着したのだろうか。
この反動が、若者による政治家の暗殺や、街頭での大胆な窃盗、老人など弱者をターゲットにした詐欺、異常な児童性犯罪として表れているのではないだろうか。
知と自由は表裏一体である
保護者の出資欲の高さは、大学の就職率の高さと比例する。これが大学を職業訓練校化させている。大学が本来の役割を放棄し、職業訓練校に業態変換することは、むしろ社会から求められている。それが、いまの日本の姿だ。
極端に言えば、知は、企業の収益としての貨幣に変換されなければならない。
逆に、貨幣に変換されない知は、知ではないと判断される。
前者の知を、大学で、自力による支払いが不可能な高額な学費の対価として伝授します、という理屈である。
安定大企業至上主義の保護者という出資者を持つ若者たちは、そうした企業で得た貨幣こそが、知の成果であるという幻想を抱きながら人生を送ってきた。しかしその幻想が覚醒してきたのが、いま、という時代だ。
貨幣の源泉は、大学の卒業証明書ではない、心身の健康や人間性、家族、恋人、友人、仲間など、人間同士のつながりといった無形の資本をいかに構築し、保持し、運用し、継続し、継承するかという知が、貨幣の根源、源泉である。
そうした資本さえあれば、大学になど行く必要はない。
図書館やネットなど、無料で知を積むことができる手段はいくらでもある。
知をはぐくむ無料のコミュニティもたくさんある。
知の基本は、個人の自由の中にある。
自由とは、自分自身が意志決定権を握る、ということである。
そして知とは、内面から湧き出た心からの満足を認知する力、である。
比較の中にそれはない。
向上心のない人間はレベルが低く、比較において劣位に置かれた人間は負け犬だ、という比較論が存在する。しかしこれは、見方を変えれば、人間どうしの比較において利得を手にする特定の人が存在する、ともいえる。具体的にどんな人がどんな利得を得るのかは、考えてみると学びになるだろう。
知とは、自分でやりたいことを発見する力、自分でなりたい自分になる力、である。
小さくても、やりたいことさえあればいい。
たとえ大きなことでも、他人から言いつけられたことを反復するのは、単なるオペレーションに過ぎない。
知の追求とは一体なにか?
小さなことでも、内発的なものを発見し、実現しようとする力。
それが、知の力である。
そして、実現するまで諦めない。
他人との比較において結果を評価しない。
自分の知に正直に耳を傾け、行動する。
これにより一人でも、他人を笑顔にすることができたか。
それが、結果を評価する基準である。
「大きな夢を持て!」と他人から言いつけられてまで、夢を持つ必要はない。
それは、夢ではないからだ。
たとえ小さなものであっても、自分の中から生まれ出るものに従い、行動し、他人にポジティブな影響を与えること。
その源泉が、知だ。
人生で起こした行動の中に、納得と手ごたえを、その都度手にする力が、知である。
それが実現できないから、人生が不満なのだ。
引き換えに、なにかを欲しがるから、人生が不満なのだ。
それが実現できる環境を自ら作り、自ら選ぶ。
知のために所有するものはなにもない。
自分の肉体だけあればよい。
知とは、心の状態を動かす力だ。
平和な心、豊かな心、幸福な心を持つ力である。
幸福は、必ず、宗教の追求するものとなる。
それだけ耽美なものが、幸福である。
個人と自由の追求が、知を追求することである。
知を追求するとはなにか?
気持ちのよい明日を追求すること。
自分の本心から、全力でそれを追及すること。
それが、知の追求である。