本とITを研究する

「本とITを研究する会」のブログです。古今東西の本を読み、勉強会などでの学びを通し、本とITと私たちの未来を考えていきます。

東京ステーションギャラリーにてバウハウスの歴史を観覧。付録:オスカー・シュレンマーのエッセイ『人間と芸術像』

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「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」と題し、東京ステーションギャラリーで展覧会が開催された。9月6日(日)の最終日もそろそろ近づいてきたので、猛暑日、足を運んでみた。

f:id:tech-dialoge:20200823182533j:plain◎出口には実際に座れるマルセル・ブロイアーのパイプ椅子があった

チケットは日時指定のオンライン予約制で、引き取りと支払いはローソンかミニストップで行うという大きな制約があった。
それでも会場では観客の数が多く(休日の上野の美術館や博物館よりも多いか同じぐらいの人口密度)、正直、驚いた。とくに、若いカップルが多かったのが印象的だった。

f:id:tech-dialoge:20200823182641j:plainオスカー・シュレンマーの作品「脚を組んだ抽象的人物」
ホールの半ばでは、オスカー・シュレンマー(1888~1943)の舞踏、「トリアディッシェス・バレエ」の動画に見入ってしまった。ダンスと造形の魔術である。
「黄色」「バラ色」「黒」の3部構成、30分の作品で、YouTubehttps://youtu.be/mHQmnumnNgo)でも閲覧できる。
人間の「身体」に取り組んだというシュレンマーの紹介が記憶に深く残る。

いま、人々はアートに飢えているのか。あるいは、「開校100年 きたれ、バウハウス ―造形教育の基礎―」のマーケティングと宣伝の成功か。おそらく、双方だろう。

あの自由と知性、教養に満ちた創造性は、制約の多いまの時代から見たら、とても新鮮である。そして、学ぶことが多い。もしかしたら当時のアーティストも「こんなに制約の多い時代はない」と思っており、その反発としての創造性だったに違いない。

1918~1920年スペイン風邪が流行し、そのさなか1919年にバウハウスが開校したのも意味が深い。さらに1923年のミュンヘン一揆ナチスが活動を本格化し、1933年に政権を獲得。それと同時にバウハウスは解散させられている。ウイルス・芸術・ファシズムという世界史の三題噺を忘れてはならない。

最後に、関連記事と、昔私が訳したオスカー・シュレンマーのエッセイが出てきたので、掲載する。

◎関連記事
バウハウス ~引き継がれるべき、一つの歴史が終わったこと~
バウハウスを訪ねる旅(前編) ~ヴァイマール/ベルリン/デッサウ~
バウハウスを訪ねる旅(後編) ~ライプツィッヒ~

三津田治夫

 
『人間と芸術像』(オスカー・シュレンマー
劇場の歴史とは人間形態変遷の歴史だ。その「人間」とはすなわち、無邪気さと思慮深さ、自然性と芸術性の交換の中で、身体的・精神的な出来事の表現者だ。

形態変遷の手がかりとなるものは「フォルム」と「色彩」、つまり画家や彫刻家の持つ素材である。形態変遷の劇場は「空間」と「建築様式」といった、構築的なるフォルムの構造であり、バウマイスターの成果物だ。--このことを通じ、これら諸要素のインテグレーターと教育を受けた芸術家の役割が劇場という領域において成立する。

     * * *

われわれの時代の記号は「抽象」である。一方でそれは、できあがったある総体からの一部の分離として効果を与え、それにより分離自体に理不尽なものをもたらすか、あるいは分離を最大限にまで高めるかで、他方では一般化と抽象化において効果をもたらし、巨大なスケッチの中に一つの新しい総体を形成する。

われわれの時代の記号は「機械化」ともいえ、阻止不能なプロセスは生命と芸術の全領域をとらえて離さない。あらゆる機械化可能なものは機械化されうる。が、結果は以下の通りだ。つまり、機械化は不可能という認識である。

そしてとりわけ、われわれの時代の諸記号とは、新たな可能性である。それらは技術と発明により与えられ、そして完全に新しい前提条件を何度も生み出し、また大胆不敵な空想の実現をも許して希望を促す。

時代形成であるべき劇場は、とりわけ時代に制約された芸術であり、こうした諸記号の前を通り過ぎてはならない。

     * * *

「舞台」と一般的に把握されているものは総体領域とも呼ばれよう。それは宗教的礼拝と簡素な大衆娯楽の中間に位置し、その双方は舞台たること、すなわち人間へ与える効果を目的として自然を抽象化した「描写」とは異なる。受動的な観衆と能動的な役者からなるこのような対象は、壮大な古代円形劇場から広場に備え付けられた原始的な板組のものまで、舞台のフォルムをも決定付ける。集約への欲求はのぞきからくりを、今日では舞台の「ユニバーサル」なフォルムを作り出した。「劇場」は舞台の根本的本質を描き出す。つまり、役に扮することと仮装、変身である。宗教儀礼と劇場の中間に横たわるものを「ショーの舞台を秩序ある公共施設として見る」と、劇場とカーニバルの中間にはサーカスとバラエティが存在する。すなわち、ショーの舞台とはアーティストによる公共施設なのだ。存在と世界の起源からなる問題は、そもそも言葉とは、行為であるのかフォルムであるのか、あるいは精神とは変化なのか形態なのか、また感覚は事件なのか現象なのか、これらは舞台という世界においても生命を持っており、そしてこれらの相違を文芸的あるいは音楽的事件という「脚本または音響舞台」へと身を委ねる、光学的事件としての「ショーの舞台」である。これらの類としての代表者に登場願おう。つまり、言葉や音響の密度を高める役割としての「詩人」(作家もしくは作曲家)、自分の姿を使って役をこなす者としての「役者」、そしてフォルムと色彩において舞台像を作り出す者としての舞台「芸術家」だ。

これらの類のすべては自分自身を構成し、自分自身の内面を完成させる能力がある。2つないし3つすべての類による相乗効果は(それらにあって1つはリーダーたる必要があるが)、数学的精緻さにまで成功が見込まれる重量分配が問題となる。これらを実行する者とはつまり、ユニバーサルな「演出家」である。

(原典:Idealist der Form, Briefe・Tagebuecher・Schriften, RECLAM LEIPZIG、訳:三津田治夫)