先日、作家の髙坂勝氏のWeb講演に参加してきた。
同氏は千葉県匝瑳(そうさ)市で有機農業や再生可能エネルギーの普及にライフワークとして取り組まれている方である。
延べ3時間におよぶスピーチと質疑応答は、まだまだ時間が足りないほどの、あっという間の白熱した内容だった。
髙坂勝氏といえば、2010年の処女作『減速して自由に生きる: ダウンシフターズ』がある。
作品を通し、GDP下り坂の日本で「右肩上がりはもうないから、減速して生きましょう」という生き方を提唱する。
すでに10年以上前から、『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 著)で述べられている理論を、生き方において身をもって証明されてきた人物の一人である。
髙坂勝氏のWeb講演のメインテーマは、地方分散社会の可能性と、食とエネルギーの問題だった。
地方分散社会に関してはコロナ禍で小説家の高嶋哲夫氏がいち早く声をあげられたことから議論が拡がり、食とエネルギーに関してはフードロスの問題や再生可能エネルギーの普及問題など、いずれも新型コロナウイルスの登場によってクローズアップの解像度が高まったトピックである。
食に関しては深刻である。
2月7日に放映された「NHKスペシャル「2030 未来への分岐点「飽食の悪夢〜水・食料クライシス〜」」では、明確な課題が突き付けられた。
2030年までにCO2排出や食品廃棄物の問題など、資本主義経済の過度な発展を抑制せずには、それ以降の世界中の深刻な食料難を回避することができないと警鐘を鳴らした。
すでにアフリカや中東は深刻な食糧難に見舞われている。
一方で、大手コンビニチェーンの食品大量廃棄に象徴されるような過度な飽食が、先進国では日常で起こっている。
いわば、アフリカや中東の犠牲のもとで先進国の食料が補われているという二重構造である。
ところがあるとき、先進国の食料も、アフリカや中東と同じように、一気に消滅していくという。
大気や大地といった自然本来が持っていたものを、経済や産業という人造のシステムが奪い去ることにより発生した構造的な課題が、人類を急襲した結果である。
今回のコロナ禍で、それがクローズアップされた格好である。
カール・マルクスの言葉を紐解くならば、「世界同時革命」が、待ったなしの状態になった。
私が生きているうちに「世界同時革命」が見られるとは、学生時代にはこれぽっちも思っていなかった。
マルクスという思想家・社会学者のファンタジーであるとも思っていた。
しかしこの現実が、150年を経てマルクスの予言として訪れた。
昭和世代の人たちは、「左」(マルクス主義者、共産主義者)だ「右」(反マルクス主義者、反共産主義者)だと、「○○主義」によって、人や集団の考えや感性、生き方を区別し、対立させる、ということをしていた。
先日、とある社会事業家の方から、こんなことを言われた。
「もう左、右の問題ではない。「前」に行くこと!」と。
人の都合で決定した「○○主義」に、もはや意味はない。
キーワードの問題ではない。
人類の行く末を左右する深刻な環境破壊と食料難の時代を、いかなる知恵をもって生き延びるかといった、「意味」の問題である。
欠落した「知」は、いかに発動できるのか?
なぜこんな世界になってしまったのだろうか。
その一つに、IT(情報技術)の高度化がある。
AIは学習量の増加と処理速度のアップで日々進化している。
これにより「最適化」が日々進化する。
たとえばAIは、私たちのWeb閲覧履歴を解析し、「より売れる広告」をさりげなく提示し、心理操作を実行し、私たちの行動を購買へと促す。
この「さりげなさ」も、AIが私たちのWeb閲覧履歴から解析し、最適化した結果から演出されている。
クリックを促すさりげない心理操作はなにを生み出すのだろうか?
とくに必要でないものまでを買ってしまという「ムダ」を生み出す。
同様のムダは、コンビニの高度なPOS管理により、「経済性」実現のために既存の食品を大量廃棄し、新しい食品を入荷・販売するという収益構造にまでつながっている。
廃棄した食品の生産には、大量の水の消費とCO2の排出が伴っていることはいうまでもない。
なぜこんな世界になってしまったのだろうか。
AIなど科学への過剰依存が人類をダメにしたとはよく耳にする。
しかしそうではない。
私が考えるのは、「知」の欠落である。
「AIにコントロールされている私」という事実への「知」、AIで経済性を最適化させるシステム開発を発注した人間の「知」の欠落である。
前者の「知」は、個人の意識として発動することができる。
後者の「知」は、経営者として、組織人として「生きていくために仕事として仕方なく、もしくは無意識にやってしまった」場合が多い。それはさまざまな構造の中に組み込まれており、そう簡単には「知」を発動しえない。
知足の感性を磨く
いまの時代の課題は、この「生きていくために仕事として仕方なく、もしくは無意識にやってしまった」が蓄積された結果が、積もり積もってできあがったものだ。
しかし、「生きていくために仕事で仕方なく、もしくは無意識にやってしまった」が通用しない時代がきた。
では、私たちはどんな「知」を持つべきか?
「知足」という言葉がある。
これは、
「足るを知る」
「分相応のところで満足する」
「それ以上のことは求めない」
という意味である。
この反意語は「欲求不満」である。
欲求不満が爆発した結果が、この社会である。
龍安寺に「吾唯足知」と彫られた手水鉢「知足の蹲踞(ちそくのつくばい)」がある。
「われ ただ たるを 知る」と読む。
これは徳川光圀(水戸黄門)が寄進したものだといわれている。
江戸幕府や自らを、欲求不満の奴隷にならないように戒めたものであろう。
人間の際限ない成長願望と欲求不満は表裏一体である。
これを制しようとした当時の権力者の、大きな知恵である。
過剰な購買と消費を私たちに促してきた社会。
この社会の未来に、「知足」は可能なのだろうか?
私はITの力で可能になると信じている。
2030年問題をはじき出したのは、膨大なデータからソフトウェアが解析した結果である(と、NHKスペシャルでは語られていた)。
ならば、人類の持続可能性のパラメータを埋め込んだAIを動かすことで、その実現のために「最適化」された行動指針がはじき出される。
その結果が2030年までにCO2排出半減という目標であるが、より細分化可能だ。
理論的には人間個人の行動レベルにまで落とし込むことができる。
そして、そこで出てきた結果を人間がどう受け入れるか。
これは、人間の「感性」にかかわっている。
「知足」という知を持つ。
そのうえで、科学や技術の発展に取り組む。
「知足」を知る感性を磨いてこそ、はじめて、ITに利用価値が出る。
そして「知足」を知る感性を磨いてこそ、人類に新しい未来が訪れる。