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時代を操る毒にも薬にもなる「神話」という魔術:『現代議会主義の精神史的状況』(カール・シュミット著)

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某月某日、読書会初の試みとして、政治学を取り上げた。
カール・シュミットといえば名著『陸と海と』があり、このイメージから、本文が100ページほどでAmazonにも在庫があったので、『現代議会主義の精神史的状況』が取りあげられることになった。
読書会での論調は、作品に深くはまってカール・シュミットの著作集にまで手を出したというポジティブな意見から、この本の意味も価値もまったく理解できない悪書だという意見まで、見事に真っ二つに分かれた。
本読書会21回目にして、まとまりのつかない、かつ紛糾直前、予定調和を抜きにしたダイナミックな展開になった。

波乱に満ちたカール・シュミットの半生が投影された危険な作品
1923年に発表された『現代議会主義の精神史的状況』は、矛盾をはらむ行間に真実が織り込まれた、ある意味危険な作品である。
まず、作者の経歴から見てみよう。

カール・シュミット1888年生まれのドイツ人。
1919年からのワイマール共和国時代に議会制民主主義と自由主義を批判し、1933年にナチスが政権を握りワイマール共和国が崩壊すると、同時にナチスの御用学者になる。1936年にはナチスを批判したとして追放。第二次世界大戦後はソ連軍に逮捕され尋問のうえ釈放。その後アメリカ軍の手に渡りニュールンベルク裁判で不起訴、釈放。戦後はプレッテンベルクという小さな町で1985年に96歳で亡くなるまで政治学者、法学者としてひっそりと活動を続けた。

◎ドイツ・ワイマール共和国の版図(色がついている部分、Wikipediaより)f:id:tech-dialoge:20180619193337j:plain

◎ドイツ・ワイマール共和国の構成(Wikipediaより)

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『現代議会主義の精神史的状況』を読んでみると、ヘーゲル批判、マルクス主義共産主義批判、民主主義・自由主義批判という、3つの批判の柱があることがわかる。

ヘーゲルに関して、こう言う。
ヘーゲルの哲学は、善と悪の絶対的区別を基礎づけることができるようないかなる倫理をももたない。それにとって善とは、弁証法的過程のそのときどきの段階において理性的なるものであり、それゆえに、現実的なるものである。善とは、正しい弁証法的な認識と意識性の意味において「時宜にかなっていること」である。」
ヘーゲルに従えば善と悪を区別する判断軸はどこにもなく、タイムリーなトピックでさえあれば現実的で理性的で正しい、ということになる。そうした曖昧さから独裁が芽生えるとしている。

「世界史がたえず進展してゆくべきものだとすれば、事物に反するものを力によって除去することが永遠に必要であり、それゆえに独裁は永久的となろう。ここでもまた、ヘーゲル哲学によればあらゆる出来事に存する一般的な二面性が、とりわけヘーゲル哲学そのものにひそんでいることが示されている。すなわち、その発展段階は、独裁を廃棄しうると同時に、その永久性をも説明しうるのである。」
「世界史の進展」を妨げる非現実的なものは除去されるべきものであるから、その現実性の保持のためにも、「理性的な独裁」が容認されるのである。

自由平等博愛のもとで革命が起こり、その後に現れたのは民主主義でも自由主義でもなく、独裁と恐怖政治だったフランスを例にあげ、こう言う。
「ルソーがはっきりと続けて言っているように、一般意思は真の自由と合致するものであるから、敗れた者は自由でなかったことになる。このジャコバン的理論でもって、周知のように、多数者に対する少数者の支配をも正当化することができる。」
「真の自由と合致する」合理的な独裁が成立することを歴史が証明していると筆者は述べる。

啓蒙主義を「公開性の光は啓蒙の光であり、迷信や狂信や権謀術数からの解放である。啓蒙専制主義の体制においてはすべて、公開の意見〔公論〕が、絶対的な矯正手段の役割を演ずる。啓蒙主義がひろがればひろがるほど、専制者の権力は大きくなることができる。」と、公開性と民主主義はイコールでなく、むしろこれらは独裁者の権力を拡大させる装置となることを指摘。そして独裁により「自由の強制、公開性の強制」が生じ、独裁が独裁自身をさらに強化させるという。ちなみに公開性を共同体の動力源として重視するユルゲン・ハーバーマスカール・シュミットの大の論敵である。

共産主義への時代的嫌悪感から生まれた独特な論調
「哲学とサーベルとの同盟」によるフランス革命はナポレオンの没落で清算され、合理主義的独裁の可能性が出現し、「その担い手は急進的なマルクス主義社会主義」であると結論づける。

そのうえでマルクス主義共産主義を「通俗的マルクス主義は、その思考の自然科学的な精密性、唯物史観の法則に従ってある事物がやってくる「鉄の必然性」について、好んで書いている。」とし、「法則」や「鉄の必然性」という、あたかも科学的・客観的に見える物語をマルクスは弄しているという。そうした姿勢で「マルクスは、ブルジョワを貴族的および文学的な怨みの感情の領域から、ひとつの世界史的な存在へとひき上げた。」と、ブルジョワ没落の物語を文学から社会学の次元に持ち上げることで共産主義という「神話」を作り上げたとしている。

そして「ブルジョワジーとプロレタリアの間で燃えあがる闘争の当事者たちは、現実の【具体的な】闘争にとって必要な具体的な像を手に入れなければならなかった。具体的な生の哲学が、そのために精神的な武器を提供した。」とあるように、神話は、革命を実行するための精神的エネルギーとなる。そして「弁証法的な必然」によって革命は起こる。

スパルタクス団蜂起、銃撃戦の様子(1919年1月12日、Wikipediaより)f:id:tech-dialoge:20180619193509j:plain

1917年、共産主義革命はマルクスの故郷ドイツではなく、ロシアで起こることになる。それに続かんとばかり1919年にスパルタクス団による暴力蜂起がドイツで勃発するが、ワイマール共和国政府により鎮圧。多数の犠牲者を残してドイツ共産主義革命は失敗に終わる。こうした時代背景からも『現代議会主義の精神史的状況』が発表されたワイマール共和国体制ドイツの1923年は、まさに反共産主義の世相だった。

これらをふまえ、選択肢としての民主主義・自由主義を、次のように定義づけている。
「近代議会主義とよばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は決して民主主義の決定的な対立物ではなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない。」と、近代議会主義と民主主義もイコールではなく、議会を模した独裁は十分にありうるという。そのうえでこう結論づける。

「民主主義は、軍国主義的でも平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でもありうる。」

議会とは一つのフィクションであり、そのフィクションをもてあそぶ民主主義ほど危険な体制はないのである。

3つの批判を下支えする「神話」の魔術
ヘーゲル批判、マルクス主義共産主義批判、民主主義・自由主義批判の三拍子がそろい、国家を独裁するマルクス主義的な科学的発展と共産主義、そして民主主義を否定する、国民に選ばれた「平和政権」であるナチスが、ワイマール共和国を飲み込む思想的な下準備ができたのである。

これら3つの柱を下支えするものはなにか?
カール・シュミットが繰り返し口にする「神話」である。

「真の生の本能の深みから、偉大な熱狂、偉大な精神的決断および偉大な神話が生ずる。熱狂した大衆は、大衆のエネルギーを駆りたて、殉教への力や暴力行使の勇気を大衆に与えるところの神話像を、直接的な直観からつくり出す。」と、フランス革命ロシア革命という過去直近の革命を指してこう述べるのだが、皮肉にもこれと同様の原理がナチスでも実装されることになる。

このように革命や独裁を批判しながらも、「討論し妥協し交渉をする商議は、なによりも重要な神話とそれに伴う偉大な熱狂を、裏切ることである。」と、民主的な対話を否定し独裁を容認するような矛盾に満ちた発言もするところにカール・シュミットの危険性がある。

過去直近の革命を参照しながら「人間の生がもっている価値的なるものは、理屈からはでてこない。それは、偉大な神話像によって魂をふきこまれて闘争に参加する人間が闘争の状態に立ったときに生まれる。」と、「ロジカルでない神話」こそが革命の原動力であると説く論調はワイマール共和国の崩壊に結びつく。すなわち、ナチスへと。

そして同時代のファシストであるムッソリーニの演説を引用し、「「われわれはひとつの神話を創造した。神話は信仰であり、高貴な熱狂である。それは現実であることを必要としない。それは起動力であり、願望、信仰、勇気である。われわれの神話は民族、偉大な民族であり、われわれはそれを具体的な現実にしようと欲する」。この同じ演説でかれは、社会主義を、劣位の神話とよんでいる。」と、過去の革命で用いられた神話を超えた「優位の神話」こそがワイマール共和国のパラダイムを書き換えるのだと示唆する。

さらに「無政府主義著作家たちが権威と一体性とへの敵対性から神話の意義を発見したとき、かれらは、そうなることを欲せずにではあるが、新しい権威、秩序と規律と階序性への新しい感情の基礎づけに貢献したのであった。」と、ときのファシストを評価しながら、同時に無政府主義者アナーキスト)たちをも評価する。

高度な筆力で綿密な論考や扇動的な文体を駆使しながら、ヘーゲル批判、マルクス主義共産主義批判、民主主義・自由主義批判を繰り広げ、これら批判に対するソリューションは一切提示せず、批判ならぬ「否定」で本論考は終わりを告げる。

ある意味危険な作品と書いたが、付け加えれば、この作品が発表された時代背景を鑑みても、ある意味不気味な作品だともいえる。

*  *  *

カール・シュミットほどの明晰な頭脳と文体をもってすれば、もうなんでも言えてしまうであろう。ヘーゲル批判、マルクス主義共産主義批判、民主主義・自由主義批判までしたのだから、同様のコンテキストでナチスの批判も可能である。これをしてしまったことで彼は党の御用学者から引きずり下ろされることになる。ある意味リベラルな人とも言え、そうした観点からもニュールンベルク裁判で不起訴となったことは想像に難くない。

読書会のメンバーの間では賛否が真っ二つ、毀誉褒貶に満ちた作品であったが、私としては彼の3つの批判、ヘーゲル批判、マルクス主義共産主義批判、民主主義・自由主義批判に「こういう切り口があったのか」と、目からうろこが落ちた。のちの新左翼たちに支持されたという事実にも納得がいく気がした。また、『陸と海と』の印象が強く、たしかに筆の立つ男だと思いつつも、「こういう本も書くのだ」という発見と感心もあった。

そしてこの本を読書会で読んだ意義、いま読む意義は、混乱する日本の政治やアメリカのトランプ政権、朝鮮半島問題などの「いまという混迷の時代の中でどんな未来が出現するか」という洞察を得たところにある。つまり、過去直近の政治改革や経済破綻などから出た残念な結果を超える「未来」とは、どんな「理論」からも出てくることはない、ということである。「理論」に見えるもの聞こえるものほど、その多くは権力に耳心地のよい神話であり、作り事、後付けであると疑って間違いない、ということでもある。

最後に、メンバーの一人一人が個人の意見を発表した。20代の女性営業職メンバーが「『現代議会主義の精神史的状況』を読むことでいまの日本の政治のあり方を考えるきっかけになりました」と発言したのに対し、「就職面接の応答のような模範的意見ですね」とのコメントが大手システム会社の管理職メンバーから入った。就職面接で『現代議会主義の精神史的状況』の書名を出して採用に直結するプラス印象を面接官に与えることは、まずないだろう。本書はそれだけの奇書であるともいえる。

さて次回、第22回目はさらに趣を変え、ドイツから南に下って、ムッソリーニの故郷イタリアの文学へ行くことにする。お題はイタロ・カルヴィーノ著『見えない都市』。すでに読みはじめたメンバーも何人かおり、前半はボルヘス的な内容展開であるらしい。久しぶりの小説を、そして、本読書会で初となるイタリア文学でどんな議論になるのか。次回もお楽しみに。

三津田治夫