本とITを研究する

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「言文一致」を初導入した明治のサラリーマン文学 ~『浮雲』 二葉亭四迷~

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 明治20年に発表された『浮雲』を著した二葉亭四迷の名前は、「言文一致小説」の創設者として文学史に残されている。
 いまでは小説で会話体が出てくるのは当たり前だが、昔は口語文語というのがあって、明確に使い分けられていた。
 二葉亭四迷はそうした境界線をなくそうとしたわけで、読み物なんだから普段使っている口語も入れようよ、という運動をして、大衆小説にその技法を織り込んで成果を残した人である。

「言文一致」を日本文学に定着させた金字塔的作品
 ロシア語に堪能(さらに人造の国際言語「エスペラント語」にも堪能)な二葉亭四迷ツルゲーネフの作品の翻訳でも有名だが、彼は東京外語大学ロシア語学科のOBだから島田雅彦の先輩に当たる。
 彼は言葉を理論的に知る語学者だからこそ、日本語を語学としてとらえ、整理し、それまでにはなかった「言文一致」の技法を小説に取り入れることができたのだろう。
 23歳の主人公、内海は、子供のときから叔父に引き取られていて(叔父との関係というのは漱石の作品でもよく登場する)、そこの娘、勢子に恋してしまう。
 いとこへの恋愛なんていまでは考えられないが、当時としてはいとことの結婚などもあったのだから別に不思議ではない。
 叔母のお政からも、内海は娘の旦那にと公認されていた。
 内海には職場のライバルに、本田という男がいた。嫌みでおべっか使いの男だ。
 あるとき内海は職場から人数減らしのメンバーに加えられ、リストラされた。
 その間本田は上司にごまをすって昇進、昇級する。

 叔母のお政は、内海がリストラされたとたん、本田へと気が変わり、娘のお勢を彼と結婚させようとする。
 就職活動に手間取る内海だったが、復職のための口をきいてやるという本田の意向にプライドが許さず、一言で断った。
 他人がいる前で内海は、本田から「痩我慢なら大抵にしろ」と吐きかけられ、本田とは完全に敵対関係となる。

 そんなこんなでもお勢は自由人というか、本田にくっついたり、内海にくっついたりと、あっちこっちへふらふらしている。
 ちなみに「くっつく」と言っても、結婚したりつきあったりするわけではなく、「仲良し」になるぐらい。言葉で相手に「好きよ」とか「嫌い」とか言っている子供じみたレベル。
 そうしたお勢は訳がわからないが、お勢に振り回され続ける内海の態度もまたわからない。
 小説の最後は、内海が、お勢に告白しようかどうかと悩むところで終わる。

リストラに苦悩する明治人の微妙なメンタリティがうごめく作品
 いまの人がこの作品を読んだら、告白せずに悶々とする内海はなにをしているんだろうかと悩むかもしれない。
 これもまた明治人のメンタリティなのだろうか。告白することが男の恥、というか、当時は自由恋愛の考えすらなかっただろう。
 まあ、18歳ぐらいになると、いきなり両親が連れてきた人と結婚してしまうような時代だから、異性に対する対応やあり方はいまとはまったく異なる。

 それとこの作品では、昇進や昇給、そして職を失ってしまったことへの内海のコンプレックスがしつこく描かれている。
 官僚主義が日本に輸入されて間もない明治20年という時期に、作者が目にした「これ変だよね」という疑問の投げかけないし批判である。
 その辺に目をつけた二葉亭四迷ロシア文学に精通していたのは関係が深い。

 ロシア文学で官僚制批判といえば、決して忘れられない名前がニコライ・ゴーゴリだ。
 二葉亭四迷自身もゴーゴリの作品の翻訳を残しており、岩波書店の全集を見ると『狂人日記』『肖像画』『むかしの人』の3作品が収録されている。
 ゴーゴリは、組織やお金自体にしか人生の喜びを見いだせない悲しい人物の肖像を巧みに描き出す。
 たとえば、昇給して一所懸命買った外套が盗まれて人生のすべてを失ってしまう官吏や、勲章欲しさのあまり気が狂って自分が勲章に変身して歩き回ってしまう男、死んだ農夫の戸籍を買い集めて事業を企む詐欺師など、いずれも組織やお金にとりつかれて、「それがすべて」になってしまったかわいそうな男(小人物)たちばかりだ。

口語が文学に組み入られるということ自体、実に画期的な出来事だった
 内海のイヤミなライバル、本田に関する描写を、言文一致を確認してみるという観点から、引用してみたい。

 件の狆を御覧じて課長殿が
「此奴(こいつ)妙な貌(かお)をしているじゃアないか、ウー」
ト御意遊ばすと、昇(本田のこと)も
「左様で御座います、チト妙な貌をしております」
ト申上げ、夫人が傍から
「それでも狆はこんなに貌のくしゃんだ方が好いのだと申します」
ト仰しゃると、昇も
「成程夫人の仰の通り狆はこんなに
貌のくしゃんだ方が好いのだと申ます」
ト申上げて、御愛嬌にチョイト
狆の頭をなでて見たとか。

 こういう風に、本文中に口語が組み込まれてくるわけだ。

 こうした言葉の斬新な扱いは、明治人の目に、「新しいメディア」として新鮮に映り、読者は純粋な感動を覚えたことであろう。

 本田は、上司の言うことにそうですねそうですねと追従し、かたやその奥様が逆のことを言うとそれに追従するという具合に上司夫婦に取り入り、昇進昇給という手柄を手にしていったという、嫌らしい彼の仕事術が巧みに描かれた一文である。

 ちなみに言文一致の口語の対極をなす文語として、作者は皮肉っぽく内海の母親の手紙を取り上げている。以下引用する。

こう申せばそなたにはお笑い被成(なされ)候かは存じ不申(もうさず)候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧(もと)のように成り被成(なされ)候ように○○(どこそこ)のお祖師さまへ茶断(ちゃだち)して願掛け致しおり候まま、そなたもその積りにて油断なく御奉公口をお尋ね被成度(なされたく)念じまいらせそろ。

(以上引用新潮文庫より)

 内海のリストラ報告に対する母からの返信で、願掛けをしたからあんたもしっかりと就職活動しなさいよ、と、息子の復職を心から祈る、親心があふれるくだりだ。

 小説『浮雲』は、内容的には深みのある作品ではないし、また、未完の作品でもある(もしかしたら作者はあっと驚く奇想天外なエンディングを考えていたのかも)。
 それでも、どんどん読み進ませてしまう牽引力のある作品で(通勤中読んでいて、気がついたら隣の駅の乃木坂にまで乗り過ごしてしまった)、それは作者の言葉に対する深い洞察と配慮があったからだろう。

 小説は、内容もしかり、コンセプトもしかりだが、この、文体もまた価値として重要な位置を占めるのだなと、この本を通して改めて感じさせられた。

三津田治夫