本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

隙のない二枚目男と、囲われ者の悲劇の美学(前編) ~『雁』(森鴎外 著)~

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鴎外の作品は明治文学として漱石と並んでよく取り上げられるが、その中でも『雁』は、鴎外の小説作品として広く読まれている。

明治文学というと鴎外、漱石、とすぐに名前が出るが、「じゃあ彼らの作品といえば」と問われると「『坊っちゃん』『吾輩は猫である』『三四郎』『こころ』『明暗』『草枕』......」と挙げられる。しかし鴎外の作品となると、この『雁』と『舞姫』、付け加えれば『ヰタ・セクスアリス』ぐらいしか名前が挙がってこない。

作家の名前が知られている割には、作品そのものが知られていない作家の代表例である。
ちなみにそれを海外の作家に置き換えれば、サルトルがそうかもしれない。彼の名前は知られているが、作品名をすぐに挙げられる人は少ない。

『雁』(がん)とは鳥の名前で、ブルーインパルスみたいに隊列をなして飛んでいるやつ。近頃あまり見なくなったが、昔は江戸川の土手で遊んでいると飛んでいるのを上空に目にしたものだ。

舞台は、上野不忍池のほとりのある「無縁坂」だ。
「私」が、明治13年に起こった出来事を回想しながら語っている。

主人公は岡田という、水もしたたる美男子。体育会系でスポーツ万能、
そのうえ頭脳明晰なインテリだ。
岡田が通学に利用する無縁坂に、お玉という美しい女が住んでいた。
通学中にちょっと顔が合って会釈するぐらいの、顔見知りだった。

以降、お玉の薄幸な来歴がラスト近くまで語られる。
彼女は秋葉原で飴屋を営む父親との二人暮らしで、持ち前の器量から、警らに来ていた巡査に見初められ結婚することになる。
と、そこまではいいのだが、実はその男には妻子がいることが発覚し、お玉はそれを知って自殺まで考える。

近所に顔向けもできず、父子は転居する。
引っ越し先まで追いかけてきた男がいた。高利貸しの末造だった。
彼も、お玉の美しさに惹かれて彼女を求めてやってきた。
末造にも妻子がいたが、彼はある人物を通じて、お玉に愛人契約を結ぶことを求める。
通常、こういうことになったら女は「やめてください」と言ったり無視を決め込むのだが、貧しい父親の姿を哀れむあまり、また、一度"傷物"になった自分のことも省み、末造の提案をすんなりと受け入れる。

考えてみたら、親の生活のために高利貸しの妾になるというのはなんとも切ない。それに、愛人を「斡旋する」人物がいるというのもすごい。
ここでは一人の老婆がその役割を演じる。おそらくこの時代は、花柳界などに、こういった役割を担う人物(老婆)がいたのかもしれない。

さらにまた、こうした愛人契約を決めたお玉の意思に、父親はなんら反論を与えない。末造と一緒に面談に行こうとまで言う。
末造はお玉に無縁坂の家をあてがい妾にし、さらに、お玉の父親にも池之端の家屋を与える。
お玉自身はこれにて生活の安定が確保されたが、"高利貸しの妾"というレッテルが貼られ、バツイチのうえにこの状態で、悔しい生活を送る。
自己の境遇を実感したお玉に、自立心が芽生えてくる。

いままでは末造に遠慮して控えていた父親との面会も、たびたびするようになる。
自分の将来にも悲観しはじめた。自分はどうなるのか。
「自分をいまの境遇から救ってくれる人はいないか」という淡い思いを抱く。

あるとき、末造に買ってもらった紅雀が、アオダイショウ(昔はよくいた、草むらに出現する大きめのヘビ)が鳥かごに首を突っ込み、襲われてしまう。
お玉や近隣の住民は慌てふためき救助を求めるが、そこに通りかかったのが美男子の岡田だった。
岡田は包丁でアオダイショウを一刀両断し、危機から紅雀を救い出す。
周囲から拍手喝采を浴び、岡田は一躍にしてその場の英雄となる。
そうした岡田の姿に、お玉はぞっこんに惚れ込む。
空けてもくれても岡田のことばかり考えている。

まるで人が変わったように情熱的になり、日増しに自分が美しくなっていくことをお玉は自覚する。
家の前を岡田が通ったチャンスに、告白してしまおう。
お玉は決意すると、ちょうど末造が宿泊して数日いなくなると言うから、これ幸いと、女中にも休みを与えて身支度をはじめる。

この日は下宿で「私」の大嫌いな鯖の味噌煮(ここがポイント)が料理に出てきたので、岡田を散歩に誘い出す。
いつものように無縁坂を通ると、お玉がうっとりとした目つきで岡田をずっと見つめている。
岡田はいつものように、目深にかぶった学生帽のつばに軽く手をやり、会釈してさっと通り過ぎた。

不忍池に着くと、石原という学友が「池にいる雁に石を投げてやる」というから、岡田が「かわいそうだから逃がしてやる」と石を投げるが、不運にもその石が雁に当たり、雁は死んでしまう。

その日「私」が初めて知ったのは、岡田は明日ドイツに発つということ。学業を中断し、現地での仕事に就くのだという。
岡田のコートに雁を隠し入れて(料理して食べるため)、下宿に戻ろうとする。
無縁坂では、お玉が遠巻きにこちらを見ている。「私」は女の視線に、「無限の名残惜しさ」を見る。そして振り返ったとき、お玉はもういなくなっていた。

最後に、これは35年前の話で、「私」が直接体験したことに、のちに知り合うことになったお玉の証言を加味して作り上げた話だ、ということで小説は終わる。

なんとも言えない陰影に満ちあふれた作品であった。そして勝手ながら、お玉はその後どうなったのかとも想像してしまった。
35年前の大学時代の話だから、「私」はもう現役を引退しているし(昔は定年退職は55歳だったから、明治もそのぐらいかもっと早かったかも)、お玉だって結構いい年だ。
こうしてあとになって、昔話として語れるというのだから、「私」もお玉も比較的平穏な余生を送っていることが考えられる。

「私」はきっと大学を卒業して、それなりの組織に入ってそれなりのキャリアを積んでこられたはずだ。
またお玉も、35年前の自分を冷静に語れるというのだから、末造の財産の一部を相続したり、はたまた自分の人生を切り拓いたのかもしれないし(明治時代の女にそれは困難だと思うが)、
なんらかの幸福を手にしていることを願う。
後編につづく)

三津田治夫