本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

第29回飯田橋読書会の記録:『本居宣長』(小林秀雄著)(後編)

前編から続く)

さて、『本居宣長』の中でとくに重要なキーワードは「もののあはれ」と「ものしり人」である。
そして根柢に流れているのは「音楽」だ。
本居宣長は知識万能を嫌っていた。
知識をつけたうえで、それを超える感性を備えなさい、ということを言っている。
そうした力で本居宣長は、古事記という誰も読むことができなかったものを日本人が読める言葉へと翻訳することに成功した。
そして本居宣長は、源氏物語を「もののあはれ」というキーワードで再評価し、中世の日本古典に新たな光を当てた。

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本居宣長が自分で設計した墓地(三重県・松坂)

本業は小児科の医師であり、本業で得たお金を竹筒にためて本を出版した。
そして出版費用を賄うために、出版物に広告を入れた。
日本初の出版広告を出した人物としても知られている。
生前にはなにを思ったのか、自分のお墓の図面を残している。
その図面は『本居宣長』に掲載されている。
本居宣長の愛する山桜が背後に植えられたお墓が、彼の故郷である松阪に実在する。

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宣長が描いた墓地の図面

テレビ文化以前に開花した最後の知識人

再び、小林秀雄に戻る。
古事記と一体化する本居宣長同様、小林秀雄も対象と一体化し、対象が憑依している。

「小林は感動を伝えたいだけなんだろう」
「『モオツァルト』の中で、急に出てきた旋律を楽譜におこしているが、小林は音楽と同一化している」
「同じように、小林の中に文書が浮かんできて、それを書くだけ」
「そういう、乗り移ってる感じが多い。憑依型。ランボーの作品を読んでも同じようになりきっている」
「この本に関しても本居になりきっている。古事記に入り込む本居に共感している点はよくわかる」

小林秀雄の『パイドロス』論を読んでもよくわかるが、この中でも小林秀雄ソクラテスになりきっている。
基本、この人のスタイルは、憑依型なのである。

「ある意味、20世紀の知識人、文学者。洗練されていない野蛮な時代の知識人である」
「テレビで大衆化した知識人が出る以前の“最後の知識人”という感じ」

という発言にも納得がいく。

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本居宣長が小児科を営んだ旧宅「鈴屋」(松坂)

はたして本居宣長は「知識不要論者」か?

読書会の終盤は「私と『本居宣長』」をテーマに語りあった。

「いまの瞬間まで肯定的に楽しめたんだが、実は自分にはネガティブな意見がある」

としながら、

「それは、小林も本居も言う、反知性主義。それは良くないと思っている」

という、小林秀雄本居宣長の本質的なあり方に疑問を投げかける発言があった。

「ある程度の知識量がないとどういう話かがわからないし、知識はやはり大事にしなければいけないだろう」
「しかしこの本では“そうではない”という点が疑問」
「知識がなくては読めないものに関し、最後の最後で知識を捨てろと言っているようなものだ」

という意見が出た。
これに対し、

「この本では、知識がなくてもよいとは言っていない」
「小林も本居も圧倒的な知識を持っている。そういう人が言っていることに逆説がある」

という冷静な反論があがったことは付け加えておく。
いわば小林も本居も、知識という「型」を身につけ、それを超越した「型破り」をせよ、ということを言っているのである。
これに関し、

「こういうことを批判されるときに返せるだけの知識を彼らは持っている」
「それは“批判を封じ込める”という危険性をはらんでいる」
「ある意味、二人ともいやみな人物」

という発言で、「知識不要論」にまとまりをつけていただいた。

類似の意見で、辛らつなものもあった。

「やはり小林はいやらしい人である」
「知識人の中でも自分はまったく別格なんだということが言いたいのだろう」
「識者といっても、お前らはモノを知っているだけで考えていないだろう、という語気を感じた」
ソクラテスソフィストの関係のようだ」

辛らつではあるが、的を射た表現である。

現代の評論家との絡みにおいて、以下のような貴重な意見もあがった。

「『本居宣長』ははっきり言ってさっぱりわからず、それ以降読まなかったし、感銘も受けなかった」
「ある対談で一生懸命小林のことを否定しているものがあった。なぜそこまで小林をクローズアップしているのかがわからなかった」
「他者も批判や肯定をしている中、小林がどれくらい大きな存在なのかがわからなかった」
「この本を読みながら思ったのは、彼ら後進の評論家は小林に相当大きな影響を受けたのだということ」
「小林をどう乗り越えればよいのかということを、彼らは無意識でやっていたのだろう」
「この本を読んで、別のことがわかった点がよかった」

やはり小林秀雄は、日本近代批評の父であることは間違いなさそうだ。


小林秀雄本居宣長に宛てた「ラブレター」

最後に、『本居宣長』に関して、

「この本は、小林が本居に宛てたラブレターではないか」

という、美しい比喩が聞こえてきた。

「小林が思うまま、熱情に身を任せて書いた、という感じがする」
「小林はきっと、誰にでもわかってほしいとは思っていないはず」
「原文を付けた後に自分の解釈を付け、それを解釈する方が大衆としてはわかりやすい」
「しかしそれをあえてしなかった。そこが、やはりラブレターなのかな」
「自分の思いをぶちまけたような本だったのか」

これには深く共感する。
小林秀雄古今東西のあらゆる芸術に心の赴くままに向かっていき、そして、「ラブレター」を送り続けた。
そうした愛と情熱の軌跡が、小林秀雄の紡ぎだした言葉、作品なのである。

最後は全体のまとめとして、以下の発言があがってきた。

小林秀雄の作品は好き嫌いがはっきり分かれる。
小林秀雄には「国語を大事にしよう」という意識を感じる。
・学ぶことはとても重要。人を説得したり論破するのは自分の能力を見せつけるだけで、意味のないこと。実際は作品に入って学ぶことが大切。
小林秀雄は対話を大事にする人物である。
・「もっと注目されるべき人物」として小林秀雄本居宣長を取りあげた。ここに小林秀雄の功績がある。
・いままで取り上げた本の中で最も読みにくかった。大変だった。時間がかかった。
・読んだ後の達成感は大きい。「やっと終わったぞ!」という大著だった。
・難しいけど楽しく読めた。
・「小林は本居の大ファン」ということがよくわかった。

くせ者作家がくせ者国学者を取り上げた難物大著に皆様取り組んでいただき、本当にお疲れさまでした。
(この後は年末恒例の読書会忘年会の席として中華料理店に移動したことは言うまでもない……)

ちなみに、晩年を鎌倉に過ごした小林秀雄のお墓が、鎌倉の東慶寺にある(https://www.e-ohaka.com/guide/column/kobayashihideo/)。

近くには澁澤龍彦岩波茂雄小林勇のお墓もあり、出版の神様を拝みたい人にとってはうってつけの巡礼地である。

  *  *  *

次回、記念すべき第30回読書会で取り上げるテーマは、またまた趣を変え、戯曲である。
本会の中では評判のよくない戯曲というテーマ。
それでも次回は、『ガリレイの生涯』(ブレヒト)を取り上げる。
地動説を唱え、天動説を固持する教会と激しく対立した天文学者ガリレオ・ガリレイの人生を描く名著。
科学と権力の狭間に生きた男の戦いを読み、どことなく福島第1原発事故と権力の関係を感じるのは、私だけではないはずだ。

それでは次回も、お楽しみに。

三津田治夫